戦場の鬼たち 柒
ドグル大平原中央部は、長く続いている国境域での戦い――度重なる殲滅魔術の行使により、盆地のような環境へと、その在り方を変えられている。元々、広大であることもあって、勾配自体はなだらかだが、ドグル大平原が広いからこそ、結果的に、高低差が生まれている。
軍事的な視点で、ドグル大平原中央部という環境を語るのならば、軍の方針として避けるべきは、敵に裏を取られること。背後に回られた時点で、高所に陣取られたも同然となり、攻守ともに優位な状況を敵へ与えることになるからである。
最も低い位置となる大平原中央で交戦できるようにと、丘陵地帯に両軍が陣取り、裏を取られないようにと夜間の警戒をしている理由の一つが、それである。
要するに、だ……マーク=レメノーダ率いる辺境伯領前軍は、ムネシゲ=B=ウィロウ率いる黒仮面の集団――傭兵クラン『ラーメンハウス』の面々に、自陣を力づくで抜かれ、背後への侵入を許してしまった、そういうことである。
この事実だけでも取り返しのつかない、まさに痛恨に等しい被害ではあるのだが、行動の読めない集団の対処に注力せざるを得ないマークからすれば、最早それどころではない。
2つに割かれた前軍に対し、長蛇の陣と呼ばれる縦長の陣形よりも、さらに間延びさせた黒仮面の集団が2つに分かれる姿を見て、マークは即座に口を開く。
「――っ!? 閣下!!」
「うむ、そういうことか……ならばここは――」
――多数で敵兵に当たり各個撃破せよ!
被害こそ大きいものの、彼我の兵数差はいまだ大きい。本来であれば、マークが焦ることはなく、憂慮すべきことなど皆無のはずである。
だが、マークの脳内では、その2つの事柄が判断を迫っていた。
まず1つ目、現ウィロウ公爵であるムネシゲ=B=ウィロウの強さと、彼に追従する黒仮面の集団。
特記戦力と呼称される、ガルディアナ大陸の英傑の中でも最高位に位置付けされる者達、その中でも最強の呼び声高き、ガルディアナ大陸最高の剣士。
――蒼風のレイヴン。
自国他国問わず幾人もの英傑を知り、当然ながら、長年の敵でもあるレイヴンのことも、よく知っているマーク。そんな彼から見ても、先代に負けず劣らぬ、その圧倒的な武力を惜しげもなく披露する現ウィロウ公爵は、英傑の中でもトップクラスの実力を秘める武人であると、マークは断言できる。
実際に接敵する人数は少なくとも、結果的には約1万もの兵を、道端の草花を引き抜くような気軽さで宙に舞わせた。それも、おおよそ尋常ではない行軍速度で、それを為す。
そんなことを両手に握られた斧槍のみでやってのける、その凄まじい強さが、マークという勇将を迷わせる。
――退くか、抗うか。
とはいえ、将軍であるマークが気になっているのは、現ウィロウ公爵だけが強いのかどうか、つまり、引き連れてきた黒仮面の集団の脅威度が、率いてきた者の強さに比例するかどうかだ。
無論、ほぼ無傷という状態で、陣の奥深くにいるというだけでも警戒に値すると、マークは見ている。だが、直前に披露された圧倒的な武が脳裏にこびりついている以上、その考えに至ってしまうのも仕方のないこと。
――黒仮面の集団は、強いのか弱いのか。
現ウィロウ公爵がどれだけ強くとも、辺境伯領軍の前軍が総員でかかればどうにかなるはずと、マークは考えているからこそ、黒仮面の集団の存在が、脳内にある盤面の中でどうにも目につく。
弱兵とは一切思ってはいない、間違いなく強兵の類であるはずだ。では、どこまでの武を備えているのか――今のマークは、可能な限り迅速な判断を下す必要があり、その結果、人数差を活かした各個撃破の令を発したわけだ。
この場の対応としては、間違いなく及第点であり、尋常であれば、正道とも評せる指揮と言えた。
だが、はっきりと述べるならば、マークがどのように判断しようとも関係が無かった。
戦地での情報を精査し、可能であると判断したからこそ、今日、このタイミングで、傍目には無謀に見える行動を、ムネシゲ=B=ウィロウは起こしたのだから。
さて、マークが気になっている、もうひとつの事柄とは、殲滅魔術の余波消失後に動くであろう、ウィロウ公爵領軍の動向。
およそ3000の兵とともに、10倍以上の辺境伯領前軍へと奇襲を仕掛け、見事に成功させた現ウィロウ公爵の、軍人としての手腕と武人としての力量を、身を以て知ったマークは、素直に賞賛するとともに、強烈すぎる畏怖を覚えていた。
同時に、その事実が導いてきた、この危機的状況をどうすればいいかと、頭を悩ませることになる。
マーク達、辺境伯領前軍にとっての問題は、現ウィロウ公爵が引き連れてきた兵が、およそ3000人――たったそれだけの数しか存在していないことにある。
それは裏を返せば、殲滅魔術の余波がなくなり次第、残りのウィロウ公爵領軍が攻め上がってくるという、わかりきった未来につながり、その絵が見えていることが、マークを迷わせている。
事前に通知されてあることから、後軍――魔導騎士団が動くことはない。
そのこと自体は、マークが抱えている事情を鑑みれば、好都合なことではあるのだが、それは戦いに負けない前提があってこそ。
前軍としての形を留めるには、兵の損耗は4割程までしか許容できない。以降の軍事行動の質が著しく下がることから、ランベルジュ皇国軍では、半数近くにまで兵が失われた際には撤退が推奨されている。
元々、黒き狩猟者と名付けられた未確認敵性体によって、開戦前に多数の兵が失われていたものの、前軍と中軍の兵数調整により戦線を維持し、戦いの継続を決めた経緯がある以上、その損耗は影響しないものと定めた辺境伯領軍。
兵士の配分は、前軍約40000、中軍約50000、後軍約30000――なお、後軍には魔導騎士団の約20000を含む――総勢12万。
実際には半数近くの兵を失ってはいる前軍だが、実質的には2割から3割程度の損耗であるとみなしており、問題のない被害状況であると判断したマークは、継戦することを決めた。
そして、これから相見える強敵を見据えた――結果、マーク、そのことに気づいてしまった。
「……なんということだ」
「閣下?」
「あれを見よ――」
副官であるアノロス=ラマドに対して、マークが促したのは、つい先ほど黒仮面の集団によって壊滅的被害をもたらされ、地べたに横たわっている自軍の兵達の観察。
マークは、先ほどまで、そのことに気付いてなかった。迅速かつ猛烈な勢いで駆け抜けてくる、圧倒的な武を避けることで精一杯だったから。災害じみた被害が、突如として目の前に現れたことで正常な思考能力が奪われ、一切の余裕が失われていたから。
遅れながらも、同じことに気付いたアノロスもまた、マークと同じように驚愕していた、
ただの一兵たりとも――命が奪われていない。
ユグドレアの戦場において、死すれば魂が霊子領域に還り、分解された魄がステータスユニットに吸収され、後には肉体だけが残るのが常識。
臨界時の魔素よりも濃い、光の粒子となった魂が、世界に溶けていくように消えていくのが、ユグドレアでは当たり前の光景。
そんな当たり前が見当たらない、そんな異常を見せられたマークは、畏怖というよりは、恐慌と呼ぶべき感情に襲われていた。
「あ、りえるのか、こんなこと……」
「わかりません、ですが――」
「あ、ああ、そうだな……実際見せられてはな。しかし、これは……あまりにも厄介すぎるぞ」
「ですね……もし、これを、狙ってやっているとしたら――」
「うむ、武人としてだけでなく、軍人としても一流、いや、それ以上やも知れんな」
人格者であるはずのマークが、厄介であると思わず悪態をついてしまった兵士の存命という事実は、喜びよりも危機感が先に来る理由となり得る。
客観的かつ現実的、その上で、倫理観を排除して論じた場合、負傷などにより動けなくなった自軍の兵には、死んでもらった方が、軍事行動上では理に適っている。
戦地で行動不可となった自軍の兵は、敵対する兵よりも、自軍に損害を与える可能性が高いからだ。
主な理由は2つ、糧食の消費量と行軍速度。特に、マークのように兵を率いる者達からすると、糧食の重要性こそが肝要である。
当たり前の話だが戦争には金がかかる、どれだけ魔道技術が発達しようとも変わりようがない真理である。
現在のユグドレアでの戦場において、最も価値が高いのは間違いなく――糧食。
今のユグドレアは――飢餓の時代である。
一部の地域を除いて、惑星規模で潤沢な食料供給が可能な地球に暮らす者とは、食に対する執着が桁違いなユグドレアでは、たとえ僅かな量でも口にできるかどうかで、心身の機能性の高低が変動する。
これは、兵站という軍の食を司る者たちの価値を高めている理由でもあり、ウィロウ公爵領軍もヴァルフリード辺境伯領軍も、後軍内の最も守りの硬い位置に兵站部を据えていることからも、非常に重要視されていることが窺える。
それは、軍事行動下にある者たちを養う義務が、軍にあるからこその動きであり、それ故に、糧食を管理運搬する兵站を全力で支えていることに他ならない。
つまり、将と呼ぶにふさわしい軍人であれば、糧食の重要性を、ほぼ間違いなく理解しているということだ。
だからこそ、兵士としての機能を失った者たちの存在は、軍を指揮する立場に就く者にとって、悩みの種になってしまう。
動けなくとも自軍の兵である以上、兵士として働けなくとも自国の民である以上、糧食の分配は、行われて然るべき。帰還させるにせよ、回復させるにせよ、軍は必ず糧食を配布しなければならない。
もし、それを怠れば――兵からの信を失い、士気が激減しかねないからだ。
いわゆる兵糧攻めが、戦時において有効な戦術とみなされているのは、こういった事情を、いかなる軍であろうとも、等しく抱えているからである。
厄介であると思わず口にし、同時に、軍人としての才の高さを評さなければならないともマークが口にしたのは、手加減することで、兵をあえて殺さなかった可能性が発覚したから。
その予想が皮肉にも正しかったと、絶望感に等しい焦燥とともに、マーク=レメノーダはすぐさま思い知らされることになる。




