王国騎士デイビッドは家に帰りたい 08
――平民街、商人街、貴族街。
この3つに加え、王族として認定されている公爵家が過ごす王圏を併せた4区画で構成されるのが、人族領域屈指の巨大都市、ナヴァル王国王都ナヴァリルシア。
王城が聳える王圏を中心に、全方位に敷地を広げては菱形の城壁が築かれる――そういった手法で築かれてるが故の、ある種の弊害として、拡張性が乏しく、居住可能な数には限りがあるという一面が存在する。
だが、それはあくまでも、商人街や平民街の話。
人口の総数も変動も少ない貴族街や、それ以上に暮らす人数が少ない王圏には、全く関係のない事柄と言える。
さて、そんな貴族街に暮らす者というのは、その種類がかなり限定されている。
まず、当然ながら、貴族本人とその家族。
次に、貴族御用達の商人やその家族、または、代理の者とその家族、及び、経営維持に要する人員とその家族。
最後に、貴族街に拠を置く第1騎士団本部に勤務する、貴族出身の騎士達。
これが、貴族街に暮らす人々の内訳である。
王都ナヴァリルシアの総人口の1割も満たさないほどの、僅かな人々しか暮らしていないことから、喧騒からは程遠いことが理解できる筈だ。
その様子をあえて言葉にするなら、閑静な住宅街、といったところか。
それはつまり、人々の往来がそれほど多くないことを意味し、更に付け加えると、隣り合う家同士の距離が離れていることから、そこで起きた異変に気付きにくい。
例えば、他国の諜報員が潜伏していたとしても、気付かれることが少ない――地下などの目に付きにくい暗所と同列に語れる程に、隠れ潜もうとする者にとっての選択肢の1つであり、適した場所。
それが、貴族街の特徴となってしまっている――その事実が黙認されていることこそが、ナヴァル王国に於ける権力争いの業の深さを示している。
「――とはいえ、ここまで簡単なことではないんですよ、本来なら。第2王子殿下に感謝ですね」
「…………」
「…………」
妙齢の夫人と年若き令嬢、そこに控える従者。三者三様の見目麗しさを、側から見たとなれば称賛が送られるかもしれない。だが、その実情を知れば、その評価が瞬く間に、憐憫を伴う非難へと逆転する、そんな関係性がそこにある。
――軟禁された人質と、その下手人。
尤も、それを成した者は、人ではなく。
更に付け加えるならば、今、その屋敷の中に居る純粋な人族は、彼女ら2人だけ。
――ソニア=カーヴィス、38歳。
――ターニャ=カーヴィス、14歳。
カーヴィス公爵家当主であるケヴィンの妻であり、唯一の伴侶、ソニア=カーヴィス。
元々は、ナヴァル王国貴族の一にして名家、アルヴェイル侯爵家の出であり、ケヴィンの幼馴染。
そして、齢18となったその年、カーヴィス公爵家に嫁ぐ――幼い頃、当人達の間で交わされた婚姻の約束が、その日、果たされた。
つまり、至極真っ当な恋愛結婚である。
ナヴァル王国に限らず、貴族同士の婚姻となると、見知らぬ誰かとの、半ば強制的な――大いに打算的な縁談を組まれる場合がほとんどであり、いわゆる、政略結婚が果たされることが多い。
――御家の繁栄の為、より良い結びつきを。
家を担い、領を支え、民を守る。
それは、正常な感性を有する貴族に共通する認識であり、貴族そのものの存在意義や存在理由に通ずる、忘れてはならない考え方――為政に関わる者の根幹にも等しい、貴族を名乗る者にとって、基礎中の基礎である。
だからこそ、それが例え政略結婚だったとしても、本人が望まぬ婚姻だったとしても、貴族として生を受けたのならば、全てを受け入れるのもまた、青き血を継いだ者の責務である。
ともあれ、悲喜交々な混沌へと陥りやすい貴族の結婚問題なのだが、幸運なことに、ソニアの身にそれらの問題が襲いかかることはなかった。
公爵家と侯爵家、即ち、最高位貴族とそれに次ぐ高位貴族による婚姻であれば、両家共に不服とする者はおらず、多くの者に祝福される中、夫婦の契りを交わすこととなる。
その後、子宝にも恵まれ、4人の子供を授かる。
その内の1人が、ケヴィン、ソニア夫妻の第二子であり長姉、魔法学院中等部に所属する、アルヴェイルの黄金という名の魔に魅せられた若き黄魔法師、ターニャ=カーヴィスである。
(……いつまで、こんな――)
当たり前のことが、当たり前ではなかった。
2ヶ月前、そのことに気づかされてから、彼女の心は、身体の異常と足並みを合わせるように、押し潰されるように萎縮していく。
ターニャだけに限った話ではないが、ユグドレアの人々にとって、自分達の周囲に魔素が満ちている、その現実は、常識以外の何者でもなかった。
周囲の魔素が消失する――突如として訪れた非現実な状況は、彼女からステータスユニットとスキルボードという力を、そして、幼い頃から大好きな魔法をも奪い取る。
公爵家の令嬢として、過不足ない教育を受けてきたターニャであれば、人族が、世界で最も弱い人種族であることを、知識として理解していた。
しかし、今の彼女は、その知識の内実を、実際の感覚として既に識った後であり、それと同時に、カーヴィス公爵家のみならず、ナヴァル王国が一丸となり、速やかに対処しなければならない者達の存在――ランベルジュ皇国やアードニード公国という隣接国の脅威をも上回る、厄介極まりない敵の存在のことをも知る。
勿論ながらその敵というのは、白の救世主幹部、愛の使徒を名乗るフェネのことである、が、それだけではない。
ターニャと、ターニャの母であるソニア、そして、元凶である白の救世主幹部、愛の使徒のフェネの3名が居る応接室外の廊下には、まるで門番のように、2人の武人が佇む。
知っていただけの事実、無意識に忌避していた現実を、ターニャ達に突き付けた、明確なる敵。
あの日、最弱という言葉、その意味、その重み、その理不尽さを、ターニャは思い知らされることとなったのだ。
2ヶ月前、公爵邸が制圧された、あの日。
大勢が決した直後、ほんの些細ながらも生まれた隙を突き、ケヴィンがフェネへと襲いかかるという一幕があった、が、今現在の状況から理解できるように、それは失敗に終わった。
だが、ケヴィン達にとっての最悪は、どのような対処をされてケヴィンの反撃が失敗したのかにあり、それもまた問題点の1つである。
カーヴィス騎剣術という流派において、当代最強――師範の座に就くケヴィンは、ナヴァル王国屈指の実力者である。
彼の戦闘スタイルは、カーヴィス騎剣術の基本的な方針である護剣――敵の攻撃を受けては捌き遇らう守勢、そこからの果敢なる攻勢へと繋ぐ、その一連の流れの中に紛れ込む淀みを、限りなく無に近づけることを肝要とする戦闘法――を踏襲した上で、独自発展させたもの。
敵の攻撃を無力化する流れで、相手の守りを崩し、渾身の一撃を叩き込む――所謂、剛剣とも呼ばれる一撃必殺を信条とする武人が、ケヴィン=カーヴィスである。
隙があれば、そこに自身の渾身を叩き込むのは、彼にとって当然のことであり、その一撃は、神魔金等級の魔物であろうとも、致死の窮地に追い込めるだけのもの。
そんな一振りをケヴィンは、一切の躊躇もなく、フェネに向けて見舞った――筈だった。
そこには、朱い髪の男が立っていた。
直前、金属同士が激しく衝突したことがわかる轟音が鳴り、それはつまり、その男によって、ケヴィンの一撃が防がれたことを意味する。
だが、本来ならば、それはあり得ない光景。
ケヴィン自身が知る由もないことだが、その男の武人としての実力は、星銀等級傭兵相当。
純隕鉄等級傭兵と同等の実力者であるケヴィンの一撃を防げる道理など、存在しない。
――十度戦えば九度、ケヴィンに勝利が訪れる。
ケヴィンとその男の間には、それほどの隔絶が存在する、その筈だった。
だが、その場だけに限る話だが、十度戦えば、一度も勝てないだろう。
それはつまり、歪んだということ。
魔素を受容する生物、即ち、魔物として、世界に遍く存在している魔素の恩恵を、余すことなくその身に得ること――それは、世界の理。
絶対的ですらある筈の理を歪めては覆し、ステータスユニットもスキルボードも使えない、魔道的行為も振るえない、魔素が関与できない戦闘の場が、ケヴィンの前に構築された。
素の身体能力の優劣が勝負を決定付ける、魔素の概念が存在しない惑星のように原始的な、そんな戦いが突発的に始まり、理不尽にも思える身体能力の差で以って、あっという間に終えさせられたのが、ケヴィンによる反撃の一幕、その内容と顛末。
そして、理解させられた。
人族が最弱であり、その他の人種族、例えば、ケヴィンを容易く制した獣人族――朱豹人族のような者らが、世界に生まれた瞬間から強者である事実を、最悪な形で突き付けられたのである。