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第7話「商売敵の出現」②

 その時、店の奥から春之助が現れた。娘の様子がおかしいことに気付いて、心配になって出てきたのだろう。


「お客様でございますか」


「いえいえ、お客ではない」


 権三は春之助を見下すような視線を向けた。没落した商人への軽蔑が、あからさまに表情に浮かんでいる。しかし、その軽蔑の奥に、自分も同じ運命を辿るかもしれないという恐怖が隠れているようだった。


「同業者として、忠告に参ったのじゃ」


「忠告と申しますと」


「その珈琲とやらは、やめた方がよろしかろう」


 権三の声に、脅しに近いものが込められていた。握りこぶしを作った手に、商売での勝負に慣れた者の冷酷さがある。だが、その手もわずかに震えているのを、お春は見逃さなかった。


「江戸の人々は、伝統的な茶を好む。南蛮の奇怪な飲み物など、根付くはずがない」


 お春の手が、知らぬ間に拳になっていた。この人が。この人が噂を流したのだ。


「それに」


 権三は振り返って、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だが、その笑みの奥に一抹の不安があることを、お春は感じ取った。


「毒の噂が立った店で、誰が飲み物を注文するかな」


 権三が去っていく後ろ姿を、お春は怒りと絶望で見つめていた。しかし、その背中からは老舗の威厳ではなく、追い詰められた一人の商人の哀しみが感じられた。完敗だった。商売の世界の厳しさを、まざまざと見せつけられた。


 それから三日間、客は誰一人として現れなかった。


 座卓は空のままで、用意した珈琲も冷めていく。茶碗に映る自分の顔が、やけに小さく見えた。借金取りからの催促も厳しくなってきた。このままでは本当に店を畳むしかない。


「お嬢様」


 お松が心配そうに声をかける。


「きっと、誤解は解けます。珈琲の素晴らしさを知っている方々が、必ず」


「でも、どうやって」


 お春の声は力ない。喉の奥が詰まって、うまく言葉が出ない。


「このまま客が来なければ、店は」


 父の借金のことが頭をよぎる。せっかく軌道に乗り始めた商売が、こんな形で終わってしまうのだろうか。前世では、SNSで正確な情報を発信したり、メディアに対抗することもできた。だが、この時代では瓦版が全てだ。


 膝に顔を埋めたお春の耳に、複数の足音が聞こえてきた。


 顔を上げると、柳田玄白を先頭に、津川、木村、佐藤の医師たちがやってきた。表情は皆、雷雲のように深刻だった。しかし、その目には強い決意の光が宿っている。


「お春殿、大変なことになっておりますな」


 玄白の表情は真剣だった。普段の穏やかな雰囲気とは違う、医師としての使命感に燃えた顔をしている。


「瓦版の記事、拝見いたしました」


「先生方」


 お春の目に、涙が滲んできた。こんな時に来てくれるなんて。


「あの記事は嘘です。珈琲に毒性などございません」


「もちろんです」


 津川が拳を握りしめ、激しい憤りを露わにした。


「我々医師が、毒性のある飲み物を勧めるはずがない。あの記事は明らかに作為的なものです。『ある医師』など、我々の中に誰もそのような発言をした者はおりません」


 木村も憤慨している。眼鏡の奥の目が怒りに燃えていた。


「記事では『医師ら警鐘鳴らす』とありますが、我々は全く関知しておりません。我々の名前を勝手に使って、卑劣極まりない手段です」


 佐藤が前に出た。小柄な体から、大きな決意が感じられる。


「お春殿、我々で対策を考えましょう。このままでは、珈琲の真の価値が理解されないまま終わってしまいます。それは医学の発展にとっても大きな損失です」


 お春は涙を拭った。胸に温かなものが広がってくる。一人ではない。こんなに心強い味方がいる。


「ありがとうございます」


「まず必要なのは、珈琲の効能を正しく人々に伝えることです」


 玄白が提案した。その目には、医師としての責任感が燃えている。


「公開の場で、珈琲の薬効を実演してはいかがでしょうか」


「実演?」


「はい。寺子屋を借りて、『珈琲講』を開催するのです」


 津川の目が星のように輝いた。


「珈琲の歴史、効能、正しい飲み方を説明し、実際に飲んでもらう。多くの人に集まってもらって、誤解を根本から解くのです」


 お春の胸に、暗闇を切り裂く一筋の光が差し込んだ。前世で培った知識が、今こそ役に立つ。


「それは素晴らしい考えです。私も、前世で学んだ」


 口が滑りそうになって、慌てて言い直す。


「夢で教えられた知識を、皆様にお伝えできます」


「では、準備を始めましょう」


 医師たちの協力で、翌日から『珈琲講』の準備が始まった。


 会場は神田の寺子屋を借りることになった。師匠が蘭学に理解を示し、快く協力してくれたのだ。


 玄白は珈琲の医学的効能について、オランダの医学書を参照しながら資料をまとめた。津川は実際の症例を細かく調べ上げ、木村と佐藤は珈琲豆の産地や製法について詳細な研究を行った。


 お春も準備に余念がなかった。前世の知識を総動員して、珈琲の歴史と効能について分かりやすく説明する資料を作成する。夜遅くまで筆を走らせ、江戸の人々に理解してもらえる内容に仕上げていく。


 コーヒーがヨーロッパでどのように受け入れられ、医学的にどんな研究がなされているか。現代の知識を江戸時代の人々に理解できる形に翻訳するのは、想像以上に困難だった。

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