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第8話「花火の夜」④

 信之の目が、花火の光を反射してきらめいていた。その瞳の奥に、深く熱い感情が宿っている。


「ありがとうございます」


「でも」


 信之の表情が急に苦しそうに曇った。眉間に深い皺が刻まれ、口元も痛みに歪む。


「私は旗本の次男、お春殿は商人の娘。この身分の差は、法によって厳格に定められております」


 お春の胸に、氷の刃で心臓を貫かれたような冷たい痛みが走った。


「武士が身分違いの縁組をするには、藩主の許可が必要です。しかし、商人との結婚など、決して許されるはずがありません」


 信之の声が震えている。その苦しみは、お春にも痛いほど、胸を引き裂くほど伝わってきた。


「最悪の場合、家名断絶、所領没収という処罰も覚悟しなければなりません」


 お春の目から、涙がこぼれそうになった。現代なら、愛があれば一緒になれる。しかし、この時代では、愛だけではどうにもならない残酷な現実がある。


「これ以上お会いするのは、お春殿にとって良くないことかもしれません」


「そんなことは」


 お春は思わず声を上げそうになった。でも、信之の苦悩している表情を見ると、言葉が喉に詰まってしまった。その苦しみは本物だった。


「私もお春殿と同じ気持ちです」


 信之が振り返る。その目に、深く熱い愛情と、それと同じくらい深い絶望が宿っていた。


「でも、だからこそ、これ以上は」


 花火がまた上がった。今夜一番大きな光が空いっぱいに広がり、二人を明るく照らし出す。そしてすぐに闇に戻る。まるで二人の運命を象徴しているようだった。一瞬の美しさと、その後に続く暗闇。


「信之様」


 お春の目に、涙が溢れてきた。胸の奥に、言いようのない痛みが渦巻いている。


「私は」


「お春殿」


 信之はお春の方に向き直って、その小さな手をそっと握った。温かくて、大きくて、優しい手だった。しかし、その手も激しく震えている。


「私の気持ちは決して変わりません。でも、身分の壁は現実です。お春殿を不幸にするわけにはいきません」


「分かっています」


 涙がひとつぶ頬を伝った。それでも、お春は信之の目をまっすぐに見つめた。前世で学んだことがある。本当の愛は、相手の幸せを第一に考えるものだと。でも、それでも諦めきれない気持ちもある。


「でも、それでも私は」


「それでも?」


「待っています」


 お春の声は震えていた。しかし、その中に確固たる意志があった。


「もしかしたら、何か方法があるかもしれません。時代が変わることもあります」


 信之の目にも、涙が浮かんでいた。


「お春殿」


「私、前世で」


 また口が滑りそうになって、慌てて言い直す。


「夢でいろいろな世界を見ました。身分を超えた愛が成就することもありました」


 二人の距離が縮まった。しかし、最後の一歩が踏み出せない。身分の壁が、目に見えない巨大な境界線となって二人の間に立ちはだかっている。


 その時、今夜最大の花火が上がった。


 空いっぱいに広がる巨大な光の輪。群衆からも、今夜一番大きな感嘆の歓声が天に向かって上がった。光に照らされた二人の顔が、一瞬だけ神々しくはっきりと見えた。信之の決意に満ちた美しい表情、お春の希望に燃える瞳。


「私も待ちます」


 信之が小さく、しかし確かにつぶやいた。


「必ず道を見つけます。たとえ武士を捨てることになっても」


「いえ、そのようなことは」


 お春は首を振った。


「信之様らしく生きてください。きっと、お二人ともが幸せになれる道があります」


「はい」


 信之は涙を拭って、強く頷いた。胸の痛みの奥に、小さな希望の光が確かに灯っている。


 花火が終わり、人々が三々五々帰り始めた頃、二人もゆっくりと歩き始めた。


 足音だけが静かに響く。言葉は少ないが、心は深く通じ合っている。


「今夜は、ありがとうございました」


「いえ、こちらこそ」


 別れ際、信之が振り返った。その表情に、痛みと希望が複雑に入り混じっている。


「また必ず」


「はい。待っています」


 信之が人混みの中に消えていくのを、お春はいつまでも見つめていた。胸が痛いのに、同時に温かくもある。愛することの喜びと苦しみが同時に存在する、不思議で複雑な感情だった。


 その夜、家に帰ったお春は、一人で今日のことを振り返っていた。


 珈琲の大盛況、甚兵衛の新作菓子、そして信之との運命的な再会。


 身分の壁は確かに高い。でも、お互いの気持ちは確認できた。それだけでも、今夜は十分だった。信之の温かい手のひらの感触が、まだ手に残っている。


 前世では当たり前だった自由恋愛も、この時代では命がけの選択になる。それでも、愛は愛だ。きっと道はある。


「必ず道はある」


 お春は窓から夜空を見上げて、小さくつぶやいた。


 花火の余韻が、まだ心に残っている。遠い空に、まだかすかに光の残像が見えるような気がした。


 明日からまた、商売に励もう。そして、いつか必ずやってくる、その日のために準備をしておこう。愛する人のために、自分も成長し続けなければ。


 遠くで夜警の拍子木が響いている。「火の用心、火の用心」という声が、静かな夜を告げていた。


 珈琲茶屋の新しい挑戦と、身分を超えた愛の物語が、また一歩大きく前進した夜だった。商売の圧倒的な成功と恋の深い進展。二つの幸せが同時に訪れた、記念すべき特別な夜でもあった。


 星空の下、お春の心には希望の光が静かに、しかし確かに燃え続けていた。そして、田中美咲として学んだ「愛は時代を超える」という信念が、胸の奥で力強く息づいていた。

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