蒼穹都市 ファナシエル
デラルス大森林。それは、濃密な魔素を内包する巨大な木々が生い茂る魔物領域であり、天然の要害である――半年前までは。
――デラルス大森林西域が切り拓かれている。
まことしやかな囁きを肯定するか否定するか。その真偽の判断をしようにも、正確な情報がなければどうしようもない。その噂が王国内へと流れ、表も裏も関係なく、すぐさま多くの斥候職の者達が、デラルス大森林へ向けて出立。その後、多くの情報が持ち帰られることになる。
帰還した者が初めに語ることは、ほぼ全てが同じ事柄――町が出来ていたということであった。
中央を流れる大きな川と広大な農地、長閑に働いている多くの種族。
木々を活かした家屋と、周囲の家屋とは趣が異なる箱形の建物。
そして最奥、つまり蒼竜のねぐらがあったとされる場所には、2つの建物が存在していた。
1つは、木材のスペシャリストである黒エルフがこさえたかのような、風光明媚と称せるほどに、自然と融和している木造屋敷。
もう1つは、隣接する屋敷に比べてあまりに小さい丸太製の小屋で、麺、と書かれた看板が掲げられていた。
それらの情報が示唆するものは、決して看過してはならない類のものであった。
まず考えるべきは、川の存在。
本来、その場所に河川の類は無かった、つまり、ベルナス神山に存在する水源から水を引き入れたということ――治水工事を短期間で成功させたことに他ならない。
最大の問題は、短期間であるということ。
時間のことを気にしないのであれば、工事というものはいつかは終わる。諦めなさえしなければ、必ず終わらせることはできる。
だが、短期間で終わらせるというのは、並大抵のことではない。1万人単位の工員と掘削用の魔導器などを大量に費やして成し遂げることが可能となる、それほどの大事なのである。
だからこそ、それを成せるだけの総合的な経済力が、其の地に存在する可能性に、ナヴァル王国政務局の幹部達は慄くしかなかった。
とはいえ、それだけで議論は終われない。
デラルス大森林は、ナヴァル王国全土の3割を占める巨大な魔物領域。大陸有数の魔境を開拓するメリットは計り知れないが、窺い知れることもある。
あまりにも高すぎる脅威度を備える勢力が、デラルス大森林西域に存在しているという、厄介かつ危険な現実。そのことだけは、嫌が応にも理解させられているのである。
広大な農地は、豊富な糧食が、其の地に存在しうることを意味する。
長閑に働く多種族は、種族を問わない徴兵を可能としていることを意味する。
そして、蒼竜のねぐらと呼ばれている場所に建てられている、屋敷と小屋の存在。
この2つの建物こそが、王国貴族の面々が、揃いも揃って其の地の脅威度を異常なまでに高めざるを得ない、最大の要因である。
かの竜が、どれだけ寛容であっても、自らの寝床に巨大な屋敷を建てさせるわけがない。また、世界最強の一角である蒼穹竜が、やすやすと討ち滅ぼされるわけもなく、その痕跡も見当たらない。
ならば、その結論にしか至らない。
其の地の長は、蒼穹竜ファクシナータである。
さらに、麺の字が示している協力者の正体が、あの者達で間違いないと、貴族達は確信していた。その字は、王都内で最近よく見られるようになった、とある食事処の看板に必ず添えられているもの。
――ラーメンハウス ダグラダ。
つまり、あの伝説の大商人レミントンの相棒として名を馳せ、今や王国商人達を裏から牛耳っている黒幕であると目されている商人ダグラダ。
ダグラダの右腕であり、レミントンの遺児とも称される商いの天才、その片割れであるドルトル。
そして、もう1人のレミントンの遺児。
かつてのレミントンやダグラダ以上の恐ろしさをも感じさせるその才覚で、一部の王国貴族にとって言葉通りの死をもたらす存在へと成った男。
名実共に貧民窟の王となったダグラダと競い、結果、貧民窟の半分以上を平らげてみせたナヴァルの悪童ドルズ。
ガルディアナ大陸有数の商いの化け物――場合によっては、皇国や公国と対峙する以上の脅威となりうる3人が、其の地に関わっている可能性が高いという事実に、平静さを保てる貴族は少なかった。
その後、追い討ちをかけるように、王国内の貴族達のもとに送られてきた新たな報告は、更なる心労を等しく与えた。
――黒色と金色が混じる大壁が築かれている。
それはもはや、建国宣言の書状となんら変わりがないような報告書だった。
当然、其の地がそんなことを宣言した事実はどこにも無く、王国貴族達が勝手にそのような感覚に囚われているだけではあるのだが、それほどまでに心を乱される一報だったのである。
ナヴァル王国の王侯貴族が手紙などに用いる符丁において、黒は純隕鉄、金は神魔金を意味する。
新たな報告、その驚きに満ちた内容。それは、王都ナヴァリルシアが誇る城塞と同等、もしくはそれ以上の壁で、其の地が覆われているということを示している。
それは、ナヴァル王国にとって非常に都合が悪く、緊急性も高い、頭を悩ませる事態である。
ナヴァル王国の名産の1つ――純隕鉄。
出土されるのは、ベルナス神山、その麓。
採取する者たちは皆、デラルス大森林西域を通って麓へと向かう。何故か?
東域は、あのデラルスカイゼルオークが支配する、死地同然の危険地帯だからだ。
つまり、ナヴァル王国内における純隕鉄の供給源であるベルナス神山麓への安全なルートが、完全に潰されているということ。
政務局からの緊急性の高いその情報に、王国首脳陣は未だかつて無かったほどに慌てることとなる。
なにせ、よりにもよって国王不在という緊急時に起こった、更なる非常事態だからだ。
ならばと、宰相であるダグラス=ランフィスタ侯爵は第2王子を国王の代理にすることを首脳陣へと半ば強引に認めさせ、政策を独断で決定していく。
当然のように反発したのは、カーヴィス公爵とボルケティノ公爵。ナヴァル五公に数えられている、第1王子を支持する大貴族だ。
第1王子と第2王子の王宮内での勢力争いが苛烈なものになっていく中、王都に尋常ならざる報が届くことになる。
ナヴァル三大公の一、ウィロウ公爵家のレイヴン=B=ウィロウが王位継承権の主張、つまり、参戦の意を伝えてきたのだ。それも新たな当主を旗頭として。
伝えてきたのは、それだけではない。
ネフル天聖教大陸総本部に正式に認定された新たな聖女――翠風の聖女ティアナが、ウィロウ公爵家と養子縁組をしたこと。
翠風の聖女と蒼穹竜の協力のもと、デラルス大森林が開拓されていること。
そして、青き者の庇護下にある翠風の聖女と、三大公の一であるオーバージーン公爵の連名で告げられたのは、新たなるウィロウ公爵を支持する旨の表明。
突如として生まれた強大な勢力の台頭に、第1王子勢力も第2王子勢力も対処を余儀なくされる。
そんな混乱の最中、ほぼ同じタイミングで同じ文言を異なる場所で――笑顔で呟いた者達がいた。
――やってくれたな、と。
王国内に、ごく一部だけ存在する、真の智を有する者だけが、そのことに――ここ半年間に起きた一連の策略を仕掛けたと思われる者である、新たなウィロウ公爵の正体に、この時点で気付いた。
気付いた者は、2人。
1人は、第1王女を支持し、参謀としてその辣腕を惜しみなく振るう、禿頭の老人。勢力の規模は小さいものも、老獪と評すべき手練手管を以って、他の勢力が無視できないほどの政治力を第1王女にもたらした、ガルディアナ大陸屈指の黒魔法師。
そして、もう1人。
ナヴァル王城地下深くに幽閉されている、かつてナヴァル6傑に数えられていた女傑もまた、その言葉を口にしていた。何故か地下にまで届く資料を精査する彼女は、不敵に笑う。
「いやはや、中々に面白そうな奴が来たみたいだねぇ……」
腰まで伸びる艶やかな銀髪を無造作にひと纏めにする彼女は、胡座をかき、興味深そうにその資料を眺めていた。
それは、新たなウィロウ公爵を名乗る男の、どうにか引っ張ってこれた僅かな情報。
ひどく断片的なそれが示すのは、この男が、あるスキルを持つことの証明。
「まさか『鑑定 極』持ちとはねぇ……なるほどなるほど、レイヴン坊やがエリザ嬢ちゃんの婿に据えるだけはある、となると――【チート】持ちではないね」
それはつまり、何処ぞの誰かから一切惑わされずに、ユグドレアに骨を埋めることを、この男が宣誓したことに他ならない。
推測したことで確信に至った彼女は、資料から感じられる潔い男気に興奮してしまい、人族よりも長いその両耳を無意識に動かしながら、その妖艶な笑みを一層深めていた。
「ふふっ……ここに閉じこもって幾百年、これほどまでに私の心を動かす男の子も久しくいなかったねぇ……ということはつまりつまり、そういうことになるよねぇ、ふふっ……」
白い瞳の右眼、黒い瞳の左眼を爛々と魔道的に輝かせ始めた彼女は、おもむろに立ち上がる。
それはつまり、自身の血が備え持つ特異性と、高すぎる能力がゆえに、自らの意思で地下深くに引き篭もっていた彼女が、本当の意味で動き始めることを決めたということ。
彼女は、ランベルジュ皇国とアードニード公国という強国が、同盟を結ばざるを得ないほどの理由、そのひとつ。
彼女は、ガルディアナ大陸最高の赤魔法師である紅蓮と呼ばれる女性の妹であり、現代にて太極を継ぐ唯一の魔法師。
彼女は、ガルディアナ大陸における白エルフ、黒エルフ達の祖である天族、その血脈に連なる唯一の大眷属である――古代エルフの数少ない生き残り。
彼女を含めるからこそ、ナヴァル王国が人族最強国家と呼ばれていることを、一部の貴族は愚かにも伝え忘れてしまっていた。
彼女こそが、幻想に限りなく近しい――太極を継ぐ魔法師であることを、現代に産まれた魔法師のほとんどに伝えられていない。
だからこそ彼女が動いたことは、ユグドレアという異世界にとって異端であり、異常であると言えた。
「さてと、嫁入りに向かうかねぇ」
極めて英雄に近い英傑――準英雄とでも呼ばれる者の1人である彼女の姿が、地下深くに設けられた別邸から消えた。そのことを、王国首脳陣が知るのは、まもなく開かれる戦端、その苛烈な戦の終わりから数えて、4日後。
戦場にて、太極が開かれたという報が王都に届いたその日に、人の形をした災厄である彼女が動いたことを王国首脳陣が知ったということだ。
此れは、彼が異世界の事情を知り、汲み取り、同胞となることを決めたことで辿り着いた、あまりに稀有な結果。
此れは、いくつも存在する可能性の中で、最も有り得ない、ゼロにも等しいがゆえに、零には成り得ない、最小の一粒。
此れは、屈辱的ともいえる傍観の立ち位置にて見守る少女、その想像の埒外から姿を見せた、儚すぎる因果の種子にして、絶望的な因果の螺旋から唐突に現れた希望。
青の子が認める強き者から贈られた名と、異世界にて空を意味する言葉から生まれた、いずれ武と食の聖地と呼ばれる、此の場所。
――蒼穹都市 ファナシエル。
此の地こそが、奇跡の始まり。
此の名こそが、反撃を告げる狼煙。
此の場こそが、特異なる分岐を齎す猫の箱庭。
少女だけが、今は、其のことを識っている。




