黒の狩人 Ⅰ
突如として異変は起こり、誰も彼も気付かず、懐深くにまで異端は入り込んでいた。
既に、何もかもが手遅れだった。
そんな中、その男は必死に抑えていた。今にも叫び出しそうで、込み上げる吐き気もこらえながら。
意思とは裏腹に震えだす身体を、地面に無理やり押し付けることで、なんとかギリギリのところで男は留めていた――決壊しかけている、心を。
あふれる涙をぬぐうことも忘れ、瞳を閉じることで逃避することを選んだ男は、いまだ脳裏にこびりついている、あの光景の一部になることを何よりも恐れていた。
ナヴァル王国、というよりも、ウィロウ公爵領軍の精強さをよく知る男は、ドグル大平原での戦いの激しさを身を以って知っている。その辛さも、厳しさも、怖さも、よく理解している。
だからこそ、男は恐ろしくてたまらない。そんな存在がいるということを、男は誰からも聞いたことがない。
――アイツは、あの黒は、死そのものだ。
周りの暗がりよりも冥い、音すら喰らう闇き者に、男は心の底から怯えているのだ。
今、男がいる場所では音が無いという事実、示す意味の恐ろしさ。
殺す前も、殺した後も、その場から消える時も。
どこからともなく現れては首に触れ、血の一滴も散らさずに、命を断つ。それが行なわれている間も、物言わぬ骸が地に崩れた時も、一切の音がそこには無かった。
そして、男の仲間達――983の兵の音が、夜闇へと消えていったのだ。
夜が明け、朝を迎えたヴァルフリード辺境伯領軍の駐留地点に13人の兵が現れ、全員がほぼ同じ内容の報告をした。
怯えきっていた兵達が伝えてきた惨状と目撃談は、尋常ならざる怪物がナヴァル王国側に存在することをランベルジュ皇国群上層部へと知らしめる。
その危険性を知ったことで、人族領域の暗部にて今もなお躍動している暗殺者を想起した上層部は、かの異名に準えた名称を決定、すぐさま全軍に通達することになる。
――黒き狩猟者に警戒せよ、と。
「――だから貴族って嫌いなんだよね!」
「声が大きいよ、姉さん……」
「いやいやエドガー、ここは怒るところだろ!!」
「アレックスまで……」
シンとサーナが第1騎士団の駐留場所へと戻った後に聞かされた、第3大隊の任務、その内容は、ドグル大平原東に駐留するヴァルフリード辺境伯領軍への偵察行動。
なお、有用な情報を取得するまで帰還は認められない。
つまり、第1騎士団員のさじ加減で持ち帰ってきた情報の良し悪しが決まるため、実質、物資の補給ができない――第3大隊はドグル大平原のいずこかで飢え死にしろと、言葉の外で伝えられたのである。
任務内容の真意を悟った第3大隊の士気は最低域にまで落ちており、このような状態での任務の遂行はあまりにも危険である。
だが、そうとわかっていても、やらなければならない。
例えそれが、巨獣の口に飛び込むような自殺行為であるとわかっていても、行かねばならない。
もし行かなければ、残してきた家族や友人、恋人の命が脅かされてしまうから。
第3大隊に所属する者は、己の未来など路傍に捨て置き、ひたすらに前へと進まなければならないということだ。
「んー……」
「どうかしましたか、マル、ル、ル……シン君」
(ここまでくるとむしろオイシイんじゃないか、これ……じゃなくて――)
「んんっ、あー……ちょっと気になってね」
「えー、なになに、どうしたの?」
「あわわ、ごめんねシン君、姉さんがうるさく痛っ!?」
「誰がうるさいのよ誰が!!」
「答えそのものが怒ってるとか笑えのわっ!?」
「のわっ、だって、のわっ!?」
「てめ、レベッカ待てこら!」
「あはは、待つわけないでしょ!」
やたらと元気で表情豊か、ちょくちょく変顔を見せつける愉快な女の子――レベッカ、15歳。
レベッカを姉さんと呼ぶ、大人しい男の子――エドガー、14歳。
エドガーの姉であるレベッカに追いつき、現代地球で言うところのアイアンクローをかます、手くっさ手くっさ、と連呼されている、どうやら手のひらが臭い男――アレックス、18歳。
シンとサーナにこの3人を加えた5人が、第18分隊の面々である。
砦前の挨拶終了後、第3大隊に割り当てられた野営地へと戻ったシンとサーナ。
兵が集められ、第3大隊隊長のやる気の見られない挨拶が始まっては終わり、分隊編成の開始を知らせる鐘が鳴り響いてから数分後、野営地の一角から男の怒号が響いた。
何事かと目を向けたシンが見たものは、十数人の大人達と揉めている少年少女の姿。
シンとサーナが、レベッカ達3人と出会った瞬間である。
「――なんで!? 自分たちのがあるでしょ!」
「レベッカの言う通りだ、なんでテメエらなんかに――」
「うるせえ、いいから寄越しやがれ!!」
国内の平民達を兵として徴用した民兵が大部分を占めている第3大隊、当然ながら、兵達それぞれが職を持ち、普段暮らしている場所で日々を過ごしている。
ここで、ひとつ問題になることがある。
第3大隊には、第1騎士団が強制的に徴用した者達の他に、貴族達の反感を買ったことで半ば強制的に兵士にさせられた者もいる。
そういった者達の中には、傭兵の姿もあった。
「く、そが……」
「テメエみてえな素人が俺をどうにかできるとか、思ってんじゃねえよっ!!」
「――ぐあっ!?」
「アレックス!?」
(おいおい、それはやり過ぎ――サーナさん?)
集団のまとめ役であろう巨漢が前蹴りを見舞い、机や椅子を散らしながら転がっていく少年。相当頭に血が上っているのだろう、背負っていた両手持ちの大剣を鞘から抜いた巨漢は、少年の下へ歩を進めていく。
さすがにやりすぎだと、シンが向かおうとした瞬間、先んじたサーナが足早に少年の元へ。
そして――
「――いい加減にしなさい」
いつも通り静かな口調で、しかし明確に、巨漢の前に立ちはだかったサーナは伝える――それ以上はやめなさい、と。
「はっ、ずいぶんと綺麗な嬢ちゃん――」
「黙りなさい」
「――っ!?」
仕草、振る舞い、雰囲気。
武の道に生きる者が他者を同類と確信するのは、決まって言葉以外である。
腰に下げられている剣、その柄にサーナが手を添えた瞬間、巨漢は察した――目の前の金髪女が自分と同等か、それ以上の武人であると。
――これから先は武で以って。
そのように語ってくるような鋭い眼差しに、巨漢は口角を上げることで応じた。
「テメエ……ウィロウ派か」
「……何か問題でも?」
「ちっ……『膂力増強』、『速力増強』、『反応向上』」
「……それで届くのですか?」
「うるせえよ…………ふっ!!」
ナヴァル貴族は、ガルディアナ大陸の国々の中で、最も好戦的な貴族として有名である。
なぜ好戦的と思われているか、その所以は数多く存在するが、その1つに、ドラゴネス侯爵家がなにゆえドラゴネスの名を与えられたか、その謂れがある。
曰く――竜狩り。
初代ドラゴネス侯爵にあたる人物が、当時のウィロウ公爵家当主とともに、飛竜種最強と言われているワイバーン・ネメシス、その変異種――ギルガネスと呼称された個体を討伐、その功績により、平民の傭兵だった彼が子爵位を授かり、その後も代を重ねては戦功を積み上げ、現代のドラゴネス侯爵家がある。
ナヴァル王国の武の象徴にして最強の名を欲しいままにしているウィロウ公爵家、それに勝る貴族の家系がナヴァル王国に存在していないのは確かだろう。
だからといってそれは、ドラゴネス侯爵家や他の武闘派のナヴァル貴族が弱いという意味ではない。
そして、サーナは13年、マルス=ドラゴネスの従者として仕えてきた。
「うぉらぁっ――なっ、くぁっ!?」
「…………」
「ちっ、やりにくいったらねえな、おい」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
竜狩り一族とも呼ばれるドラゴネス侯爵家は、武も魔も問わず、良いものは良いとして取り入れた結果、ウィロウ公爵家に次ぐ武闘派貴族として、名実共に認められる武の家系へと至った。
だとすれば、ドラゴネス侯爵家の一員として、嫡子候補であるマルスの従者を任されていたサーナが――弱いわけがない。
シンと共にドグル大平原にサーナが向かうことをガデルが許可しているという事実こそが、何よりもその証明である。




