第1話「転生と覚醒」②
蔵の奥で、足音を止めた。
隅に、小さな麻袋が置かれている。埃をかぶり、長い間放置されていたようだった。
近づいて中を覗くと、茶色い豆のようなものがぎっしりと詰まっていた。鼻を近づけた瞬間、電流が走るような衝撃を受けた。
この香り。
心臓が激しく打つ。手が震える。全身に鳥肌が立った。
「まさか……珈琲豆?」
田中美咲の記憶が鮮明に蘇ってくる。
毎朝扱っていた豆の香り、色合い、形状。一粒一粒の大きさ、表面の光沢。間違いない。これは確実に珈琲豆だった。
袋の脇には、鉄製の平たい道具も置いてある。形を見る限り、焙煎用の焙烙のようだった。縁が浅く、手で振って炒るのに適している。
「どうしてこんなものが」
お春の記憶を辿ると、断片的に思い出した。
父が長崎の商人から譲り受けたという話。南蛮渡来の薬になる豆だと聞いたが、使い方がわからず、蔵にしまい込んでいたのだ。
豆を一粒手に取る。指先で転がしてみると、確かな重みがある。
間違いない。現代のカフェで毎日扱っていた珈琲豆と、まったく同じものだった。
胸の奥で、小さな光が灯った。
これがあれば、珈琲を淹れることができる。田中美咲として培った知識と技術を、この江戸という時代で活かすことができるかもしれない。
焙烙を手に取り、豆を少し入れてみる。金属の冷たい感触が手のひらに伝わってくる。
火にかけて焙煎し、挽いて、湯で抽出すれば珈琲になる。道具は違っても、基本的な原理は変わらない。温度管理と時間、そして豆の状態を見極める技術。すべて身に付いている。
しかし、問題もあった。
お春の記憶をどれだけ辿っても、珈琲を飲んだことがある人の話は出てこない。この時代には、珈琲を飲む習慣がないのだ。
だからこそ、チャンスでもある。
田中美咲として培った珈琲の知識と技術、カフェ経営の経験。そして、お春として持っている江戸での商売感覚。
二つの人生が重なった今だからこそ、できることがあるはずだ。
「お春様、お戻りでございますか」
お松の声が響いた。玄関の方から、重い足音が近づいてくる。下駄の音が、疲れを物語っていた。
「ただいま戻りました」
低く疲れきった男性の声が聞こえた。父の春之助だった。
急いで珈琲豆を袋に戻し、蔵から出る。
玄関に向かうと、初老の男性が肩を落として立っていた。
質素な着物を身に纏い、顔には深い皺が刻まれている。商売の苦労が、全身から滲み出ていた。背中は丸くなり、歩き方にも元気がない。
「父上、お疲れ様でございます」
「おお、お春。もう大丈夫なのか」
春之助の疲れた顔に、安堵の色が浮かんだ。
娘を思う父親の愛情が、疲労の奥から垣間見える。手を伸ばして、お春の額に触れた。熱が下がったことを確認して、ほっと息を吐いた。
「はい。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
「いや、お前が元気になってくれれば、それに勝る喜びはない」
しかし、その表情はすぐに暗く沈んだ。
「借金の方は……」
「厳しい」
春之助が深いため息をつく。
「元手がなければ、呉服商を再開することもかなわない。かといって、別の商売を始める資金もない」
肩を落とし、頭を抱える姿が痛々しかった。
「お前には苦労をかけるが、しばらく辛抱してくれ」
「父上」
珈琲豆のことを話そうかと迷った。
しかし、まだ時期尚早だと判断する。まずは実際に珈琲を淹れて、その可能性を確かめてからにしよう。説明も難しいし、信じてもらえるかどうかもわからない。
その夜、春之助とお松が寝静まるのを待った。
二人の寝息が規則正しく聞こえてくる。月明かりだけを頼りに蔵へ向かい、珈琲豆の袋を台所に運ぶ。
火鉢に炭を起こし、焙烙を火にかけた。炭の赤い光が、暗い台所を温かく照らし出す。静寂の中で、パチパチと小さな炭の弾ける音だけが響いていた。
豆を入れて、ゆっくりと炒り始める。
田中美咲として何千回も繰り返した作業だ。豆の変化を見極め、音を聞き、香りで判断する。すべてが身体に染み付いている。
道具が変わっても、基本は同じだった。
豆が少しずつ茶色く色づいていく。香ばしい匂いが立ち上がり、パチパチと小さな音を立てて弾けていく。
懐かしい香りが台所に満ちていく。何度かき混ぜながら、均一に熱が通るよう注意深く炒り続けた。
適度なところで火から下ろし、粗熱を取る。それから、すり鉢で丁寧に豆を挽いた。
電動ミルはないが、手で挽くからこそ出る風味もある。すり鉢でゴリゴリと挽いていくと、より濃厚な香りが立ち上がってくる。
挽いた豆を急須に入れ、熱湯を注ぐ。蒸らしの時間を心の中で数え、そっと茶碗に注いだ。
湯気とともに、懐かしい珈琲の香りが立ち上がる。
そっと口をつけると、確かに珈琲の味がした。
少し酸味が強く、現代の豆とは風味が異なるが、間違いなく珈琲だった。苦味の奥に、深いコクが広がっている。温かな液体が喉を通り、身体の奥まで染み渡っていく。
涙が頬を伝った。
この香り、この味。
田中美咲として愛し続けた珈琲が、江戸時代でも飲める。それが、どれほど嬉しいことか。故郷の味を見つけたような、安堵と喜びが胸を満たした。
「これで生きていこう」
小さくつぶやいた言葉には、固い決意が込められていた。
珈琲を武器に、この江戸で新しい商売を始めよう。父の借金を返し、お松にも楽をさせてあげよう。そして、多くの人に珈琲の素晴らしさを伝えよう。
田中美咲の技術と経験、お春の江戸での知識。
二つの人生が重なった今だからこそ、できることがあるはずだ。
茶碗を両手で包み、最後の一滴まで味わった。
温かな液体が喉を通り、身体の芯まで温めてくれる。明日から、新しい人生が始まる。
月光が台所の窓から差し込み、珈琲の香りが静寂の中に漂っていた。
夜風が障子の隙間を抜け、炭火が小さくちろちろと燃えている。
すべてが静寂に包まれた中で、お春は未来への第一歩を踏み出していた。夜明けまでには、まだ時間がある。しかし、心の中には確かな光が灯っていた。
珈琲の香りと共に、新しい物語が始まろうとしている。
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