リア=ウィンディル ①
忘れもしない。
忘れられるわけもない。
4年前のあの日。
私の現実が、狂い始めたのだ。
あの時、咄嗟に動けたのは、偶然に近かった。もし、周りの同僚達の動きに合わせていなかったら、きっと私は、無事じゃ済まなかった。
「中々いい眺めだね!」
「いい趣味してんな、おい」
けれど、無事じゃない方が良かったのかもしれない――現状を鑑み、私は、そんな弱気なことを考えてしまう。
けれど、それも仕方がないと思うことでしか、私は、自分を慰めることができないでいた。
「美玖も仁も待ってんだ、早く終わらせろって」
「あー、もう! 龍は口うるさいなー!」
私にとって悪夢のような日々が、この日から始まることを、嫌という程に知っているから。
「えーと……」
「まだかよ、雛」
「ちょっと待ってよ、これいちいち設定が細かいんだもん……えーと、こうかな?」
あの時、私は同僚を遮蔽物にして、密かに観察していたことで、この後に起こる全てを見ていた、見てしまった。
この場に現れたのは、男女2人。
年若く出で立ちが奇妙な2人の片割れ――ヒナと呼ばれた少女が、突如その文言を口にしたことで、私を除く、その場にいた者全てが、一斉に跪いてしまったのだ。
4年経った今思い出しても、勝手に身震いしてしまうほどに、恐ろしいことをやってのけたヒナは、再び、その恐ろしい文言を口にした。
「よし――【魅了】!」
「どうだ?」
「んー、効いたと思うけど……さて――みんな立ち上がって!」
先程と同じように、周囲の同僚が立ち上がり始めたので、私も慌てて立ち上がった。
それは、ヒナが言い放った言葉から漂う、あまりの不穏さからだ。
「よし、さっきよりも反応がいいね」
「効果はすげえが、なかなかメンドくさそうな【チート】だな」
「ホントそれなんだよねー。目隠ししながら、絵を描くような感じなんだからね?」
「うわぁ……俺のは簡単でよかったわ」
魅了……ヒナが口にした文言と、その効果を、私のペンダントが弾いた意味を合わせて考えると、今でも、背筋がゾワッとしてしまうほどに恐ろしい。
「えーと、大公さんって、多分あの人だよね」
「お誕生日席に座ってるし、多分そうだろ」
「そうなの?」
「入り口から1番遠いところに、1番偉い人が座るのは理に適ってるだろ?」
「……そうなの?」
「異世界は、地球よりも危ないだろうしな。賊とか敵国の襲撃とか、そういう危険から遠ざけるために、あの席にいるってことだ」
「そうなんだー……え、あそこからじゃ、すぐに逃げらんなくない?」
「いや、なんのために、兵士っぽい人らがこんなに居るか、わかるか?」
「……あ、なるほど!」
「それにしても、公国なのに、ちゃんと議会制にしてるあたり、思ってたよりも良い国っぽいな」
「そうなの?」
「公国ってんなら立憲君主制だろうし――」
母の形見であるペンダント型の魔導器、それが反応したということは、あのヒナとかいう少女が、魔法による呪い、もしくは呪いの魔術――呪術を使ったということになる。
だが、魔素が揺らいだ気配はなかった。
あの時、私がいた議政の間は、他の広間に比べればそれほど広いわけではないのだが、護衛の騎士と高位貴族の方々を含めて、100名近くの者が入れる程度の広さはある。それだけの人数と範囲に向けて、魔法なり呪術を放てば、相応の魔素が必要になるはず。だが、あのヒナという少女は、一切の魔素のゆらぎを感じさせずに、魅了という文言にふさわしい、あまりにおぞましい結果を示した。
そして、【チート】と異世界という言葉の組み合わせが想起させる、おぞましい事実。
間違いない、奴らは、勇者だ――この時の私はそのように結論づけており、その推論が正しかったことを後に知ることになった。
4年前のこの日、私の母国であるアードニード公国は、忌まわしき侵略者――外天の勇者たちの遊び場に変わってしまった。
私の――リア=ウィンディルの悪夢は、4年経った今もなお、覚める気配はない。
人族領域、それは、ガルディアナ大陸の西部から南部、そして中央部の南域に広がる居住可能地域。人族が国の代表として統治していること、人口の比率が人族に偏っていることが、呼称の所以である。
ちなみに、ランベルジュ皇国の国主が竜族であることは、他国も周知している事実である。
地上に住まう2人の竜族と交わされた有名な契約により、ランベルジュ皇国の大皇である彼は、人族と見なされている。
そのため、他の種族領域内の各国は、竜族が国主である多種族国家であっても、ランベルジュ皇国を、人族領域の国という認識で見ている。
現在の人族領域内の国家は3つ。
人族領域の北西部から南部を治める、騎士国家であるナヴァル王国。
人族領域の北西部から東部を治める、魔導国家であるランベルジュ皇国。
そして、東部から南部の人族領域を治め、長年続けてきた魔術研究の成果によって大陸屈指の魔術大国となった我が母国――アードニード公国である。
いつまで私はこんなことを――
「――ヒナ様、準備が整いました」
「あ、ホント? よーし、みんな、出発!」
星銀粉でコーティングされた、銀色の騎士甲冑を着込む者たちが披露する、周りと完全に一致した、奇怪すぎる動き。直視したくない現実を目の前にした私は、軽い吐き気をもよおしながらも、この女に追随する。
ヒナ=タケナカ。
私の母国であるアードニード公国を、裏から支配する、勇者たちの1人。古より伝わりし忌まわしき力である【チート】、その1つである【魅了】の使い手。
通称、黒白の聖女。
勇者たち全員に共通する黒髪と、いつも着ているドレス風の白い修道服が、その名の由来だ。
アードニード公国でも、ナヴァル王国の影響を受けてか、黒の根源を連想させる黒髪は嫌悪の対象になりがちだ。そのため、初めてヒナを見た民衆は、そろって訝しんだ表情だった。
だが、いや、やはりというべきか。
ヒナは【魅了】を使い、全ての民衆の頭を自発的に地へと伏せさせた。
このことに機嫌を良くしたのか、公国各地でネフル天聖教の名を使っての聖礼祭、勇者たちのいうところのミサを開き、信者を集めた。
連日のミサの結果、公国に暮らすネフル天聖教の敬虔な信者のほぼ全てが、勇者たちを崇拝するようになってしまった。
特にヒナは、【魅了】を使うことで信仰の対象になり、半ば強制的に聖女認定を出させ、公国内での、自身と他の勇者たちの立場を確立。
本来、政治不干渉であるネフル天聖教が、間接的に執政する事態に陥り、悪名高い霊長派の台頭を許すことになった。
そう、今や、あのネフル天聖教までもが勇者たちに与し、私たちの敵となってしまったのだ。
アードニード公国は、国の代表である大公を4つの公爵家から選定し、伯爵位以上の高位貴族達の合議による議政によって統治されている国だ。
現大公であるゼクト公爵家。
アルテリス公爵家。
ヴァルン公爵家。
レディクト公爵家。
この4つの公爵家に、6侯爵家、8伯爵家を加えた18の高位貴族と、とある事情から下位貴族で唯一参加する子爵家。
19の貴族達による合議によって、アードニード公国の政治方針が決まるというわけだ。
単純な国力では、ナヴァル王国やランベルジュ皇国に劣るはずのアードニード公国が、この2国と長年、対等に渡り合ってきた理由。
それは、多角的な政治的献策を貴族達が日々挙げ続けることで、停滞することなく流動的に、効率的な政治をしてきたからである。
富国強兵こそが、公国の方針であり、強みであるということだ。
けれど、今はもう違う。
対外的な外交のみが、正常に見えているだけの、合議とは到底呼べやしない、あまりにも無様で傲慢な、ただ民から搾取するだけの、政治もどきに成り下がってしまったのだ。
その結果、アードニード公国の経済が、崩壊寸前にまで追い込まれてしまった。原因は、わかりきっている。
4年前、勇者たちが行動を始め、革新派と呼ばれる魔術師たちを台頭させたことだ。
きっと他の国からは4年前と比べて、さしたる変化がないように見えているだろう。間諜の類いが来ようとも、やつらのチートの前では無意味になる可能性が高い。
だから、だれも気付かない。
私達の世界に、害虫が既に侵入していることに。




