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第5話「身分を超えた出会い」②

 男性は立ち上がろうとしたが、ふと立ち止まった。


「お名前を教えていただけませんか」


「お春と申します」


「お春殿……美しいお名前ですね」


 男性の声に、優しさが込められていた。その優しさが、お春の胸をさらに温かくする。


「私は……信之と申します」


 お春の胸が小さく高鳴った。この人の名前を知ることができて、なぜか嬉しかった。信之。美しい響きの名前だ。


「信之様」


 名前を口にすると、なぜか特別な感情が湧いてくる。


 二人の視線が交わる。短い時間だったが、不思議な親近感が生まれていた。お春の頬がほんのり紅潮し、信之も少し照れたような表情を見せる。


「お代は……」


「十五文でございます」


 信之は躊躇なく代金を支払った。その手がお春の手に軽く触れ、お春は頬が熱くなるのを感じた。信之の指の温かさが、まだ手のひらに残っている。


「また……お邪魔してもよろしいでしょうか」


 信之の声に、微かな期待が込められていた。お春を見つめる目に、優しい光が宿っている。


「はい。いつでもお待ちしております」


 お春も、なぜか胸が高鳴るのを抑えきれない。この人にまた会えるという喜びが、胸を満たしている。


 信之が去った後、お春は一人で胸の鼓動を感じていた。


 ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。頬がまだ熱く、手のひらには信之の指の温かさが残っている。


 あの人は一体何者だろう。武士であることは確かだが、普通の武士とは違う雰囲気がある。身なりの上品さ、立ち居振る舞いの美しさ、品のある話し方。もしかしたら、かなり身分の高い方なのかもしれない。


 そうだとすれば……。


 お春の胸に、不安が忍び込んできた。商人の娘と武士。それも身分の高い武士となれば、天と地ほどの差がある。この想いは、決して許されないものなのかもしれない。


 しかし、信之の誠実さと優しさは本物だった。あの憂いを帯びた美しい横顔、心からの悩みを打ち明けてくれた信頼、去り際の優しいまなざし。すべてが、お春の心に深く刻まれている。


 雨が上がり、夕日が差し込んできた。店内の珈琲の香りが、より一層豊かに感じられる。


「お春様、どうされました」


 お松が心配そうに声をかけた。


「いえ、何でもございません」


 しかし、お春の顔は明らかに紅潮していた。頬が上気し、目も潤んでいる。


「雨宿りのお客様がいらして」


「そうでございましたか。良いお客様でしたか」


「はい……とても」


 お春の声が、無意識に優しくなっている。



 翌日は快晴だった。昨日の雨で洗われた空が美しく澄み、江戸の街も活気に満ちている。


 お春は朝からそわそわしていた。信之が来るかもしれないという思いが、頭から離れない。朝の準備をしながらも、入り口の方をちらちらと見てしまう。


 午前中は医師の勉強会があり、津川、木村、佐藤の三人が珈琲を飲みながら熱心に議論していた。


「昨日は雨でしたが、お客様はいらっしゃいましたか」


 木村が聞いた。


「はい。雨宿りの方が」


「それは良かった。こういう場所があると、皆さん助かるでしょうね」


 午後になって、お絹が笑顔でやってきた。


「お春さん、おかげさまで息子との関係がさらに良くなりました」


 お絹の表情は明るく、来店時とは見違えるようだった。


「昨日は一緒に雨を眺めながら、いろいろな話をしました。初めて心を開いてくれたように思います」


「それは本当に良かったです」


「ところで、お春さんも何かお悩みでは?」


 お絹の鋭い観察に、お春は驚いた。


「女性の勘です。とても良い表情をされているけれど、少し心配そうでもある。恋のお悩みでしょう?」


 お春の頬が一気に赤くなった。そんなに顔に出ているのだろうか。


「そんなに顔に出ていますか」


「ええ。でも、素敵な表情です。恋をしている女性は美しい」


 お絹は微笑んだ。


「ただ……身分が違うかもしれませんし」


「身分ですか」


 お絹の表情が少し曇った。経験者だからこそ分かる、その困難さがあるのだろう。


「確かに、それは難しい問題ですね。身分違いの恋は、時として命に関わることもある」


 お絹の言葉に、お春の胸がきゅっと締め付けられた。


「でも、心はそう簡単には割り切れません。お春さんが幸せになれるよう、祈っております」


 夕方になっても、信之は現れなかった。


 お春は少し失望したが、同時に安堵もしていた。もし来ていたら、どう接すれば良いかわからなかった。昨日のような自然さで話せただろうか。


 しかし、心の片隅では、明日への期待が膨らんでいた。きっと、また会える。そんな予感が、お春の胸に宿っていた。


 夜風が涼しく、珈琲の香りが静かに漂う中、お春は新しい感情と向き合っていた。


 恋という名の、甘く切ない感情。それが、お春の人生に新しい彩りを与えようとしていた。


 しかし、身分の壁という現実も、お春の心に重くのしかかっていた。この想いは、果たして実るのだろうか。それとも、禁じられた恋として、心の奥に封印しなければならないのだろうか。


 月が昇り、夜が深くなっていく。お春は茶碗を片付けながら、信之の美しい横顔を思い返していた。


 あの優しいまなざし、温かい指先の感触、心を開いてくれた信頼。すべてが宝物のような記憶となって、胸に刻まれている。


 遠くから夜警の拍子木が響いてくる。「火の用心、火の用心」という声が、夜風に乗って聞こえてくる。


 お春は窓から夜空を見上げた。同じ空の下で、信之も今頃何を思っているのだろうか。


 恋の始まり。それは甘い毒のようなもので、お春の心を静かに蝕んでいく。


 珈琲の香りに包まれて、お春は眠りにつこうとしていた。夢の中で、信之に会えるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながら。

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