第6話「甘味開発」③
「これは見事な。苦味と甘味の調和が、まるで陰と陽の如く。東洋の美学と西洋の味覚が見事に融合している」
医師らしい分析的な視点で、珈琲饅頭の価値を評価してくれる。
「いかがでしょうか」
「素晴らしい。これなら女性の方々にも喜ばれるでしょう。いや、必ず喜ばれる。珈琲の効能を、より多くの人に知ってもらう良い機会にもなる」
玄白の太鼓判を得て、お春は安堵した。
次に来店したお絹は、饅頭を見ただけで顔をほころばせた。
「まあ、美しい色合いですこと。まるで夕暮れ時の空のような」
口に入れた瞬間、お絹の表情がぱっと花が開くように明るくなった。
「なんと上品な味でしょう。甘すぎず、苦すぎず。これは女性の集まりでもきっと話題になりますわ」
「お気に召しましたでしょうか」
「ええ、とても。お茶会で出したら、皆様驚かれることでしょう」
お絹の言葉に、お春の心に新しい光がさした。前世のカフェで開催していた女性向けイベントの記憶が、鮮やかに蘇る。
「お絹様、よろしければ、こちらで女性の方々との集まりを開いていただけませんでしょうか」
「こちらで?」
「はい。午後のひととき、珈琲と菓子を楽しみながら、ゆっくりとお話をする会を」
お絹の目が星のように輝いた。
「それは素敵なお考えですね。女子同士でゆっくりと語らう場があれば、どんなに楽しいことでしょう。ぜひ、お願いします」
翌日から、お春は「午後の珈琲会」の準備を始めた。
店の雰囲気を少し変えて、女性客に喜ばれるような設えにする。お松に頼んで、季節の花を活けてもらった。夏らしく、涼しげな桔梗と撫子を選んだ。座卓には上品な手拭いを敷き、茶碗も一番美しいものを選ぶ。
珈琲の淹れ方も工夫した。前世の知識を思い出しながら、茶道の作法を取り入れてみる。
豆を選ぶところから、心を込めて焙煎し、客の前で静かに抽出する。その一つ一つの所作を、まるで芸事のように丁寧に行った。動作一つ一つに意味を込め、見ている人が珈琲への理解を深められるように工夫を凝らした。
最初の午後の珈琲会には、お絹を含めて三人の女性が集まった。皆、商家の奥方や娘で、新しい物好きの好奇心旺盛な方々だった。
「これが珈琲でございますか」
「なんとも良い香りですこと」
女性たちは興味深そうに茶碗を眺め、まるで花の香りを楽しむように深く息を吸っている。
「まず、香りをお楽しみください」
お春は茶道の作法を取り入れて、ゆっくりと説明する。
「そうして心を落ち着けてから、少しずつ味わっていただいて」
女性たちが珈琲を口にすると、表情が一様に変わった。
「苦いですけれど、不思議な深みがございますね」
「身体の芯から温まりますわ。これなら夏でも、心地よく感じられそう」
「そして、こちらが珈琲饅頭でございます」
甚兵衛親子と共に作った饅頭を差し出すと、女性たちから感嘆の声が上がった。
「まあ、美しい色合いですこと」
「珈琲を使った菓子なのですか。なんと斬新な」
一口食べてみると、皆一様に感動の声を漏らした。
「これは絶妙な味ですね」
「甘味と苦味が、なんとも言えない調和を奏でて」
「このような菓子、生まれて初めていただきました。まるで新しい世界を覗いているよう」
お春は微笑みながら、女性たちの反応を見つめていた。珈琲の苦味に躊躇していた人々が、和菓子との組み合わせによって、自然に珈琲の世界に足を踏み入れている。これこそ、前世で夢見ていた光景だった。
「お春さん、これは本当に素晴らしいお考えですね」
お絹が目を潤ませている。
「女子同士で集まって、このような美味しいものをいただきながら、心ゆくまで語らう。江戸にはなかった楽しみですわ」
「ありがとうございます」
お春の胸に、深い満足感が波のように広がった。
田中美咲として前世で営んできたカフェの理想が、江戸時代の和菓子文化と結びついて、新しい形で花開いている。珈琲という異国の文化と、江戸の伝統的な菓子文化。二つの世界が出会って、今まで存在しなかった美しい調和を生み出している。
夕方、甚兵衛とお菊が様子を見に来た。
「いかがでしたかな」
「おかげさまで、大変好評でした」
お春は今日の成功を詳しく報告する。女性たちの喜びの声、饅頭への賞賛、次回開催への期待。
「それは何より」
甚兵衛の硬い表情が、珍しく緩んだ。
「お菊も喜んでおります」
確かに、お菊は嬉しそうに頬を染めている。
「父上、私もまた新しい菓子を考えてみたいです。きっと、まだまだ工夫の余地がございます」
「そうじゃな。珈琲との組み合わせは、まだ始まったばかりじゃ」
甚兵衛は腕を組んで、職人らしい探究心を目に宿している。
「今度は夏向けの菓子を作ってみるかの。暑い季節には、冷たい珈琲もあるのであろう?」
「はい。氷で冷やした珈琲も、とても美味しいものです」
お春の心に、また新しいアイデアが次々と浮かんできた。前世の知識を活かせば、アイスコーヒーの作り方もある。それに合う冷菓を作れば、夏の新たな楽しみになるかもしれない。
「甚兵衛さん、お菊さん、ぜひまたご一緒させてください」
「もちろんじゃ」
甚兵衛が力強く頷く。
「これからも、よろしく頼むぞ。新しい味の世界を、一緒に切り開いていこうではないか」
三人は固い握手を交わした。お春の手に、甚兵衛の職人らしい硬い手のひらと、お菊の温かく優しい手のひらの感触が残った。この握手に、未来への希望と決意が込められていた。
夜が更け、店を閉じる頃になって、お春は一人で今日を静かに振り返っていた。
珈琲茶屋「春庵」が、また新しい段階に入った。男性客中心だった店に、女性客という新しい風が吹き込んできた。
和菓子という江戸の文化と、珈琲という異国の文化が結びついて、今まで存在しなかった新しい楽しみを生み出している。
お春は茶碗に残った最後の珈琲を味わった。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。今日一日、甘い物と一緒に飲み続けた珈琲が、いつもより優しく感じられた。
「明日はどんな一日になるだろうか」
小さくつぶやいて、お春は茶碗を大切に洗った。
亀屋の甚兵衛とお菊という心強い協力者を得て、珈琲茶屋の可能性がさらに広がっていく。そして何より、江戸の女性たちに新しい文化を提供できる喜びが、お春の心を温かく満たしていた。
遠くで夜警の拍子木が響いている。「火の用心、火の用心」という声が、夜風に乗って優しく流れてきた。
珈琲と和菓子の香りが混じり合った店内で、お春は明日への期待を胸に抱きながら、静かに夜を迎えていった。窓の外では夏虫が鳴き始め、季節の移ろいを告げている。新しい季節と共に、新しい味の世界が広がっていく予感に、お春の心は希望で満ちていた。




