十年後、幼馴染みが帰ってきたら
幼馴染みが帰ってきた。立派な勇者様になって。
野暮ったかった髪は清潔に整えられて、簡素な無地の村人の服は立派な鎧に変わっていて。
あまりに見違えたから、他の村人なんか、最初は彼だってことがわからなかったみたいだ。
「リース! 久しぶり。変わらないな、お前は」
ざわめく気配につられて出てきた自分に、彼は真っ白な歯を見せて屈託なく笑いかけてくる。
笑い方だけは全く変わっていなかった。だから思わず、笑い返してしまった。
「お帰り、ゼン」
最初から、世界が違っていたように思う。
ゼンはひなびた田舎に収まるはずのない、生命力に満ちた存在だった。
「俺はいつか、世界に出る!」
わらわらいる農民の子達。ゼンは一際輝いていた。
でも好奇心と体力気力が満ちすぎていて、しょっちゅう死にかけていた。
高い所から落ちる、触っちゃいけないものに触る、よくわからないものを口にする……ぶっ倒れては村はずれの薬師の家に放り込まれる、それが幼いゼンの日常だった。
「世界に出るのはいいけど、それまでちゃんと生き延びられたらの話でしょ」
薬師の孫は、ばあちゃんの煎じた薬草を飲ませたり塗ったりしてやって、復活したゼンにお小言を言う係だった。
おかげで奴のどこにどんな怪我の痕があるか、たぶん、ゼンの家族以上に知っていた。ひょっとしたら、本人よりも詳しかったかもしれないぐらい。
「死なねえよ! 俺はいつか、世界を救う勇者様になるんだから!」
悪ガキは何度酷い目に遭っても懲りなかった。運がいいんだか悪いんだかわからない。
ただ、「持っている」人間とはこうしたものだろうな、とは、幼心に感じていた。たぶん、周りの大人達もそうだったんだろう。
ゼンは平凡な農家の子どもの割に、色んな所に出入りしていた。
体力お化けだったから、家の手伝いをさっさと終わらせては、元冒険者のおじさん、魔法の使い方を知っている隣の家のママ、時々近くまでやってくる行商人――ありとあらゆる大人に、好奇心のまま寄っていって、質問をぶつけまくっていた。
うちのばあちゃんも散々質問攻めにされた。ばあちゃんは全然喋らない人だから滅多に答えを返してやらなかったけど、ゼンが横で観察したり見よう見まねで真似したりすることは止めなかった。そして時折、「そうじゃない」と指摘してやっていた。
人なつっこいゼンは、欲な好奇心のままに教えられたことを全部吸収していき、ほとんど全てに才覚を示した。
薬の扱いだって、あっという間に薬師の孫を追い越した。
それでも怪我や病気になると、絶対に我が家までやってくる。担ぎ込まれずとも、徒歩で毎回訪ねてくるのだ。
「ここをなんだと思っているの」
「んー……帰る家?」
「君の家は、君の家族のいる所でしょ」
とっくに自分で自分の治療ができるようになっていても、包帯を巻いてやるのは薬師の孫だった。
ゼンは自分が慣れた手つきで治療を進めるのを、何が面白いんだか真っ白な歯を見せて上機嫌に見守っていた。
――特別な子で、ひなびた田舎なんかに収まるタマじゃないって、誰もがわかっていたんだから。
でもどこかで、このままずっと、ゼンの治療係は自分なんだって、思っていた所もあって。
ある日、あっけなく、お迎えは来た。
「この子はもっと広い世界に出て行くべきだ」
たまに村にやってきていた行商人が、ある日見慣れぬ立派な大人を連れてきた。
その大人はすぐにゼンに惚れ込み、そしてあっさり彼に世界への切符を渡した。
「リース。お前も来ないか?」
出立の前日、ゼンに呼び出されて誘われた。
満点の星空を二人で並んで見ながら、僕は返事をした。
――だって。
僕には彼ほどの才能はない。
村にいれば薬師としての役割をばあちゃんから継ぐだろうけど、もっと人の大勢いる場所に出たら、あっという間に埋もれる。わかっちゃうんだ。そういう身の程だってこと。
知的好奇心がないわけじゃないけど、危険を冒してまで知らない所に行きたいとは思わない。
まして、知らない人と交流したいなんて絶対に思わない。
僕は隣に、僕の見知った人が毎日いてくれれば、それでいい。
それに、ばあちゃんを置いていけない。
父さんは誰かもわからない、母さんは産褥熱で死んだ。たった一人の家族、それも目が悪くなって足を引きずっているようなのに、離れられるわけがない。
――でも、何よりも。
外の世界に羽ばたいていく君の隣にいられない。
だって僕は、君が。君を。君の……。
僕は、ゼン。
君を僕のものにしたい。
羽ばたく君の傷つく翼。それを撫でるのが僕。
僕を連れて行くなら、それを続けるってことだ。一生。一生! だって僕はそれしか知らない。君が僕をそうした。君に一切悪気やその気がなかったのだとしても、僕はもう、君に触れるのが僕でなければ落ち着かない。
だから君と行けない。君とだけは、絶対に行けない。
こんな僕を知られるわけにはいかないから。
そういう、色んなことが浮かんだんだけど、僕はとても臆病だったから。
ただ、首を横に振って、それだけだった。
「……そっか」
だからだろうか。ゼンは珍しくそれだけしか言わなかった。
「じゃ、行ってくるわ」
翌日、あっさり手を振って、彼は旅立っていった。
――その後、勇気溢れる彼は期待通りのすさまじい活躍を挙げ、ついには魔王を倒し、「勇者」の称号を得た――と、風の噂に聞いていたけれど。
「やっぱりリースは手際がいいなあ」
「普通だと思うけど?」
ニコニコしながら、煎じ薬ができる様子を眺める。
そういうところは、出て行く前と全く同じ。
だけど、ふらっと出て行ったら、村を困らせていた魔物をあっさり仕留めて帰ってくるし、かすり傷はパパッと自分でなんとかしたようだし。
ああ、十年前のゼンではないのだな、と。
今更ながら、僕は何度も噛みしめさせられる。
「なあ、リース……」
「うん?」
「俺と一緒に、村を出ないか?」
ああ、でも、やっぱり。
彼は変わったけど、変わらない。
退屈な昼過ぎ、ほこりっぽい薬師の家で、なんでもないことのように口にする。
僕はさすがに手を止めざるを得なかった。思わず上げた目の先、真顔のゼンに射すくめられる。
「それか俺がこのまま村に残る、とか」
「……どういう、意味」
言葉は理解できる。だけどそれが何を意味しているのか、考えたくない。
きっと蒼白になっている僕から目を伏せ、頬をかいてゼンは言った。
「俺さ。たぶん……昔、お前のことが好きだったんだよ」
手を止めていて助かった。もし下手に平静を装って作業を続行していたら、間違いなく器具をひっくり返していたと思う。
はくはくと、僕は口を間抜けに動かす。陸に揚げられた魚みたいだ。
「それはさ……ただ、友達として、だけじゃなく。つまり、そういうこと、っていうか……」
――鈍い僕にだってわかったさ。ああ、わかっていたさ。
たぶんゼンは僕をちょっとだけ特別扱いしていた、って。
なんで毎回、自分の生まれた家じゃなくて、薬師の家の方に来るのか、って。
自分で手当できるようになってからも、僕にやらせていたのか、って。
でも、怖かった。
僕はその先に進むのが、怖かった。
そして、今は。
深呼吸して、口を開く。
星空の下、一緒に行こう、と誘われた時には出せなかった声。それを精一杯、振り絞る。
「昔、好きだったんだ」
「……うん」
――そう。
ゼンも僕も、変わらないままがあるのと同時に、明確に変わってしまった所がある。
十年。子どもが大人になる年。
彼は僕の知らない誰かと出会い、僕の知らない時間をその人と過ごした。
「いるんでしょう? 婚約者が」
「…………。うん」
風の噂、ではあるけれど。
彼はとっくに有名人で、ここは都会から遠く離れた田舎だけど、一応生まれ故郷でもあって。
時々は近況が聞こえてきた。大人達が集まって大声で喋るから、耳に入っていた。
だから、勇者になった彼が、今度王女様と結婚する、ってことも僕は知っている。
「男って単純だからさ。好きになってくれた子のことを、好きになりがちだよね」
「リース……」
僕は笑う。……意外と笑えた。何か言おうとする幼馴染みの唇に、薬草の匂いがこびりついた指先を向けて制す。
「ゼン、おめでとう。友人として君を祝福する。彼女とお幸せに」
――ごめん。
勇気溢れる君と僕は、何もかも違う。
僕は今でも臆病で、卑怯者で、自分が裏切られて傷つくことが何より嫌なんだ。
だから君に、僕と何かを天秤にかけて僕を選べなんて……そんな大それたこと、言えないよ。
ああ、でも、だけど。
好きだ。今でも君が好きだ。これは本当だ。ずっと変わらないんだ。
ゼン、ゼン。触りたい。抱きしめたい。そんな仰々しい鎧なんか全部脱ぎ捨ててしまって、また傷跡を数えさせてよ。
そうやって惨めにすがれたのなら、良かったのかな。これが君への愛だって、胸を張って言えたのかな。僕が女の子だったら、君の子を産めるからって、奪い取ろうと思えたのかな。
ああ、ぐちゃぐちゃだ。
君と違って、ただの一言を言うだけの勇気が出てこない。
――だけどね。
ずっと、同じように。君が僕に笑ってくれた分、僕は君に、きっと下手くそな、でも変わらない笑みを返してやる。昔も、今も。
これが、僕にできる精一杯の勇気、だから。
「……ああ。ああ、そうだな。ありがとう……リース」
僕が笑えば、彼はようやく、くしゃっと顔を歪めた。
ゼンにしては珍しい……なんだか泣いているようにも見える、そんな笑い方だった。
彼が愛おしいのは本当で。
なんでこんな風にしかなれないのかな、ってみじめな気持ちも本当で。
だけどゼンはもう、僕の家に泊まらないし、僕はきっと今夜一人で泣くんだろうなって。
翌朝、来る時と同じぐらい無計画な彼の出立に、僕は呆れたけど、彼らしいかと笑った。
「じゃ、ちょっくらまた世界を救ってくるわ」
勇気溢れる彼の無謀な言葉。子どもの頃は冗談みたいだった。今ではそれが、実績を伴った男の約束になっている。
十年前は、何も言えずただ呆然と見送るだけだった僕。
今日は少し腫れた目を押さえて、返すことができる。
「またね、ゼン」
彼は去って行く。きっと婚約者の元に帰っていく。これからはきっと、そこが彼の家になる。
そうなればいいな、と素直に思えた。
そうならなくてもいいな、とも思えた。
またいつか、ふらっと帰ってくるかもしれない。別にそれでもいい。その時彼が一人でも、隣に誰かを伴っていたとしても。
――何年後かに、また幼馴染みが帰ってきたら。
僕はまた「おかえり」と言ってやる。ああ、きっと言えるとも。