黒鬼と彼女の誓いと咎人
ドグル大平原に集結したナヴァル王国兵30万が所属する軍は、大きく分けて2つ。
1.ナヴァル王国第1騎士団。兵数は約20万。
第1騎士団員のみが所属する正規部隊で構成される1軍、緊急徴兵令により集まった民兵や傭兵が属する非正規部隊で構成される2軍。
この2つの軍に、騎士学院や魔法学院を卒業したばかりの新兵を中心に構成される特別選抜連隊が加わる。
指揮系統の全ては、第1騎士団団長であるシルバ=ランフィスタが有している。
2.東国境方面統括軍。兵数は約10万。
通称 東方軍。10の連隊で構成されており、半分以上がウィロウ公爵領軍所属の平民出の兵士、残り半分はナヴァル王国第2騎士団ウィロウ公爵領支部に所属する騎士。ちなみに、第2騎士団は団長含め、所属する騎士全員が平民である。
つまり、東方軍のほとんどが平民である。
東方軍の場合、2つの権限を軸に指揮系統が構築されている。
1つは、総指揮官が有する戦略的指揮権。
軍全体の方針決定後、戦略的行動が必要な際に、軍を自由に動かす権限。総指揮官が有する。
2つ目は、連隊長以下が有する戦術的指揮権。
軍の戦略方針を達成するために必要な局地的行動を命ずる権限と、戦地にて流動的な対処を可能にさせる為の権限。連隊長以下が有し、序列上位者の権限行使が基本的には優先される。
また、臨時的に権限を譲渡することが認められており、複数の連隊を束ねた上での軍事行動なども可能である。
先ほど、ドグル大平原に集まった兵達に余興と士気を高める挨拶を見事にぶちかました、元ウィロウ公爵夫人のレヴェナ=B=ウィロウ。通称、紅蓮のレヴェナと呼ばれている彼女は、東方軍第1から第5連隊の隊長を兼任している、つまり、5連隊分の戦術的指揮権を有しているわけだ。
ナヴァル王国の軍人として特別な地位に就くことを辞意してはいるものの、ウィロウ公爵家の一員であり、戦果と戦功の凄まじさで以って名を馳せるのが、レヴェナという女エルフ。
そんな彼女が総指揮官ではないのなら、誰が東方軍の戦略的指揮権を有する者なのか。
レヴェナの挨拶の後、兵達の前に姿を現した大男こそがそうであると、兵達は理解させられていた。無論、紅蓮のレヴェナが有していないのだから、最後に現れた者が必然的に有するはずといった、消去法にて理解に至ったわけではない。
黒を基調とした軍服姿で兵達の前に現れた大男、それだけであれば何の問題もないのだが、それを見た兵達は、皆一様に困惑していた。
わからないのだ、それのせいで。彼の顔立ちも、感情も、髪の色も。
オーガを模したような黒仮面が、それらの情報全てを遮断している。
しかし、彼が東方軍の総大将であり、総指揮官であることを疑う者はいない。
一歩、また一歩と、彼が進んできていた時から、兵達はそのことをを察していた。
明らかに空気が変わっているのだ。それと同時に、いや、だからこそなのか、彼が一歩近づく度に兵達の中に何かが生まれている。
例えるならそれは、父親に見守られてるかのような、そんな安心感にも似た何か。
そして、大男が口を開く。
「……生きて帰れ」
たったの一言。
だが、その一言が全てを語っていた。
敵を討て、でもない。
死を恐れるな、でもない。
生きて帰れと、眼下に集まっている兵達に、大男は――命じたのだ。
――この戦争で死ぬな、と。
――戦争を終えたら帰れ、と。
これは命令だ。
戦略的指揮権を有するであろう黒仮面の大男が発した、東方軍が達成すべき軍事的目標、あえて明確に言葉にするならば、生存と帰還であろうか。
ともあれ、兵達は――第1騎士団の騎士を含めた全ての兵達は大男が口にした言葉の意味を理解した。
つまりは、こういうことである――東方軍は、兵達の生存と帰還を大前提とした軍事行動を行なう。
どこの誰であろうと死地へ向かわせるような愚かで無謀な采配はせず――させず、死が眼前まで踏み込んでくるような劣勢にはさせないと、大男は明確に示しのだ。
そしてそれは、貴族、平民、貧民と揶揄されている者、それぞれの立場など捨て置き、肩を並べて戦場を生き抜け――そのような意が込もる言葉でもあったということを、全ての兵達が等しく理解させられた。
だからこそ、全ての兵達が応えた。
故に、裂帛とも評せる気迫のこもった一言で返した。
――応、と。
何故か視界が揺れ、何故か詰まった声で、兵達は全力で応えたのである。
熱が伝播していく。
胸の奥のさらに奥、きっと――魂が騒いでいるのだと、皆が実感していた。
それはきっと、感動させられたということ。
感情を、何か大きな力で動かされたのだ。
そうでなければ、説明できない。
何故、頬が濡れているのか。
何故、皆と一緒に応えたのか。
何故、口から出た音がくぐもっていたのか。
筋道がしっかり通っている返答など何一つできる訳がないと、きっと全員がわかっていた。
理屈じゃない。
大男が、ひとつ言い放った、あの瞬間。
きっと、黒い仮面の大男と全ての兵の心が、ほんの一時だけ、何故か繋がったのだ。
それは、ある種の魔法だったのかもしれない。
一瞬だけ、瞬きひとつの間だけ、兵達には黒づくめの大男の――その大きな背中が見えていた。
そして、やはり一言だけ、黙しながらも語っていたと、皆が思っていた。
――ついてこい、と。
あの大男は、口と背中でひとつずつ語ることで、ドグル大平原に集ったナヴァル王国兵の心を掴んだのである。
「か、かっけぇ……」
「はい……すごい方ですね」
砦前での指揮官の挨拶も終わり、兵達は、それぞれの部隊に割り当てられた野営地へ向かう。
それは、シンとサーナも同様で、2人は、第3大隊に割り当てられた野営地へもどることになる。
道中、見目が良いサーナに声をかける者もいたが、シンが穏便に穏当に平穏無事に相手が済むように対処。そのことにサーナが微笑みながら礼を言う――そんなごく普通のやりとりをするサーナの姿を見たシンは、安堵していた。
シンが意識を覚醒させたあの日以降、サーナは、シンに対する距離感がわからないでいた。
無理もない。
サーナにとってマルスという存在は、決して軽いものではないのだから。
幼き頃から付き従い、ともに育ってきた時間は、2人の間の親愛をも育てていた。
ともに笑い、ともに憤り、ともに悲しみ、ともに歩んでいく。
2人は、ただそれだけでよかった。
――いつも、いつまでも一緒に。
それは、平民落ちしたマルスに伝えられた言葉。
それは、シンの脳裏に映し出された優しい光景。
サーナが誓った瞬間にマルスの中に生まれた喜びの感情は、理不尽に踏み躙られて闇に堕ちかけていた心と魂を優しく包み込み、傷一つ残すことなく癒した。
だからこそシンは、咎という名の楔を自らの心に刺し入れることを選んだ。
つまり、シンにとってサーナは――サーナさんでなければならない、そういうことである。
ともあれ現在のサーナは、シンと滞りなく共同生活を送れる適切な距離感を知ったようで、スムーズな意思の疎通を取れるようになった。
だが、名前を呼ぶ時にどうしてもマルスと呼んでしまいそうになることと、2人きりの時に様付けで呼んでしまうことに関しては、まだまだ収まる気配は無い。
そもそも、サーナはマルスが世に産まれた瞬間から側にいる。
つまり、サーナとマルスの間には13年の歴史が――思い出が存在するということ。
サーナがシンに語りかける際に、マルスと口にしてしまうのも、致し方のないことである。




