緊急事態
紀元――それは、ある出来事が起こった年を始点とし、その時点から何年経過したかで時間を測定する、異世界である地球で考案された無限の紀年法。
ユグドレアでは暦の数え方が統一されたことはなく、大方の場合、各大陸の国々が独自に定めることが常であった。
5大陸全ての人々が、その偉業を知るまでは。
真なる聖女の孫にあたる人物――魔道王と称されし大魔道士が、5大陸全てを繋ぐ空間転移陣を完成させ、大陸間の交流が始まったその日。
人知れず世界が救われていたことを、ガルディアナ大陸を除く4大陸の人々が知ったその日。
人々は、その偉大なる功績に感謝すると同時に世界が繋がったことを祝し、魔道王の提案を採用することを決めた。
その提案とは、5大陸が繋がったその日を、異世界である第17世界超越線に存在するある惑星で使われている紀年法における名称――紀元に、真なる聖女の名を冠し、ユグドレアにおける暦の始まりにしようというもの。
ユグドレアが存在する第16世界超越線にとっての異世界である第17世界超越線、その宇宙に存在する銀河の1つ――ユグドラシル星樹海。
その極めて特殊な構造――星の枝と呼ばれる星間互助エネルギー帯――によって連なった星々は、星樹という名の星系となり、それらが集まり束ねられた結果、ユグドラシル星樹海という唯一無二の銀河が生まれた。
ユグドラシル星樹海内に存在する、ある星樹内の恒星の1つである太陽、その周囲を公転している惑星の1つ――地球。
地球の紀年法を起源とする、後に翠風暦とも呼ばれる――ティアナ紀元がユグドレアで始まりを迎えたその日、ユグドレアは真にひとつとなった。
さて、魔道王が伝えたという偉業とは、どういった出来事だったか。
それは、ユグドレアの歴史において3大偉業の1つに数えられることになる、奇跡に等しい功績。
――奪われし八天の奪還。
それを成した真なる聖女と12使徒の幾名かが初めてその名を世に知らしめる、後世にて偉業の始まりとも謳われる戦があった。
それは、後世にて語られ謳われる英雄達が、その名を歴史へと刻んだ大戦、最初の戦い。
その戦いの名は――ナヴァル国境戦役。
紀元前146年の出来事である。
其れは、突如として届けられた。
「いやはや、マジっすか……」
「おい、しっかりしろ!」
この時代のユグドレアにおいて意思伝達の連絡手段は少なく、それはナヴァル王国などの人族領域でも同様である。
まず挙げられるのは魔道――特に魔術や魔導による連絡法が一般的である。
魔術の場合、魔物や動物などと契約を交わして召喚獣とし、それらを使役する召喚魔術が代表的な連絡手段。
魔導の場合、魔導粉体による加工を施すことで紙や石などの無機物を姿形を整え、魔導獣と呼ばれる魔導器を造り、それらを意のままに操ることで伝令役を務めさせることが可能である。
「はぁはぁ、すまん助かる……どうにもマズイことになっちまったみたいだ……」
「だろうな……白黒白とか、俺も久々だ……」
「隊長、準備できたっす!」
「よし、着火しろ!」
ただし、ガルディアナ大陸は当然ながら広大であり、大陸全土のおよそ3割を占める人族領域もまた、疑いようもなく広大である。
そのため、長距離の空間転移陣を設置することの難易度が高いことと同じように、魔道を用いた長距離の意思伝達もまた難しく、技術水準の高さを要求されてしまう。
結果、能力の高い魔道職の者が個人的な連絡手段として扱うに留まるというのが、ガルディアナ大陸内での魔道による連絡法の現状である。
「此れってどう見ても――」
「ああ、間違いない……全軍で来やがった」
「あの噂、ホントだったんすかね?」
「この状況を考えれば、そうかもしれねえな」
「噂?」
「あれ、聞いてないっすか? なんでも、あちらさんの大将の……そうっす、あのヴァルフリード辺境伯が乱心して強制的に徴税したらしいっすよ?」
ガルディアナ大陸に存在する国の軍部、ほぼ全てが、伝令士と呼ばれる斥候職と狼煙による2つの連絡法を採用していた。
例えば、ドグル大平原におけるナヴァル王国の連絡法を解説しよう。
まず初めに、ランベルジュ皇国との国境地帯であるドグル大平原西域に、前線基地としての役割を持つ砦を――黄と緑の複合魔法である地動魔法や地動魔法を模した土木魔術や建築魔術を用いて――強固に築く。
その後、砦を基点として幾つもの物見小屋を設置することで情報収集の拠点とし、物見小屋で収集した情報を砦へと伝達する役割を担うのが、狼煙であり伝令士である。
前線基地として建造された砦から、ほぼ等間隔――距離にして約1里ごとに物見小屋は建てられる。
そうすることで、方位を問わない情報収集を可能とし、有事の際にはそれぞれの物見小屋が連鎖的に狼煙を上げることで、前線基地である砦に確度が高い危機的情報を僅かばかりの時間差で届けられる。
優れた情報伝達を比較的容易に可能とするのが、狼煙による連絡法の利点である。
ちなみにナヴァル王国軍の場合、2色3本の煙を組み合わせることで伝えるべき情報を示す。
左から順に、どの勢力が、どのくらいの規模で、何処にいるか、を示している。
ドグル大平原中央部の西端に位置する王国側の最前線、そこに建てられた物見小屋から上がった今回の狼煙は――白、黒、白。
これを言語化すると――敵対する国が、軍団規模以上で、2日以内に王国軍が想定している戦地へと到達しうる――となる。
断片的であり若干の曖昧さはあるものの、王国にとって有益な情報であることに変わりないが、やはり狼煙という連絡法の構造上、届けられる情報はどうしても限定されてしまうため、詳細な情報とは言い難い。だからこそ、伝令士が――その中でも国に有能であると認められている上等級以上の伝令士が重要となる。
「しかし、どうにも信じられんな……あの義剣のルストが、領民の生死を問わない税の取り立てを強行するとは――」
「ホントっすよねー……人格者って言われてても所詮はお偉い貴族様、イライラして思わず殺っちまったんすかねー?」
「無駄口を叩くな、廃棄の準備を急げ」
「りょーかいっす!」
「よし、俺も次に向かうとするよ」
「ああ、気をつけてな」
「お互いにな」
「いってらっしゃいっす!」
斥候職――端的に言えば、情報収集のエキスパートであり、その中でも情報伝達遂行力に特化している者、それが伝令士である。
斥候職にとって必須である隠密系スキルや『撮影』に加えて、魔道職のノーマルスキルである『高速思考』や『並列思考』、『縮地』や『豪脚』などの汎用性の高い移動補助系のレアスキルのいずれかを有していることが伝令士には必要不可欠である。
レアスキルの有無が関わってくることも影響し、伝令士は、斥候職において上位に位置付けされている職業である。その多くが軍属であり、情報を扱うということからもわかるように高給取りであり、機密に触れるが故のさまざまな制約はあるものの、世間的には人気の高い職業である。
戦前、戦中、戦後と、活躍する場面の多い伝令士だが、その役割は、軍を率いる者からすれば良くも悪くも重要である。
――情報を制する者は戦いを制する。
この考えは、異世界である地球の人々だけが思い至るわけではない。
むしろ、ユグドレアのように魔道技術が当たり前に存在する世界で戦に明け暮れる者の方が、そのことを身を以て実感していることだろう。
情報の有用性が故の――危険性を。
トントントトトンと、規則的に扉が鳴らされる。
「……入れ」
鉄の擦れる音とともに扉が開かれ、それと同時に転がり込むように室内へと倒れこんだ男――伝令士は全身を赤黒く染めていた。
「……何があった?」
「襲撃だ……あれはおそらく――」
狼煙による事前情報があったからか、あらかじめ待機していた治癒術師が、負傷している伝令士に治療を施す。そうしている間にも、伝令士である彼から、さまざまな情報がもたらされていた。
「なるほど……了解した、おい、これを――」
伝令士が命を賭して撮影し、ウィロウ公爵領都であるキュアノエイデスへと届けられた情報。
その内容は、ウィロウ公爵領南東に点在する集落が襲撃されたということと、襲撃してきた集団が掲げていた旗に剣と杖が描かれていたという、2つの情報。
それは、アードニード公国所属と思しき集団が、ナヴァル王国に攻め入ってきたことを示していた。
「……これはまた随分と気が早いことで」
陽光が差し込むことで透明感を増す白亜色の髪をたなびかせる少年は、黄金の瞳を鋭くしては其れを眺め、誰かに語りかけるように呟く。
「ふむ……こちらを誘っているのか、それとも余裕がないのか……論ずるまでも無いことではあるのだが、どう受け取るべきかは悩んでしまうな……」
言うまでも考慮するまでも無いと、彼が結論付けてしまうのも無理はない。
今、彼が目にしている醜態としか呼ぶことができない状況を鑑みれば、それは当然の帰結であると断言できるからだ。
女性と見紛うほどに線の細い彼は、机に肘を置き、頬杖を突きながら思索にふける。
傍目にはまったく予測し得ないことだが、彼は軽く動揺していた。戸惑ってもいた。
いくつか想定していた展望の中でも、彼にとって安易極まる現状を視せられてしまったからだ。
「それにしても、アレが例の出来損ないか……ただの能無しか、それとも裏があるのか……」
広大なメルベス魔沼を挟んだ向こう側で待機しているのは、賊と相違ない風体の者達を周囲に従えるように佇む、彼が出来損ないと呼んでいる白甲冑の集団。
黄金の瞳に魔術陣を浮かべる彼は、その全容を眼下に収めていた。
それは、ナヴァル王国の諜報を司る知り合いからの要望があったので、一昼夜で彼が創った偵察魔術の1つ――望遠眼を発動した結果。
古代語の1つ、英傑語で名付けられたそれは、覗き見を意味する。
「さてさて、翁自慢の憤怒殿はどこまで観えているのやら……いるかい?」
「――此処に」
気怠げに座り込んでいる彼の唐突な呼びかけに応えるように、彼の斜め後ろにいつのまにか現れたのは、侍女姿の女性。
肩まで切り揃えられた淡い水色の髪、それを掻き分けるように伸びる細長い耳を上下に軽く動かしながら、薄緑の瞳をまぶたの裏へと隠している彼女は静かに佇んでいた。
「紙を――ありがとう、『自動書記』」
彼が望むものをわかっていたかのように、3枚の羊皮紙を机に並べる彼女は、再度、彼の斜め後ろに控える。無駄を一切感じないその動きは、彼女自身の凄み以上に、2人の付き合いの長さと深さを証明しているような、そんな信頼関係の強さを感じさせるものだった。
「ま、こんなところかな……ドグル大平原、ナヴァリルシア――」
「――キュアノエイデス」
「ご名答、上級以上の人選でよろしくね」
「かしこまりました、私はどうしますか?」
「予想は?」
「……公国首都マージアルトにて――確証を」
「正解、さすがはボクのリザリー痛っ!?」
「軽率な発言はお控えください、若様」
微かな音を立て、机に転がる物体。
それは、羊皮紙の端切れを丸めて飛礫に見立てただけの、殺傷能力皆無のただのゴミ。リザリーと呼ばれた彼女が、目にも留まらぬ動作で以ってそれを指で弾いた結果、彼の額にほんのり赤みが生まれたということだ。
「むぅぅ、こんなにもボクはリザリーを愛し――」
「……先日もネルダン侯爵家とアーデル侯爵家から縁談話が――」
「ごめんなさいすみませんやめてくださいお願いします、リザリーの意地悪!!」
「……警護はどのように?」
「えぇ、切り替え早すぎないかなぁ……んー、3人もいればいいよ」
「……よろしいので?」
「平気平気、あんなの単なる虚仮威しだから」
「では、やはり?」
「うん、予想通り、主戦場はあっちだね」
印璽を捺印した封蝋が施されている書簡――ドグル大平原宛てのそれを手に取り、リザリーへと手渡した彼の表情は、世の女性の多くが思わず頬を染めてしまうほどに美しく、尚且つ、天真爛漫な笑顔。
美丈夫とも評せる彼の笑顔を見たリザリーの表情には一切の変化が見られない。見慣れているというのも理由ではあるが、彼女の胸中を占めているのは呆れにも等しい諦念。
「……いささか不謹慎かと」
「ん? ああ、笑っちゃってたか」
戦が起きるということは、民に被害が及ぶ可能性が生まれるということ。人の上に立つ者が取る反応という点において、戦火を想定して笑顔を浮かべるというのは決して褒められたことではないと、彼の表情を見たリザリーはひとつ息を吐き、暗に窘めた。
それは、彼女が彼の教育係であるが故に。
「正直、小競り合いばっかりで飽きてたからねー、ようやく面白くなってきたよ。そうは思わない?」
「……黙秘させていただきます」
「動いてるよ、耳」
「…………黙秘で」
リザリーという女性が生粋の武人であるということを骨の髄にまで叩き込まれている彼は、そのことをよく知っている。
感情を表に出すことなどほぼ有り得ないのがリザリーという女性なのだが、嬉しい時だけは種族特有の長耳が無意識に動いてしまうことを、彼はよく知っている。
それは、彼がこの世に産まれた時から彼女がそばに居たが故に。
――ナヴァルに3つの要あり。
それは、ガルディアナ大陸の人々が口にする、ナヴァル王国が人族領域内の国家で最強と云われているかを論ずる際に挙がる、事実という名の理由。
政のナヴァル家。
武のウィロウ家。
知のオーバージーン家。
ナヴァル三公と呼ばれし名家中の名家の存在こそが、ランベルジュ皇国とアードニード公国が盟を同じくする理由であることに疑いは無いが、それが全ての理由ではない。
今から150年以上前に存在していた、人族領域統一国家――リルシア帝国。
ナヴァルの三大公たる3つの家、その歴史は、リルシア帝国時代から続いている。
その歴史は長く、人族領域に多くの国が割拠していた頃の、リルシア帝国が小国であった時代、今から数えること――247年前から支えてきた。
247年という時間は長いと間違いなく断言できる――人族であれば。
ユグドレアは、人族だけが暮らしているような世界ではない。
事実、かつてのリルシア帝国は多種族が暮らす国だった。晩年、突如として人族以外の種族の排斥を始めたことで滅んだ経緯があるものの、多種族が平和に暮らしていた国家だったことに間違いはない。
そうであるのならば、そういった存在がいたのは必然といえる。
ところで、247年という歳月は本当に長い年月といえるのだろうか。
――否。
ユグドレアには、百年以上の寿命を持つ生物は殊の外多い。
魔物然り、ドワーフ然り、エルフ然り。
さて、リルシア帝国崩壊後、ナヴァル三大公を中心に建国したナヴァル王国だが、政治の中枢に有った者達は、その全てが人族だったのだろうか。
――否。
リルシア帝国皇帝の乱心とも呼べる人族至上主義への政治方針の変更に反発したのが、現在の人族領域にある三ヶ国。つまり、当時の三ヶ国全てが、かつてのリルシア帝国同様、多種族が差別なく穏当に暮らす国であるということ。
ならば当然、国の中枢も多種族で構成されて然るべきである。
ナヴァル王国には、今現在、ナヴァル六傑と呼ばれる者達がいる。その意は、ナヴァル王国の6人の英傑、となる。
約30年前までは、ナヴァル三傑だった。来年にはきっと、ナヴァル十傑となっていることだろう。
――ナヴァルに3つの要あり。
勘違いすることなかれ。
この言葉は、ナヴァル王国建国以前から存在し、怖れられていた者達を指す言葉でもあることを。
政のナヴァル家――太極を引き継ぎし魔女。
武のウィロウ家――紅蓮を担う赤の後嗣。
そして――
「……リザリー、わかってるよね?」
「はい……残しても?」
「うん……愚かな彼らに、君のことを思い出させてあげよう」
「かしこまりました」
知のオーバージーン家――死の光纏いし狩猟者。
特等級諜報士にして、執行官と呼ばれる王国公認の暗殺者。
それが彼女――閃光のリザリーと呼ばれる、ナヴァル王国最古の英傑、その1人の王国内での肩書きである。
では、そんな彼女に令を下せる彼は何者か。
「そうだ、なんだったら大公の首、獲ってきてもいいよ?」
「……下策ですよ、若様」
「ふふっ、わかってるさ、冗談だよ冗談、でも……虫を見かけたら潰せ」
「……かしこまりました、アルヴィス様」
彼の名はアルヴィス、齢は16。
ナヴァル王国オーバージーン公爵家現当主。
ナヴァル王国内外の知――情報が集う場所であるオーバージーン公爵領に引き篭もる、王国きっての変人と揶揄させている、有名な少年。同時に、男離れした美貌の持ち主としても有名であり、政治的ではない縁談の申し込みが異常なまでに多いことと、その全てを断り続けていることも彼の評判を歪める要因である。
だが、それらは全て、瑣末なことでしかない。
常人離れした美貌備える生粋の変人とみなされているアルヴィスが若くして公爵となったのは、彼の父母や祖父母が既にこの世にいない――といった悲劇に類する出来事があったからではない。
彼の父母も祖父母も、まだ生きているし、死の予兆など一切感じられないほどに元気である。
彼が当主になったのは証明したからだ。
アルヴィスという少年の才覚、その深さを。
「さて、ボクも戦争を始めようか」
彼の名は、アルヴィス=C=オーバージーン。
ガルディアナ大陸では稀有な存在となった魔道士であり、唯一無二の最上級職――魔眼士に就く者。
千眼と称されし少年は、オーバージーン公爵邸執務室にて、戦争を――世界の暗がりで執り行われる、情報戦という名の殺し合いを再開した。




