第8話「花火の夜」③
何か辛いことがあったのだろうか。あの縁談の件で、まだ苦しんでいるのだろうか。
信之は屋台を見回して、心から感心したような表情を見せた。
「立派な商売をされておりますな。この驚くべき賑わいぶりを見ていると、珈琲が江戸の人々に深く愛されているのがよく分かります」
「ありがとうございます」
お春は誇らしさで胸がいっぱいになった。あの雨の日の小さな茶屋から、ここまで発展した商売を信之に見せることができて、言葉では表現できないほど嬉しかった。同時に、信之に認めてもらえたという満足感が、心を温かく満たしていた。
「あの時お話しいただいた通り、本当に多くの方々に愛される場所になりましたね」
信之の声には、お春の成長を心から祝福し、誇らしく思う気持ちが深く込められている。
「信之様にいただいたお言葉が、いつも励みになっておりました」
お春のその言葉に、信之の目がきらりと星のように光った。嬉しそうな、それでいて少し切ないような複雑で美しい表情を見せる。
「珈琲を一杯、いただけますか」
「もちろんです」
お春は今まで以上に丁寧に、魂を込めて珈琲を淹れた。信之のために、最高の一杯を作りたかった。心を込めて豆を挽き、温度も時間も完璧に調整する。愛しい人のために作る珈琲は、いつもより香りも味も格別のように思えた。
信之が珈琲を受け取る時、指先が軽く触れ合った。その瞬間、稲妻のような甘い感覚が全身を駆け抜け、お春の頬が燃えるように熱くなる。信之の指は温かく、少し荒れていた。剣の稽古を続けている武士の、誠実で強い手だった。
「ありがとうございます」
信之も少し照れたような、しかし幸せそうな表情を見せた。茶碗を持つ手が、わずかに震えている。
その時、人混みがざわめき始めた。
「花火が始まるぞ」
「上がった、上がった!」
夜空に、最初の花火が打ち上げられた。
シューッという美しい音とともに光の玉が空高く舞い上がり、オレンジ色の光が闇を切り裂いて大きな円を描いて広がる。ドンという大きな音が一拍遅れて響いてきて、群衆から歓声が天に向かって上がった。
「綺麗ですね」
お春が見上げると、信之も同じように空を見つめていた。花火の光が、信之の美しい横顔を神々しく照らし出している。
「はい。毎年見ていますが、やはり美しい。しかし、今夜は特別に美しく見えます」
二発目、三発目と続いて花火が上がる。光だけの花火だが、その分、夜空に描かれる光の軌跡が神秘的で幻想的だった。大きな音が響くたびに、お春の心臓も一緒に高鳴る。
人混みがさらに激しくなり、屋台の周りも押し合いへし合いの状態になった。
「これでは商売になりませんね」
信之が苦笑いした。
「少し場所を変えませんか」
「でも、商売が」
「もう売り切れですよ」
見ると、確かに珈琲はすべてなくなっていた。お松が嬉しそうに片付けを始めている。
「では」
信之は屋台を押しながら、人混みから離れた場所へと導いた。川岸の少し高台になったところで、花火が完璧に見える静かで美しい場所だった。
「ここなら落ち着いて見られます」
二人きりになった瞬間、空気が劇的に変わった。祭りの賑やかな喧騒が遠のいて、急に魔法のような静寂に包まれる。花火の光だけが、二人を幻想的で美しく照らしていた。
お春の心臓の音が、やけに大きく響いて聞こえる。田中美咲として過ごした前世では、恋愛も自由だった。好きになれば付き合い、結婚も当人同士の意思で決められた。しかし、この江戸時代では、身分という越えられない高い壁がある。その現実が、胸を締め付けるような痛みとなって迫ってくる。
「今日は大盛況でしたね」
信之が話しかけた。声が少し震えている。
「はい。珈琲講のおかげで、本当に多くの方に知っていただけました」
「あの件は聞いております。大変だったでしょう」
信之の声に、深い心配と労りが込められていた。お春を案じる気持ちが、言葉の端々に愛おしさとなって滲んでいる。
「でも、乗り越えられました。多くの方が助けてくださったので」
お春は振り返って微笑んだ。信之も優しく、深い愛情を込めて微笑み返す。その笑顔に、お春の胸がきゅっと甘く締め付けられた。
また花火が上がった。今度はより大きく、より美しい光の輪が夜空に見事に描かれた。光が二人の顔を神々しく照らし、そしてすぐに闇に戻る。
「お春殿」
信之が急に真剣な表情になった。
「はい」
お春の胸が激しく跳ねた。何かを言いたそうな、でも迷っているような表情を信之が見せている。
「あの雨の日以来、ずっと考え続けていたことがあります」
「どのようなことでしょうか」
「お春殿とお話ししていると、心が安らぎ、魂が救われるような気持ちになります。商売のお悩みも、恋の悩みも、すべてお話ししたくなる」




