第八話 ただの風景 または猫たちの戯れ・4
ただただ時間が過ぎ去るのを待つしかないのは厄介だが、ぼくは肉体的疲労を感じない状態に自分がなっていることに気づいたのでとにかく外を歩き回ろうと思った。パジャマ姿の裸足の少年が繁華街を歩いているなど一大事もいいところだったがいい加減ぼくも認識されないことに慣れ始めていた。
人がいる。たくさんの人がいる。たくさんの色々な人がいる。
そしてぼくもその色々な人の中の一人。ぼくも色々な人である。
現実はドラマや映画と異なり“主人公”という人物は存在しない。そんなことをぼくは思った。しかし、だからと言って“脇役”もいない。というより、誰もが自分の人生の主人公であり、その誰もにとって全ての人たちが脇役であるのだ。だが自分にとっての脇役たちもその人たちにとっては自分の人生の主人公である。だからこの鬼哭アルカロイドとの日々はイリスが主人公ならバトルファンタジーだし殊袮が主人公ならSFだ。人生の過ごし方や意識の仕方は人それぞれ異なる。そう、人それぞれ——。
だが、そこで終わってしまったら世界は混沌状態だ。混沌にも秩序は必要だとぼくは考える。だからそれぞれに共に生きていくためにはどうすればいいのか、それを考えなければならない。
などとそんなダイナミックなことを考えていると、ぼくは考えるのが好きな人なんだな、と、改めて気づくに至った。
どうしてこういう人間に育っていったのだろう。別にぼくは天才児でもないし、変わった家庭で育ってきたわけでもない。変わっているところと言えば鬼哭アルカロイドに関してだ。でも、それだけじゃないと思う。こういう人間がぼくという人間であり、これが生まれ持った性格なのだろう。もちろん環境や運の要素も大きいのだろうが、生まれ持った性格、というのは確実に存在するとぼくは思う。マイ・フェア・レディが成立するのは、やはりあれが映画だからなのであろう。どんな人でもこう育てればこう育つということはないし、同じ育て方をしていたら同じ性格の持ち主になる、ということもない。やはりコアの部分があって、そこから派生していくのだろう。であればそのコアの部分はどこから来るのだろう。要は人はどこからやってくるのだろう。
もしかしたらちょっと疲れているのかもしれないな、と、思った。そりゃそうだな、とも思った。次元を超越してだいぶ経っているが、やはり精神までは次元の超越はしないのではないかと思う。要するにぼくは巨大なことを考えるぐらいまでは暇になってしまっている。と、ふと時計を見る。
時刻は四時。いつの間にそんなに経っていたのだろう。一気に物語が進んだ気がする。あるいは次元を超越しているということは時間をも超越しているのだろうか。とにかく自分の時間感覚と異なっていたことに感謝してぼくはアジトへと向かっていく。この時間なら流石に麗子さんがいるだろうと思って。そうしたらこの事態を打破できるはずだと思って。
そしてぼくはアジトへと向かっていくのだが、しかしどうしても若干の不安がよぎる。麗子さんもぼくに気がつかなければ——それなら、レッドさんだ。道はいくらでもある。これはかなり冷静になっている。よもや今の自分の不思議状態を受け入れ始めているのかもしれない。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、とにかくできることはしなければならない。やれることをやる。それが人間の生活だ。




