階段教室のマドンナ
階段教室とは教壇に対して座席が後方になるほど階段式に高くなっている教室を指す。日本では主に大学でよく見かけられるのだが、これはある大学の階段教室でのちょっとした日常の謎にまつわる話である。
僕はとある大学の講義を受ける一人の男子学生でそこではいつもある事が話題になっていた。
「どうやら今日はまだ来ていないみたいだ」
そうしていつものように僕はなるべく後ろの方に座ろうとする。ただその授業を受けるのは嫌だからというわけでは無い。僕もそうだが、その殆どは同じことを考えているのかもしれない。このあたりの席は特に人気なので今日の様にスムーズに座れたのは幸運だった。
この授業の出席率は非常に高く、それも男子学生の割合が特に多い。ただ自分も休まずに来ているのだが面白い授業かと言えばそうではない。
何故ここまで出席率が高いのか、何故受講するのか、それはある謎の美女がこの授業だけを受講しに来るからだ。そしてこの授業を受講しに来る生徒の殆どがその女性を見る為に来ている。
この階段教室で行われる講義に出席する一人の女子大生が学生の間ではちょっとした噂になっている。その彼女はすれ違えば殆どが振り返る程の美人で初めて階段教室で見かけた時は同じ学部連中の間ではしばらくの間、持ち切りになったと冗談半分で実しやかに言われた程だ。実際に彼女に言い寄った学生も何人かいて、本来講義を受けていない他の学部からもわざわざ彼女目当てに受講しに来ていた。そして皆あっさりとフラれたらしい。他にもこの授業の講師にも言い寄られたとの噂もある。何でも一緒に歩いている所や親密に話していた所を目撃されたらしい。一方で彼女がどの学部いるのかが分からず、決まってこの講義以外で彼女を見かけたことがない。教室から出て彼女の跡を付けようとした連中もいたらしいが、そのまま追跡を振り切られていた。現にキャンバス内でも見かけない事が多い。もしかしたらここの学生では無いのかもしれないなどと言われているのも有名になっている。
その為、学生内では彼女を「階段教室のマドンナ」と囁かれている。
それからして教室のあちこちからざわざわと少し騒ぎ出してきた。後ろから扉が開き、彼女がやって来たのだ。凛とした印象の顔立ちに綺麗な長い黒髪、透き通りながらも何処か儚げな瞳、玲瓏たる艶のある白い肌、スラッとした長身はモデルを思わせる。清潔感漂う服装が彼女を際立たせ、何処かのご令嬢と見紛うほどである。それに落ち着きのある佇まいは大人びた雰囲気を漂わせる。そしてそんな彼女が教室中央の階段を一段一段下りていく。その姿はまるで以前に見た劇で客席側から登場し、階段を下りて、舞台へ向かっていく主演女優を彷彿させる。そして彼女はこの授業で決まって窓際の席、又はその近くにいつも座っている。あえて窓際の席に座るその様は正に深窓の令嬢を思わせる。
普通ならば、単に授業に出たくて座るのならば最前列について授業を聞くか、若しくは単位が欲しい為に出席するだけで碌に聞かず、寝ているなどサボる為に最後尾に座るのが大抵だ。たとえ早く来ても、遅れてきても空いているならば適当な席に座る。にもかかわらず、いつも授業に来てはその窓際ばかりに決まって座る。そうした事で学生ではちょっとした噂にもなっている。そして彼女は決まってこの授業だけではぽつんと一人でいることが多く、席に座れば小説か何かの本を授業が始まるまでに何時も何かを読んでいる。たまに座れなかったとしてもその授業を休むようなことは無かった。しかし一度だけ欠席したこともある。彼女に近付きたい為に面白半分でその席辺りを独占した男子生徒連中が埋まっていた時には大人しく別の席に座った事があった。ワザとらしく連中がニヤつきながら彼女を見て笑っていた厭らしい顔を覚えている。それからでも連中は同じようにしばらく独占していた。しかし同じように性懲りも無くおふざけの如く同じような事をした結果、彼女は授業を受けずに帰って行った。その時の不快な表情をした彼女は印象に残り、周りからも顰蹙を買ってしまった。それだけ連中に近付きたくなかったのか、連中も反省でもしたのか、次の講義では同じような事を止めて違う席に座り、彼女も席が空いていた時にはいつも通りにその席の辺りに座っていた。その為にそんな経緯もあって窓際の席は殆ど彼女の指定席となっている。
本来ならば隣の席に座ろうとするのが普通だろうが、見た通りの高嶺の花なので近付きがたい。だから粋がって隣の席に座ろうとするようなことはしたくない。しかしただそれだけではなく、彼女にはなるべく話しかけない、そして近付かないのがここでの暗黙のルールとなっている。実は彼女に言い寄って来た男子に対して彼女は軽くあしらってきたのだが、中にはそれでも諦めきれなかったのか、無理に言い寄ろうと強引に迫った者もいた。それが以前に窓際を占領していた連中の内の一人だった。そして無理矢理言い寄ってきていたそんな相手に対して無視を徹底して教室から出て行こうとしたのを迫った者が彼女の手を強く引っ張った結果、見事な腕裁きで男子生徒を床に叩き伏せたのを僕も含めて目撃した。それからというもの、彼女に痛い目に合わされたくないのか、誰も近付こうともせず、遠目からの観察に留まるようになった。そして張り倒された男子生徒もトラウマになったのか、それ以降、教室で見かけなくなってしまった。なので僕もなるべく近付かずに遠目から彼女を見ようといつも上の段にいる。そして授業の合間に彼女のことを見下ろして眺めている。その考えは自分だけでなく、他の連中も同じだった。それもあってか、彼女の座っている後ろの席が殆どの男子学生たちの指定席となっている。とは言え、その誰しもが彼女を眺めるために早めに来ているので下心が丸出しだった。そこの座席は決まって同じメンバーが集まるので幾つかのグループが形成されていた。そこでは授業中でも色々と会話があちこちから聞こえてくる。その殆どが何気ない世間話や授業後の予定などばかりだった。そんな時、自分の真後ろにいる一人の学生が彼女についてのことでグループのメンバーに話をした。なぜあの席に座っているのか、何故この授業に出席するのかという、いわば謎解きをしようとなったのだ。自分はグループのメンバーでは無かったから話には参加しなかったがそれはいつも気になっていたので聞き耳を立てていた。
「俺が思うには窓側にいるのは何かを見ている為じゃないか、例えば何かを見張っているとか?」
「でも雨の時でも窓側にいるぞ」
「もしかしたらその時でもいるかもしれないぞ、この授業の間に。人じゃなくて植物とか」
そういえばこの教室には窓がある。でも見るのだったらもっと高い席に座った方が良いはずだ。彼女は教壇近くの低い席にも座る事がある。それは他からも自分と同じ意見があり、違うんじゃないかとされた。すると別の男子が別の仮説を立てた。そちらは少し驚いた物だった。
「いつも窓側にいるってことはもしかしたら日光を浴びないといけない体質じゃないのか?」
「吸血鬼の逆か、植物じゃあ、あるまいし、そんなもんあるか」
「いや、でも日光を浴びないとうつ病にもなるとか、皮膚病があるのも聞いたこともあるぞ、もしかしたら彼女はそういう体質なのかも。あの辺りは陽の光が強いし」
それを聞いて最初は誰しもが馬鹿馬鹿しいと思っていたが、確かにそんな病気なんかは聞いたことはある。それに上の方の座席は建物の影であまり陽が当たらず、寧ろ彼女が座る中腹辺りのほうが強いのも事実だ。その話を聞いたメンバーはあり得そうだという納得する意見もあったが自分はそれでこそあまり現実性がないのでどうにも腑に落ちなかった。するとグループ内のある一人がみんなに聞いてきた。
「そもそも彼女がその授業を受講している理由は何だろう?」
「そういや、何でこんなもん受けているんだ?別に面白くもねえのに」
その講義は地ブナ先行する分野に関するもので最初は興味本位で受講をした。その講義は正直言ってそれなりに興味はあるが、特段に面白いというわけではない。だから彼女の話が出たのだろう。彼女にとっては面白いのだろうか、ふと考えていると先程とはどとは別の学生が次のことを言った。
「たしか彼女、ここの学生じゃないかもしれないよな?だったらあの先生の娘か知り合いなんじゃねえの?多分俺達みたいなのを呼び込むための客寄せじゃねえか?」
「客寄せ?何のために?」
「ほら、この授業、元々あんまり人気なさそうじゃね?だからあの姉ちゃんを使って学生を集めて授業をできるようにするとかさ」
確かにこれまでの中では一番筋が通っている。学内で彼女を見かけることは少ないのも頷ける。でも客寄せの為ににやるにしても少し効率が悪い気もするが。ましてや人を集める為にそんなことまでするのかと思ってしまった。すると更に別の男子が今度は新たな仮説に至り、僕も思わず耳を疑った。
「まさかとは思うがあの先生が目当てで受けているのか?」
(そう言えば彼女は講師にも言い寄られている噂があったが、まさかあの先生が?)
学内で彼女らしき人物が講師と話をしている姿や一緒に歩いているのを見かけたという話を聞いたことがある。その突然の憶測に僕もつい心の中で驚いてしまった。
「いや、いくら何でも齢も大分離れているし、恋愛関係はないだろう。先生目当てだったらもっと目立つ席に座るはずだ。」
「いや若しくは深窓の令嬢を装うためにあえてその席に座ったんじゃないのか?それならば納得がいくし、よく年の差カップルの話も聞くし、もしかしたら言い寄られた噂も実は逆で彼女から言い寄ったんじゃないか?窓際からの陽の光をスポットライト代わりにして目立たせるみたいに」
教壇ならば教室全体を見渡せるから誰が印象づくのかも分かる。とは言え、そんなまさかと思うような信じたくない考えが混じり合って、ありえない話までもが倒錯していき、僕の頭がパンクしそうになった。他にも色々と意見が出たがつい先程の体質の話が一番マシな答えだったものばかりの当たり障りのない退屈な議論が続いた。それからというのも彼女のことについては一旦忘れて、途中ながらも難しい授業を真面目に受けることにした。一方であの連中は彼女の話題にまだ夢中で自分は聞き流しながらも少し傾けては退屈な時間を過ごしていった。結局のところ、これといった真相に辿り着いたようには思えず、聞いている限りだと案外ありそうだが、どれも納得のいく根拠になっていないのでこの話は止めになったようだ。両方聞いてしまったので授業もダラダラと講義を聞くだけで終わってしまった。
そして講義が終わると同時に彼女は立ち上がり、教室から出ようと教壇側の扉に向かった。すると席から近い通路を通らずにわざわざ中央の階段へ行き、席に向かった時のように黒髪なびかせながら階段を一段一段下りていく。そして教壇へ上がっていくその姿は舞台に上がる女優のようだった。
その日の晩、ある家に一人の男性が訪ねて来た。
「よお、伊織、お邪魔するよ、義兄さんはいるかい」
「あ、叔父さん、いらっしゃい、お父さんなら居間にいるよ」
「おお、分かった、それとコレ、今日のバイト代」
「ありがとう♪」
そう言って財布から千円札を取り出して伊織と言う人物に手渡した後、その叔父さんは居間に向かった。実は伊織と呼ばれる彼女と叔父さんの講師は親戚の関係で、その叔父に頼まれて講義に出席していたに過ぎなかった。只、人集めの為ではなく、自分の講義をしている姿の撮影が目的だった。必須科目でも無い上に少し難しい授業なので元々人気は無かったので実際に年々受講する生徒が減ってきていた。そこで彼女に頼んで自分の授業に出て貰っていた。そして撮影した授業を見て改善点を探っていた。普段の席側からの自分の授業風景はどのようなものかを見る為で叔父からは自分が映っていれば座るのはどこでもいいと言われていた。それをあえていつも窓側にいたのは日光がよく当たる席なので太陽光でのソーラーバッテリーでのスマホは勿論、その撮影用の小型カメラの充電を行うため、そして窓からの日光をスポットライトの様に見立てて深窓の令嬢を思わせるようにしたかった為だった。
彼女がこの講義のある日以外であまり見かけないのも理由がある。実は彼女は大学のメンバーと共にある劇団に所属しており、近いうちにお嬢様役を演じることになっていたのでその授業を受ける日だけは女優のような恰好や立ち振る舞いをして演じてみたら彼女を印象付けることになったのだった。丁度同じ劇団仲間が講師役を演じるので教壇を舞台に見立てて、その席での授業風景を観察・撮影したのが全ての真相だった。そして叔父の授業は今度の劇で使用する題材と被っていたので叔父の仕事のついでに学ばせてもらった。窓を見ていたのも退屈だった時の気晴らしで見ていたに過ぎず、前列に行かなかったのもあの講義を聞く真面目な生徒もいるかもしれないと思ってあえて座らなかった。窓際以外でも撮影自体は出来たのだが、自分自身が目立たないから決まって窓際にしていた。何よりも授業を受けなかった時も連中の厭らしい笑みが嫌だったのでその時は大学に通う別のメンバーに撮影を頼んでつい帰ってしまったのだった。男子生徒を張り倒した理由も無理に迫られただけでなく、バイト代が無くなった事以外にこれまでに撮影や受講の邪魔をされたので苛立っていたこともあって咄嗟に手を出してしまった。それに窓際の方が明るいので撮影時には顔がよく映っていたので都合が良かった。そして中央階段は正に客席の階段によく似ていたので女優の様に階段を下りてみたく、今回受けた講義ではその真似事をしてみたのだった。自分のあの姿が大学内で注目されていることは気付いていたので周りの反応を知りたくてやってみた。教壇に上がった時はうっかり舞台に上がった時も女優に成りきってしまった。
変装して講義に来る学生たちに自分の姿を見てもらいたかったのが彼女の思惑であり、授業の撮影が本来の目的でもあった。この謎解きは結局のところ一応ある意味全員正解であり、不正解だった。
そして彼女は上機嫌に微笑みながら化粧を洗い落としてカツラを脱ぎ、普段の姿に戻った。
あれからしばらくして講義は全て終了した後に大学内で彼女の姿がぱったりと見なくなってしまった。それもあって学生内では彼女の事を階段教室のマドンナと囁かれるようになった。声を掛ける勇気も無く、上から彼女の姿を見るのをささやかな楽しみにしていたので僕もあの時に一声かけておくべきだったと若干後悔している。大学内ではマドンナの姿はもう無くなった。
それからして彼女の噂が減りつつある頃、僕は校舎の階段を駆け上がっていると複数のグループが前からやって来たので僕は右端に避けた。するとある一人の男子生徒とすれ違う。一瞬見た程度なのではっきりと分からなかったが歩き方が彼女と何となく似ていた。服装は勿論、髪も短く、ただ顔立ちと雰囲気が何となく似ているので思わず立ち止まり、振り返った。
(まさか)
そしてその男子生徒も振り返るとこちらにうっすらと微笑みかけていた。
先程すれ違ったのが果たして彼、もしくは彼女だったのだろうか、本当に階段教室のマドンナだったのか分からない。それでもそれが大学生活で僕の印象に残った思い出の一つだった。