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第1話「転生と覚醒」①

 胸を突き刺すような痛みが走った瞬間、田中美咲の手からカップが滑り落ちた。


 白い陶器が床で砕け散る音が、やけに遠くに聞こえる。視界が霞み、膝から崩れ落ちる身体を支えることもできない。カウンターの端に爪先が当たり、鈍い痛みが足首を駆け抜けた。


 ああ、だめだ。


 まだ常連のお客様が待っている。明日の仕込みも終わっていない。店を閉めるわけにはいかないのに。


 薄れゆく意識の中で、最後まで珈琲の香りが鼻をかすめていた。深いロースト香と、わずかに残るエスプレッソマシンの湯気。二十八年の人生で最も愛したその香りと共に、田中美咲の心臓は静かに止まった。



「お春、お春」


 誰かが自分を呼んでいる。


 耳の奥でこだまする優しい声に、意識がゆっくりと浮かび上がってくる。身体が水の底から引き上げられるような、不思議な浮遊感。まるで温かな湯船に包まれているような安らぎがあった。


 瞼が重い。鉛でも詰まっているかのように、なかなか開かない。


 やっと目を開けると、見覚えのない天井が視界に入った。


 茶色い板張りで、煤けた梁が走っている。隅には蜘蛛の巣が張り、古い木と香の匂いが鼻をくすぐった。畳の目が細かく、い草の青い香りがかすかに漂っている。


 ここは、どこだろう。


「お春、気がついたかえ」


 振り返ると、着物姿の年配女性が心配そうにこちらを見つめていた。


 丁寧に結い上げた髪、皺の刻まれた優しい顔立ち。紺地に小花模様の着物を品よく着こなし、まるで時代劇から抜け出してきたような、年輩の女中の姿だった。


「あなたは……」


 口を開いた瞬間、違和感に愕然とした。


 自分の声が、やけに高く響く。こんな声だっただろうか。喉に手を当てると、細い首筋の感触。肌は驚くほど滑らかで、これは確実に自分の身体ではない。


「お松でございますよ。もう三日も熱を出して、どれほど心配したことか」


 お松と名乗った女性が、湯呑みを差し出してくる。素焼きの湯呑みから、薄い茶の湯気が立ち上っていた。


「少し水分を取りなされ」


 湯呑みを受け取ろうと手を伸ばして、息を呑んだ。


 小さく華奢で、指先まで細い。二十八年間見慣れた自分の手ではない。これは、まるで十代の少女の手だった。爪は丁寧に手入れされ、手のひらには働いた跡もない。


 心臓の鼓動が早くなる。何かがおかしい。すべてがおかしい。


 辺りを見回すと、畳の上に小さな手鏡が置いてあった。銅製らしく、くすんだ光沢を放っている。恐る恐る覗き込んで、思わず息が止まった。


 鏡の中に映っているのは、十六歳ほどの美しい少女だった。


 大きな瞳、整った鼻筋、桜色の唇。切れ長の目元に上品な面立ち。田中美咲の面影など、微塵もない。見知らぬ顔が、自分と同じように瞬きをしている。


「これは……」


 震え声でつぶやく。手鏡を持つ手も、小刻みに震えていた。


 現実を受け入れることができない。自分は確かに死んだはずなのに、なぜここにいるのか。なぜ違う顔をしているのか。


「夢なのですか」


「夢ではございませんよ。お春様は確かに生きておいでです」


 お松の言葉が、混乱に拍車をかけた。


 田中美咲の記憶ははっきりとある。過労で倒れたカフェのカウンター、胸を刺すような痛み、そして暗闇へと落ちていく感覚。


 死んだのだ。確実に死んだ。


 けれど、同時に別の記憶も頭の中に浮かんでくる。江戸の町で生まれ育った記憶、商人の娘として過ごした日々、最近起きた大火の恐怖。煙の匂い、避難する人々の悲鳴、真っ赤に燃え上がる炎。


 二つの人生が、同じ頭の中で渦を巻いている。まるで絵の具を混ぜるように、記憶が混ざり合って境界があいまいになっていく。


 どちらが本当で、どちらが偽物なのか。


 いや、どちらも本当だと、心の奥で理解していた。受け入れ難い現実だが、これが今の状況なのだ。


「お松……父上は」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。


 江戸の言葉遣いが、自然に出てくる。まるで生まれた時からそう話していたかのように。舌の動き、発音、すべてが身に付いている。


「旦那様は店の始末でお出かけです。焼け跡の片付けと、お貸しいただいている方々への挨拶回りで」


 火事。


 記憶の糸が繋がった。春之助が営んでいた呉服問屋が、先月の大火で焼失したのだ。店も商品も在庫も、すべて灰と化してしまった。


 炎に包まれた店舗、避難する人々の悲鳴、煙で真っ黒に染まった空。それらすべてが、お春として体験した生々しい記憶だった。熱風に焼かれた肌の感覚まで、鮮明に蘇ってくる。


「借金は……どれほどに」


「かなりの額でございます。商売の元手も、蔵の中身も、すべて失ってしまいましたから」


 お松の表情が暗く沈む。眉間に刻まれた皺が、苦労の深さを物語っていた。


「でも、旦那様は諦めてはいません。必ず立て直すと、毎日仰っています」


 現実の重みが、胸にのしかかってきた。


 これは夢でも幻覚でもない。田中美咲は死に、江戸時代の商人の娘・お春として生きている。そして、この家は破産寸前だった。


 転生。


 荒唐無稽に思える言葉が、唯一の説明だった。


 こんなことが本当にあるのだろうか。しかし、他に説明のつけようがない。目の前の現実が、すべてを雄弁に語っていた。


「お松、少し一人にしてください」


「承知いたしました。お呼びでしたら、すぐに参ります」


 お松が障子戸を閉めて出ていくと、深く息を吐いた。


 手のひらで顔を覆う。細い指、小さな手のひら。触れるもの全てが、この状況の現実を物語っていた。


 受け入れるしかない。


 田中美咲は死に、お春として生きていく。それが、今の現実だった。抗っても始まらない。ここで生きていくしかないのだ。


 立ち上がろうとして、足元がふらつく。三日間寝込んでいたせいで、筋力が落ちているらしい。壁に手をつき、ゆっくりと腰を上げた。


 部屋を出て、家の中を歩いてみる。


 小さな商家で、店の部分は焼け残っているものの、商品棚はからっぽだった。床板には炭の粉が残り、焦げた匂いがかすかに鼻をつく。壁には煤の跡が黒々と残り、火事の凄まじさを物語っていた。


 奥にある蔵も覗いてみた。わずかな家具と衣類があるだけで、商売道具らしいものは見当たらない。


 絶望的だった。


 借金があり、商売の元手もない。十六歳の身で、いったいどうやって生きていけばいいのか。江戸時代の女性にできることは限られている。

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