怒れる炎姫、蒼風の剣翁 10
※ この作品は、あくまでもフィクションです。実在する人物や団体とは関係ありません。
ちょいグロ & ざまぁ回。
「ま、胸糞わりぃことしてんのは、テメェのオヤジ。ガキのテメェに罪はねぇ――」
――なんて甘ったりぃこと、考えてねぇよなぁ?
「――いっ、ギャァァァッ!?」
「なっ、速すぎる……」
腰に差す刀へ向けて伸びる右手、その初動だけが辛うじて見えた次の瞬間には、ゲルムスの叫び声が聞こえ、地面をのたうち回る無様すぎる姿を晒したことでようやく、公国騎士が気付く。
ステータスユニットが装着された左腕だけを残し、ゲルムスの全ての手足が――切断されていたことを。
「――ったく、この有様を見りゃぁ、テメェが何しようとしてたか、予想のひとつもできるってもんだ……ベルハウルの奴らがやることなんざ、昔っから変わりゃしねぇからな……久しぶりだな、リア嬢ちゃん」
「はい……ご無沙汰しております、レイヴン卿」
「かっかっか! 畏まんのは、よしてくれぇ。儂ぁもう、隠居したんでな」
この場で何があって、誰が悪いか。
地に膝をつけるリア=ウィンディルと、すぐそばに落ちている短剣、その組み合わせを見れば自ずと答えは導かれ、大凡を定めることは造作も無い。特に、戦場を長く生き抜いてきたレイヴンのような武人であれば尚更、理解は容易い。
だからこそ、レイヴンは処したのだ、ゲルムス=ベルハウルという悪を、速やかに。
ユグドレアの各大陸に暮らす人々は、その2つの魔導器のことを――性能や特性、仕様を事細かく詳細に――何故か知っていた。古くは個々で造り上げ、現在は、ネフル天聖教のような組織が率先して供給体制を築いて人々に普及させている、その魔導器達。
――ステータスユニットとスキルボード。
識っているということは、応用することが容易いということであり、その一環として、古来から行なわれていた、ある種の拷問が存在する。
ステータスユニット装着時の身体部位の欠損である。
例えば、異世界である地球であれば、手足などを一度に失くすような事故などに見舞われた場合、ショック死や失血死などで死亡するケースが多い。だが、ステータスユニットの存在は、そういった可能性を、ほぼゼロにする。
ステータスユニットの機能であるHPシステムが理由の半分であり、残る理由の半分は――魔素。
大気に満ちる魔素とステータスユニットが繋がっている限り、装着者から外的要因による死が遠のく。
左手首にステータスユニットを装着しているゲルムス=ベルハウルから、右腕や左右の脚がなくなっていようとも、HPシステムによって、即座に傷口が塞がることで失血による死が遠ざかり、痛みが和らぐことでショック死が遠ざかり、ちゃんと生存しているのが、その証明と言えよう。
「あ……あ、ああ、あああああっ………………」
自分の状態に気付いたと同時に、ゲルムスは悟り、だからこそ思考が恐怖に染まり、心が萎縮し、見るに見かねたかのように、肉体が意識を強制的に眠らせる――やがて訪れる苦悶から遠ざけるように。
次は、自分の番だと――常日頃から自分が行なっていた所業が、我が身に降りかかるのだと思い至ったゲルムスは、怯えながら気を失ってしまったのだ。
例えば、今のゲルムスを、魔物領域に放ったらどうなるだろうか――当然、魔物の餌になる、いや、もしくは奇特な魔物の慰み物にでもなるかも知れない。いずれにせよ、その末路が悲惨なことは理解できるはずだ。
そんな卑劣な所業を、幼少の頃から繰り返し、嘆き悲しむ様を眺めては嘲笑い、心から愉しんでいたのだ、ゲルムスは。
つまり、ベルハウル侯爵家とは、そういった理不尽を平然と他者に与える者の集まりであり、そういう意味では、自業自得としか言いようがない。
不自由極まる状態のまま、いいように弄ばれ、左腕を駆使して自害するか、ただただ絶望することしかできない、奴隷未満の生き物。
それが今のゲルムスであり、これが今のゲルムスが置かれている状況である。
そして、ゲルムスという名の自覚なき悪が報いを受けた、この状況を言い表すにちょうどいい言葉が、田所 信が生きていた日本のフィクションの中に存在している。
言うなれば――ユグドレア式ざまぁ展開。
本家とでも呼べる地球のフィクションのそれと比べ、ユグドレアのそれは、少々過激ではあるだろうが根本的な差異は少ない。
そもそも、ざまぁと呼ばれるジャンルやカテゴリーには、復讐に類する考えが根底にあるのだから、それも当然である。とはいえ、屈辱や侮辱を与えるだけの生温い報復にすることで、罪悪感を薄め、愉悦を感じさせる大衆娯楽――エンターテインメントにしてみせたフィクションとしてのそれと、ユグドレアでのそれとでは、現実感に格差が生じるのは仕方がない。
本物と偽物の間に隔絶に等しい差が有ることなど、議論するまでもなき事実であり、どのような世界においても紛れもない、絶対的な真理なのだから。
さて、もしもこの場に、ゲルムスに運命を狂わされては翻弄され、命を落とした当事者の家族や友人がいたなら。
ゲルムスの無様な姿を見て、ある者は涙を流し、ある者は声を荒げ、ある者は引き攣った笑いを見せる――大概が、このどれかに当てはまる行動を起こすことだろう。
そして、その中の誰かが、ゲルムスの殺害を試みようとも、きっと誰も止めようとはしない。
ただ殺すだけでは生温い、生きて責め苦を味合わせてこそ、溜飲が下りる。だが、それがわかっていても尚、自らの手で殺したい、苦痛に次ぐ苦痛を与え、望みの一切合切を断ち切り、その命を奪い取ってやりたい――そういった想いを皆が皆、心に抱えているからこそ、理解できる。
自分1人であろうと、自分を除いた誰かの手で果たされようとも、事の顛末が納得できる結末となっているならば――ゲルムスのような悪に、犯した罪と同等以上の然るべき罰が与えられるなら、極論、なんだっていい。
最終的に、ゲルムスという外道が、その命を無為かつ無様に散らすなら、それでいい――と、ゲルムスの傲慢な所業が生んだ被害者達は、心の底から、それが当然の報いだと思っているのだ。
ひとつ断言しよう。
復讐を悪と定める法に、絶対的な正義など存在しない。
何故なら、復讐を禁ずる表向きの理由とは別の、法の裏側に隠された真意がそこにあり、復讐を恐れた傲慢な権力者を護るべく定めたのが法であり、それこそが真実である――こういった主張を完全に否定することができず、このような疑念を持つ者が存在する限り、掲げた正義の絶対性が曖昧であることを示し、民衆を欺く為のまやかしである可能性を示唆している。
誰かを殺したから、自分が殺されるべき対象であると見做される。つまり、殺されたくないなら、最初から殺さなければいい。
当たり前の話なのだが、復讐されたくないなら、されないように生きればいいだけなのだ。子供にでも理解できそうな簡単な理屈を、ああだこうだと理由をつけて禁じる時点で、隠したい罪の重さが窺い知れるというもの。
それのどこに正義が存在するというのか、いや、違う。
(権力者にとって都合の良い)不条理な正義であれば、其処彼処に、きっと存在している。
あまりに不憫で、気の毒なほどに可哀想な話なのだが、何処かの世界、何処かの国では、そのように気色悪い正義が罷り通っているというのだから、笑い話にもなりやしない。
願わくば、正義を騙る偽物を本物と信じる罪なき善良な者達が――傲慢な真実に気付いた時、心折れぬことだけを思う。
それと、復讐することを無法者の愚かな行為と声を挙げる者がいたとしても、安易に責めてはいけない。その者は、ただ単に無知なだけの可哀想な者でしかなく、きっと知らないだけなのだ。
愛する者を殺された悲しみを。
大切な家族を殺された苦しみを。
ただ亡くなるだけでも、悲しく苦しいのだ。誰かに殺されたことを知った時、その衝動の強さは比べ物にならない――そのことを、実際に感じてから口にすべきと、是非とも警告してあげた方がいい。
無知蒙昧であると自覚できない哀れな者にしかできない行動――中身の伴わない薄っぺらな言葉を迂闊に口にするという、浅慮がすぎる幼稚な振る舞いの結果、何が起きるか予想もつかないのだから。
さて、他者を正当な理由なく殺すのは、間違いなく悪だ。しかし、復讐するに足る資格を有する者が、それを成し遂げることを、ユグドレアでは、悪とは呼ばない。
仇討ちに一生を捧げ、それを成し遂げたのち、自分が復讐の対象になることも含めて、不退転の覚悟を決めた者を、ユグドレアでは――復讐者と呼ぶ。
そして、ある意味では、見知らぬ誰かの復讐の代行を為してきた一族こそが、ウィロウ公爵家である。
偽物の正義には絶対にできない、復讐の代行という業を担い続けてきたからこそ、レイヴンは、ウィロウ公爵家は、民衆から認められている。
何せ、正義が討つべき悪とは、必ず誰かの復讐の対象になっているのが、世の道理なのだから。