海帰る
どうも、星野紗奈です。
そろそろ賞で落選したシリーズが投稿される時期になってきましたね(笑)
ちゃんと構成して書こうとしたものほど落ちやすく、一気にぶつけて書いたものが評価されるのは、……なんだか複雑な気持ちです。すみません、独り言です()
今回はわりとがっつり純文学よりのつもりで書いた作品なので、読みにくいかもしれません。それでもかまわないという方はこのままお進みください。
それでは、どうぞ↓
人魚姫に、なりたかった。玄関に積まれた絵本の山を左から右へ、時間をかけて積み直しながら、小さな人の子はずっと夢想していた。左側の山がなくなったら、今度は右側の山を解体していく。人魚姫になりたい。人魚姫が一番好きなの。きっとこの世にあれほど美しいものはいないわ、きっとよ。人魚姫になったら、素敵な王子様を助けてあげて、つらいこともあるだろうけれど、二人でそれを乗り越えて結ばれるんだわ。そう信じながら、また山を高く築き上げる。夢に思いをはせて、小さな影がぽつんと一人、冷たい玄関でくふくふと笑っていた。
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この家という場所は、私にとっては非常に不可解で、気味の悪い箱庭だった。自分に似てしまった娘を可哀想と言いながら嘲笑する男。それは、自分に向けられている嫌悪にも気づかない間抜けなやつだった。それから、娘の一度の失敗をさも一家の恥だというふうに吹聴する女。これもまた、こびへつらうくらいの気概しかないものだった。そういう理不尽な存在に板挟みにされながら、どうして私はここまで生きてこられたのか、見当もつかなかった。ただ、一つ理由があるとするならば、そこには一隻の船があったからかもしれない。ブルーで統一された家具と、潮を歌う人工的なアロマの匂い。カーテンを閉め切ってその部屋に閉じ籠ると、どこかから潮騒が聞こえてくるような気がして、いくらか気分が和らいだ。それでも、下の階からあれの声が階段を拡声器にして私の耳まで伝わってくるので、やっぱり家という場所は嫌いだった。
私が嫌いだったのは、何も家だけではない。そもそも、この世界全体がおかしいのだ。人間は、最初から出来る人はいないだとか、知らないことは何でも聞いてくれだとか、そういうことをつらつらと並べる。そのくせ、出来ないと嫌というほど厳しく責め立てられ、知らないことを聞くとこいつは阿保かという目で見下される。私にだってそういう経験があるのだから、これを知らない人間などいるものか。大体、鉛筆を持ってこいと言われたから鉛筆を持って行ったのに、実はシャープペンシルでも大丈夫でした、なんて、そんなことが通用していいのか。逆に、鉛筆と書かれている時にシャープペンシルを持って行ったら、今度は鉛筆でないとダメだと注意された。私には、人間のルールというものがよくわからない。書ければ、どっちでもいいのではないか。わざわざ分ける理由があるなら、それを一から全て説明してくれ、でないと私の気が済まない。私がただの人間でないことくらい、とっくのとうに知っているのだから、教えてくれなきゃ、私は人間に溶け込むことだってできやしないのだ。言わないくせに察さないと蔑まれるなんて、どう考えてもおかしいはずなのに、人間はそれを当たり前のようにとらえて、毎日ヘコヘコしながらせっせと歯車を回している。そんなの、理不尽だ。
しかし、そんなおかしな世界に存在する大嫌いな家でも、あのベランダだけは、あそこから見える景色だけは、好きだった。一戸建ての三階だから、高さはそんなにないけれど、周りの建物も同じように低く背伸びをしているから、夕日がその陰に沈んでいくのをずっと眺めていられるのだ。私は、海が、好きだった。泳ぐのは嫌いだ。瞳を貫こうと海面から放たれる光の矢を、ただじっと眺めているのが好きだった。夕日が水平線の先に沈んでいくのを見るのは、もっと好きだった。夕日が空を燃やす様子はさながら世界の終わりだったし、海面にあらわれる一筋の光の道は私のことを誘っているようで、私を甘い幻想に浸らせるには十分すぎるものだった。この甲板から見えるあのあたたかな橙色の光は、家々の屋根に反射して、いつか見た美しい光彩を私の脳内に生みだす。だから、それは私の海そのものだった。その景色だけは、私がここに居てもいいと思える唯一の救いだった。
ベッドに沈んでいた腕を、真上にかざしてみる。窓には水面に浮かぶようにゆらりと光がさしていて、それを受けた腕は異常なほど真っ白く見える。けれど、いつもはあんなに汚く濁って見える肌の色が、この部屋にいる間だけは透き通って魅惑的に見えるのが不思議で、私はぼうっと酔っていた。ゆるく曲がった肘を抜けると、優しくおだやかな筋肉のふくらみがある。その繊細さを保ったまま上へ流れていくと、今度は骨ばった細い手首にたどり着く。そこで一度きゅっとしまって、手の甲に柔らかく浮き上がる筋を辿っていくと、美しい曲線を描く指の一本一本が目に映り込むのだ。これは確かに美しい、私はそう思わずにはいられなかった。それと同時に、もっと美しくはならないかという願望が胸の内に湧き上がってくるのだ。私が、人間以上のものであるならば――そうして、本能が理性を通り越して、気がついたときには腕に人魚の鱗が出来上がっているのだ。手の甲からひじの上まで、等間隔に散りばめられた赤い点線のカーブを、つうっとなぞる。まだ唾液が乾ききっていないのか、少しぬらりとしている。痛みはない。それは魔法の薬による産物のように、数十分もたてば消えてしまうものだったが、出来上がった人魚の腕はいつも私の想像をはるかに超えて魅惑的で、それに目を奪われているのが至福の時だった。もう一度、窓越しの光に透かして見る。白い肌に赤く浮き上がった鱗がよく映えていて、綺麗だ。それから、今度は足を上げてみる。私の足の指は少し長くて、そのアンバランスさは絶妙に人の気分を悪くさせる。加えて、爪は小さくいびつな形をしていて、小指に至ってはつぶれている。足の甲には、緑がかった汚水のような血管が薄く見える。ふくらはぎはでるんと垂れ下がって広がっており、膝の位置は左右でずれてぴたりとくっつかない。これを見ているのは、私にとって大変な苦痛だった。しかし、足首を交わらせるだけで、それは一転して美しい人魚のひれへと変貌する。散々馬鹿にされてきた大きな足も、だらしなく広がったふくらはぎも、食い違っていた膝も。人魚のひれになってしまえば、存外、悪くないのだ。他の人がこの様子を見たならば、例えばあれとか、きっと疑う余地もなく軽蔑を込めた視線を送るだろうけれど、私にはこの世にこれより美しいものがあるとは思われなかった。私は一つの芸術作品を生みだしたような充足感で満たされていた。
私はきっと、人間じゃない。おかしいと思うことはいくらでもあった。例えば、雨が好きだった。部屋にこうして籠っている時に、雨音が窓をノックしているのが聞こえてくるのが、好きだった。まるで、そんなところにいないで出ておいでと、遊びに誘われているような気分だった。それから、雨に濡れるのも、嫌じゃなかった。傘をさして歩いていると、時々、すごく唐突に、それをぶん投げたくなる。全身びしゃびしゃになって、雨の合唱をバックコーラスに大声で歌えたら、どんなに楽しいだろう。そういう誘惑を見つけては、湧き上がる衝動を必死に抑えて、ごまかすように傘の柄を何度も持ち直すのが私の癖だった。そういうおかしなことは、言えと言われたらいくらでも並べられる。だから、私が人間であるはずがないのだ。
それなのに、あれは私に人間でいることを強制してくるのだ。人間の成績だとか、面目だとか、そういったことは正直どうでもいい。けれど、それがなければ、私はこの船で生きていくことができない。これは、私だけの船じゃないからだ。食料を手に入れるにはあれがいる下の階へ降りなければならないし、衣服も家具も要望は聞いている風ではあるけれど結局一方的に与えられたものばかりだ。外へ出るにも必ず言伝をしないと、さもなければ――いや、その先は考えたくない。そのうえ、私の部屋は甲板とつながっているわけだから、突然扉をバンと開けて、あれが無断で入ってくるのだ。そのたびにじろじろと監視されているようで、随分気分が悪い。つまり私は、この船の一室に閉じ込められている、ということなのである。ああ、海に帰りたい!
すると突然、轟音が鳴り響き、荒波の如く船を揺さぶった。カンカンカンカン、ゴー、ドゥン。そんな奇怪な音が鼓膜を揺らすと、ぱちぱちと、私の中で泡がはじける思いがした。錨でつながれているような体をぎこちなく起こし、大きなすりガラスの窓を開けて、甲板に出てみる。まだ日はそれなりに高いというのに、人間がミニチュアでよくあるコマ撮りの映像作品みたいに、ちまちまと工事の作業を進めているのが見える。聞いた話では、ここに新しくマンションが建つらしい。それも、十階建て。本当は、ふざけるなと、今すぐにでもかみちぎってやりたい気持ちだったが、あいにく私には人間に対抗できるほどの力は備わっていなかった。この足じゃ、歩くことすらままならないのだから。マンションはぐんぐん成長して、もう、甲板にいる私と同じ高さになってしまった。私はいつもそれが、通り道をわざと塞いでくる男子小学生のように見えて、どうにももどかしい気分になってしまう。別に、あなたが悪いわけじゃないのだけれどね。それでも彼を憎まずにはいられないのだ。ボーゥ、ボーゥン、ダカダカダカ。こんな音を聞くくらいだったら、海深くにもぐりこんでもしつこくついてくるような、あの甲高い船の汽笛を聞かされているほうが何百倍もましだ。干からびそうな体のせいにして、私は室内へ戻る。カンキンカンコン、ダートン、タタン。ほの暗い部屋の中で、頭にこびりついて離れない。カートン、カートン、ズガガガガ。そういう音が胸中によみがえるたびに、私の中で何かがはじけていく気持ちがした。人間が船で海を渡っていくのと、どこか似ているような気がしたのだ。やめろ、やめてくれ。私は人間じゃないから、この船には乗っていられないのだ! 無性にそう叫びたくなって、憎たらしいあいつのほうを振り向いた。すると、ずんと、心臓を握り込まれた。ぱちぱちと、泡がはじける幻聴が聞こえる。やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。空きっぱなしのカーテンの奥で、解き放たれた窓の向こう側で、私のいる所よりずっと高く見える彼が、私のこの先をじっと見据えている。彼はまっすぐな日の光を浴びて、無色の光線を放っている。それは波のように、確かに私を目指して迫ってくるのだ。私は浜に打ち上げられた魚のように、惨めにはくはくと息をする。誰か助けてくれ、とは言えなかった。そもそも、私には王子様なんていやしないのだから……
ああ、ここにいては消えてしまう!
見失ったあの夕陽を目指して、私は甲板から勢いよく飛び込んだ。また、ぱちぱちと音が聞こえた。消えかかった人魚の鱗がふと視界に入り、私はそれをぎゅっと抱きしめる。長い髪がなびいて、まるで海藻みたいだなあとくすくす笑っているうちに、私が持つ臓器が全て泡に包まれる感触がした。かと思うと、今度はトコンと震えるような水音が骨を伝って体内で響きあった。それから、たぱたぱと、私の身体から空気が抜けて満たされていくような、心地の良い音楽が聞こえた。だんだんとそれらが遠のいていくと、私だけ見知らぬ場所に放り出されたかのように、あたりは光と闇に二極化されていく。光のあるところで白と赤がちらちらと入り乱れて、曇った輪がゆらゆらと浮かんでは消える。ふと目に映った、目の前でのっそりと佇んでいる真っ黒い無機物の彼は、どこか他人事のように思えた。ああ、あなた、海に帰りたがっている私のことなんか微塵も興味がないなんて顔をして、随分薄情者なのね。無数の泡をはじけさせながら、私の身体は重力に従ってゆっくりと沈んでいく。そして、ふと感じた眩しさに顔を上げれば、彼の向こうに、待ち望んでいた夕焼けが、あの、夕日が。その頃にはもう何の音も聞こえなくなって、私はようやく海底にたどり着いたようだった。背中に感じる冷たさは、いつかのあの日を思い出させる。やがて、私を満たしきった海水がたらりと溢れ出てきて、私はそっと目を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました(*'▽')