悪夢が動き出した!
汐見のLINEは首都高湾岸線を走る車の中から送信されていた。
運転中のスマホ操作は道路交通法違反だが、今は超が付く緊急事態だから構っちゃいられない。
(くっそう! 辰巳ジャンクションから先は大渋滞かよ! 最悪じゃねーか! )
道が空いてさえいれば、紗耶香のいる江戸川までは30分前後もあれば十分到着するはずなのだが、運悪く只今の時刻は夕方のラッシュ時間に差し掛かってしまっていた。
(これなら下道通った方が良かったのか? いやいや、そうやって上がったり下がったりしてたら余計な時間を食って、却って時間が掛かるんだわ。)
どうせ、紗耶香のバイト先に着いたところで、21時までは待たされる。
だから、そんなに急がなくても良いはずなのだが、
(なんか、なんか、なんかーっ! すげぇ嫌な予感がする。)
人工島での作戦が終了した後、マカミ様はオーガの臭いを辿って始末をつけてくるとか言って、何処かへ飛んで行ってしまった。
指揮所に残された汐見だったが、オーガの話を聞いてからは紗耶香のことが心配になってきて、その身柄を公安で保護することを上司に掛け合って了承させ、早速確保に掛かったのである。
最初は、自分が向かうのではなく、紗耶香の監視任務に就いている公機捜(公安機動捜査隊)の捜査員に頼むつもりでいた。
ところが、捜査員と連絡を取ろうとしたのだが、これが何故か音信不通になっていたのだ。
本部から連絡を取ってもらうようにしたが、その返事は未だ無い。
本来ならば、そんなに時間の掛かるやり取りでは無いはずなのだが、
(監視任務に就いてる連中に何か起きたのか? 冗談じゃないぞ! )
近頃の、異世界の魔人どもの活動が活発になっている状況下では、そういう可能性は十分に考えられる。
だから、気持ちはメチャメチャ焦っている。
人工島での作戦が終了した後、残された残務と確認作業は自衛隊に任せて車に飛び乗った。
それなのに、この渋滞にぶつかってしまったのである。
(くそっ! くそっ! くそーっ! )
アクセルを思い切り踏めずにいるもどかしさで、汐見は頭の血管がブチ切れそうになっていた。
◇
(うーん、変だなぁ。)
私はアルバイト先の “あじさい” の前にいる。
既に、店舗のシャッターが開いて、夕方の営業が始まっていなければならない時間帯である。
キャスター付きの電飾看板が点灯されていなければならないし、本日のオススメと日替わりメニューの掛かれた黒板も出ていなければならない。
ところが、シャッターは下りっぱなしなのである。
お昼の時間帯に営業していたのなら、いつもならば休業時間帯でもシャッターは開いているはず。
いちいちシャッターを開けたり閉めたりはせず、休業中はガラス戸のノブに準備中の札が掛けておくのがいつもの段取りだった。
それが無いということは、今日は昼から丸1日休業してたということになるのだが、
(いったい、どうしたんだろう? )
店長からのお休みの連絡は特に入ってない。
連絡も無しにお店を閉めてるなんてこと、これまでには一度も無かった。
定休日と年末年始以外、“あじさい” が閉まったことなんて、私がアルバイトを始めて以来一度も無いことである。
余程のことが無い限り、あの働き者の店長夫婦に限って不定期休業なんて有り得ないと思う。
(もしかして、余程のこと・・・あったの? )
病気だろうか?
でも、夫婦揃ってダウンなんてことにならない限りお店を閉めたりはしないと思う。
ある程度の調理はパートさんだってできるんだし、一部メニューに変更が出たとしても営業はするだろう。
だいたい、そんなんなら私に連絡がこないはずがない。
では、病気以外の余程のことっていったい?
ここで私は、現状で起こり得る中で最悪の可能性に思い至ってしまった。
その可能性は、先月、荒川河川敷のグラウンドで起きたあの忌まわしい事件の記憶と共に頭を過った。
多くの友人や知人が殺され、大切な親友を人質に取られて傷つけられ、自らも凌辱されかかった悪夢の光景が思い出された。
あんなことは絶対に、もう二度とあってはいけないはずなのに・・・
ジワジワと全身に鳥肌が広がっていくのが分かった。
そして、背筋が凍り付くほどの激しい悪寒に襲われた。
(店長! おばさん! 仁太くん! そんな! まさか! お願い! やめて! )
私は衝動的に駆け出していた。
“あじさい” は、店舗の後ろが住居になっており、隣のビルとの隙間の狭い路地を5メートルほど進むと玄関に突き当たる。
店長と奥さんと仁太くんの家族3人が住む家の玄関である。
私は夢中で玄関の前まで走り、躊躇うことなくインターフォンのボタンを押した。
すると家の中でチャイムが鳴った。
外に立っている私にもハッキリ聞こえるほどの大きな音で鳴った。
しかし、
(誰も出てこない。)
もう一度ボタンを押したが返事はない。
更にもう一度押したが、やはり反応は無かった。
今、私の心の中では、激しい警告音が鳴り響いていた。
夥しい数の危険信号が点滅し始めていた。
(どうしたら良いの? )
私は “戦わない宣言” をした時に誓っていた、危ない目に会いそうだったら逃げると。
だって、私には何もできないのだから、どんなに情けなくても逃げるしかないのだと言った。
(でも、逃げるなんて無理だよ! )
玄関のドアの向こうでは何が起きているのか?
また私のせいで酷い目に会う人が出たのだろうか?
私の大好きな “あじさい” の皆が、ナツキと同じ目にあわされているのだろうか?
それを確かめずに、放置したまま逃げるなんてできるはずがない。
結局、私は考えるでもなく悩むわけでもなく、殆ど反射的に玄関のドアノブに手を掛けて回した。
すると、鍵は掛かっておらず、ノブは軽く半回転した。
(で、この後はどうするのよ? )
“あじさい” の皆が人質に取られていたら助けられるのか?
また、洲崎がいたら私はどう対処すれば良いのか?
何も考えていなかった。
ただ、今起きている事態を確かめるためには、ドアを開けて進まなければならないと思っていただけだった。
「お邪魔します! 店長? 仁太くん? 」
一応声を掛けてから、覗き込むようにして敷居を跨いだ。
そこは、これまでに何度も出入りしたことがある玄関である。
いつも、店長一家の誰かが笑顔と元気の良い挨拶で出迎えてくれる明るい玄関のはずだった。
それが、今は灯りも点いておらず、まるで真っ暗な深い洞窟の入り口のようである。
この洞窟の奥にはナニモノが潜んでいるのか?
動揺する心を押さえつつ、家の中に一歩踏み込んだ途端、心の中の警告音はピークに達し、危険信号が一段と激しく点滅した。
「うっ! 臭っ! 」
家の中に立ち込めていた猛烈な悪臭が鼻腔に突き刺さってきた。
鉄錆の臭いを100倍ぐらいに濃く煮詰めたような臭いである。
それに生き物の死骸が発する生臭さも混じっている。
私が、その悪臭に怯み、その出どころに戸惑ったのは、ホンの数秒間のことだった。
暗がりに慣れ、玄関を入って直ぐの様子が目に飛び込んできた。
「ひっ! 」
悲鳴は出なかった。
それを見付けてしまった瞬間に声が掠れて消えてしまったようで、大きく口を開いているのに喉の奥からは空気しか漏れ出てこなかった。
その代わりに、両方の目から涙が溢れ出してきて止まらなくなった。
身体中の関節がブルブルと震え出して、立っているのがやっとの状態になった。
「じ・・・た・・・くん・・・ 」
私が玄関先で見たのは、ズタズタに切り刻まれ放置された、この家の一人息子、小学4年生の仁太くんの上半身だった。




