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第9話「遊女の涙」②

 年季。遊女としての契約期間のことだ。通常は十年で、二十七歳になるまでが原則だった。夕霧はまだ若い。きっと十代前半で売られてきたのだろう。それを思うと、胸が痛んだ。


「それは……」


 お春は慎重に言葉を選んだ。前世のカウンセリング技術では、クライエントの感情を決めつけてはいけないと学んでいた。相手の感情を引き出し、受け止めることが大切だった。


「どのようなお気持ちでいらっしゃいますか」


「やっと……やっと自由の身になれます」


 夕霧の声には、長い間暗い籠の中で抱き続けてきた夢への憧れが込められていた。しかし、すぐに美しい表情が雲に覆われたように曇る。


「でも……」


「でも?」


「想い人がいるのです。清吉という、大工の棟梁でして」


 その瞬間、夕霧の目が劇的に一変した。恋をしている女性だけが見せる、特別な光に満ちる。瞳がきらきらと星のように輝き、頬にも薄く桜色の赤みが差す。まるで冬枯れの野に花が咲いたような、美しい変化だった。


「優しいお方なのですね」


 お春の問いかけに、夕霧は嬉しそうに、幸せそうに頷いた。


「はい。初めて出会ったのは三年前の夏祭りで。私が用もないのにぼんやりと町を歩いていた時に、『大丈夫か』と声をかけてくださったのです」


 夕霧の声が弾んでいる。恋人のことを語る時だけに現れる、特別な輝きがあった。それは、どんな高価な宝石よりも美しい光だった。


「その時の清吉さんの目を、私は死ぬまで忘れることができません。私が遊女だと知っても、全く変わらない優しい眼差しで見てくださったのです」


「素晴らしい方ですね」


「はい。それからというもの、時々お店に足を運んでくださって。お客としてではなく、ただ私の話を聞くために」


 夕霧の表情がさらに柔らかく、美しくなった。真実の愛を知った女性だけが見せる、深い安らぎと幸福感がそこにあった。


「清吉さんは私に『お前は俺の大切な人だ。必ず迎えに行く』と言ってくださいます」


「それなのに、なぜ迷われるのですか」


 夕霧の表情が急に暗雲のように暗くなった。


「身請けには莫大なお金がかかるのです。私のような中級の遊女だと三百両は必要だと」


 お春は息を呑んだ。三百両といえば、庶民の七、八年分の生活費に相当する。大工の棟梁とはいえ、それは天文学的な金額だった。


「清吉さんは?」


「必死に工面しようとしてくれています。でも……」


 夕霧は俯いた。珈琲の湯気が頬を湿らせているように見えたが、それは涙だった。一粒、また一粒と、まるで夜露のように茶碗の中に落ちていく。


「大工の仕事は天候にも左右されます。怪我でもすれば収入が途絶えてしまいます。私のせいで、あの方の人生を台無しにしてしまうのではないかと」


 夕霧の華奢な肩が小刻みに震えていた。愛する人を苦しませたくない気持ちと、でも一緒にいたいという想いが、美しい心を残酷に引き裂いている。


 まず、クライエントの恐れの根源を明確にすること。問題を整理して、解決可能な形に分解することだった。


「夕霧さん、一番心配なのは何でしょうか」


「もしも身請けがうまくいかなかった時……年季が明けても、私には何も残りません」


 夕霧の美しい声が次第に小さくなっていく。


「読み書きもできないし、まともな商売のこともわからない。結局、また遊女に戻るしかないかもしれません」


 その言葉に込められた絶望の深さに、お春の胸が痛んだ。この人は、本当の意味での自立を求めているのだ。男性に頼るのではない、自分の力で生きていく道を。


 問題解決のためには、まず具体的で実現可能な目標設定が必要だ。そして、それを達成するための段階的なプランを立てること。希望を持てるようなビジョンを描くことが重要だった。


「夕霧さん、もし失礼でなければお聞きしますが、年はおいくつですか」


「二十一になります」


「では、年季明けまで約一年ありますね。その間に、読み書きと商売の基礎を学ぶことは十分可能です」


「学ぶ?」


 夕霧が顔を上げた。その目に、かすかだが確実な光が宿る。まるで暗闇の中に小さなろうそくが灯ったような、希望の光だった。


「はい。まず文字から始めましょう。毎朝この時間に来ていただければ、一字ずつ丁寧にお教えします」


「本当でございますか」


 夕霧の声に驚きと期待が込められていた。


「もちろんです。そして文字が書けるようになったら、商売の記録の付け方、お客様との接し方、商品の仕入れ方も」


 お春の言葉に、夕霧の表情が劇的に変わった。驚きと、そして長い間諦めていた夢が蘇る希望。その変化は見ている者の胸を打つほど美しかった。


「私にも……できるでしょうか」


「もちろんです。実は」


 お春は声を低くした。前世のことは言えないが、経験は伝えられる。


「私も昔、文字の読めない女性たちに教えた経験があります。皆さん、最初は不安がっていましたが、一年もすると立派に商売ができるようになりました」


 これは嘘ではない。大人の学習能力は、動機さえあれば驚くほど高いことを知っている。


「段階的に進めましょう。最初の一か月は、ひらがなから。二か月目にはカタカナ、三か月目からは簡単な漢字」


 夕霧の目が大きく見開かれた。まるで暗闇の中に太陽が昇ったような表情だった。


「そして半年もすれば、帳簿もつけられるようになります。商売の基礎知識も身につきます」


「でも、私はもう汚れた身で……そんな私に文字を教えてくださるなんて」


「そんなことはありません」


 お春の声は力強く、確信に満ちていた。前世でも、多くの女性に同じことを伝えてきた。


「人の価値は、過去によって決まるものではありません。これからどう生きるかで決まるのです。それに」


 お春は温かく微笑んだ。


「もし清吉さんが本当にあなたを愛していらっしゃるなら、あなたが自立への努力をしている姿を見て、きっともっと心強く思われるはずです」

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