黒天の内に蟆弱¥者 1蜈ュ
言葉を出せなかった、何一つ、彼女たち2人は。
対岸の火事をぼんやり眺めるように、ニュース番組で流れている映像に視聴者が関与できないように、2人は、今しがた起きた出来事を、ただ見ていることしか出来なかった。
唐突な介入は、如何なる場合でも赦されず。
過去へと赴いて改変することも禁じられている。
そのどちらも、傍観者に課せられた、守るべきルール。
だからこそ2人は動けず、特に彼女は、ただ身を震わせることしか出来ないでいたのだ。
――……いじって、ないわよね?
――いやいや、まさか!? そんな悪趣味なこと、ウチは絶対にしないっす……悲しいっすけど、一応は、正常な流れっすよ、これ。
――そう、よね……そう、なるわよね。
――えーと……先輩?
――……カナタが、真相に気付いたらすぐに伝えなさい。
――いいんすか、贔屓しすぎじゃ?
――先にやらかしたのは、運命とかいう戯言をのたまう愚か者と、そんな愚物にいいように惑わされてる、あんたの上司よ?
――いや、まあ、そりゃそうっすけど……はぁ、そりゃそうっすよねぇ……先輩は相変わらずっすね。
――この私が、こんな理不尽を野放しにする方が、よっぽど問題よ……そうでしょ?
――そ、そうっすね…………うわぁ、こんなにキレてる先輩、久々に見るっすねぇ……ま、ウチもイラッと来てますから、先輩ならこうなるのは当然っちゃ当然っすけど。
――大方、忙しさを言い訳にして、ここら一帯の運命値のバランス調整を自動設定にしておいた、そんなところでしょうけどね……ふざけるんじゃないわよ。
――せ、先輩?
――あの子の何処を観れば、あの若さで死ぬような帳尻合わせが起こるのよ……そりゃ、家族や友人には恵まれてたけど。その程度で、他と比較して明らかに厳しいあの環境を帳消しにできるわけないでしょ……努力して、才能を磨いて、真剣勝負に挑んで……その繰り返しで、自分の立ち位置を、上に上に押し上げ続けて、登り続けてっ!! 天拳ウラノスっていうプロゲーマーが生まれたのよ……あの子の人生は、幸せを噛みしめるのは、これから先の未来でしょうがっ!!
――ちょ、ま、まずっ……これ、ヤバっ!?
彼女たち2名を除いた、ありとあらゆるモノが、色を失う。
それは、世界線の流れ、つまり、時の流れを停止状態にする、次元停止措置が発動された結果。
その場で動けるのは、彼女たち2人と、もう1名。緊急措置として次元を停止させた者だけ――いつのまにか彼は、其此に現れていた。
――上等じゃない……元々その予定だったけど、不手際なあんたの尻拭いをしてあげるわ……深く感謝しなさい。
――校正者であるというのに、ひどく感情的なのは、君の良くないところだよ?
――物の役にも立たない無様極まるあんたの仕事振りに比べればマシよ……覚えておきなさい、こんな巫山戯きった仕様で、懸命に生きている無辜な誰かに、再び、理不尽を押し付けるような仕事をした時は、あんたの全てを徹底的に書き換えるから。
――了解、すぐにでも調整し直すよ、戦姫様。
怒り心頭に発する――まさにその言葉をリアルタイムに体現していた彼女が、その場から姿を消していた。同時に、周囲の風景の色彩が、元通りの姿となる。
――もう行ったよ?
――ふひゃあ……とばっちりで、ウチまで修正させられるかと思ったっす。半端じゃない威圧感っすねぇ。
――それは、こっちのセリフなんだけどねぇ……最上位英雄に涙目で睨まれるとか……命が無限にあったとしても、全然足りないんだけど?
――杜撰なクソ仕様のまんま放置しといたのが悪いっす。自業自得っすね。
――いやいやいや……この辺ってさ、辺境も辺境、銀河の果てみたいな座標軸なんだよ? 流石に、こんなところの運命値まで把握しきれないよね?
――この星、先輩のお気に入りっすよ?
――へぇ、校正の魔女の…………え、本当に?
――マジっす。あんなに機嫌のいい先輩、久々に見たっすもん。
――な、なるほどねぇ……ところでどうだい、そろそろ上位権限、欲しくない? 特にほら、この辺一帯の全権とかどうだい?
――あ、定時なんで帰るっす、お疲れっした!
――ちょっ!? そんな仕様、聞いたことないんだけど!? 辺境ネタはやめてくれるかなぁ!?
――如何なる場所であろうとも中間管理職は世知辛い。その厳しすぎる現実を、彼はその身を以って伝えたい。ここで一曲、聞いてやってください、『中間管理職は辛いよ、母ちゃん』。
――辺境ネタぁぁ……姿を隠してまでするようなことなのかい!?
後輩と呼ばれている飄々とした態度をあまり崩さない赤髪の彼女もまた、一応は上司にあたる同僚の、あまりに雑な仕事振りに腹が立っており、あまつさえ、超絶愛してる大好きな先輩を泣かしたという事実に、ガチで怒っていた。
それ故、厳しめに弄くり回した、それだけのことである。
おや、姫がそろそろ目を覚ましそうだ…………そう、このひとときは、彼女が眠りにつき、接続している時にだけ叶う、泡沫の間の邂逅。君とこうやって語らう瞬間が再び訪れるかどうかは、姫次第ということだ。
そうだ、最後に何か聞きたいことはあるかな。あと1つくらいならば目溢しされるだろう…………そうか、やはり、私の名が気になるかね。
すまない、それだけは明かせない決まりでね。その代わりに、ヒントをあげよう。
私は、物語を読む者。中庸を尊ぶ者、観測者、信頼できぬ語り手、そして……中々に気恥ずかしいのだが、こうも呼ばれている。
始原の一柱、と。
眠りから目を覚ましたように瞼が開かれ、瞳に、灯の明かりが映ると同時に、静かに響く、ほんの微かな音。その音、その水滴、その――意味は、奇襲にも似た一手を確立した、祈り願う価値のある望外の布石。だからこそ、決して違えてはならぬ福音であることを、雄弁に語り、心の奥深くにまで沁み渡っていた。
故に、彼女は、筆を取る。
「あの子が産まれてきた新たな意味を、私が作る」
人族の一生は、彼女のような存在からすれば、あまりに短い。エルフやドワーフといった長命の種とは比べものにならない、その短さにこそ、多くではなく――深く、より奥深くへと生きることの尊さが込められていることを、彼女は知っている、いや、知っていた筈だった。
彼が――シンが、理不尽に命を奪われた瞬間の喪失感は、彼女に、かつて眼前で散っていった輩の姿を思い出させていた。
それは、胸を押し潰すような悲痛な感覚だけではなく、人族の、その脆さが故に極まった命の輝き、その凄まじさと、それに比例するように燃え盛る、儚くも猛々しさを感じさせる美しさをも、彼女は思い出していた。
「きっと彼も……そうだった」
黒天のマルス――彼が、極災をも凌駕する存在へと成った条件はおそらく、彼が人族であることに加えて、大切なものを幾度も喪失したこと。そして、急激な位階の上昇による反動を制御できずに暴走、その果てこそが、あの結末だったのだろう、と、彼女は推測。
その後、極災の魂を喰らったことで、最上位英雄――真なる英雄と成るものの、暴走状態のまま、星を喰らい、次元を喰らい、世界そのものを、虚無の坩堝という名の僻地へ追いやるという、悲劇的な世界線が産まれた、と、彼女は理解している。
「なら、話は簡単よね」
マルス=ドラゴネスが、真なる英雄へ至る器であることは此処に証明された。その事実が、歴史に刻まれた以上、条件さえ満たせば、マルスは、いつ如何なる時と場合であっても――黒天へと成る。
ここで重要なのは、英雄化の条件は、常に未確定であるということ――不文律、いわゆる暗黙の了解という奴ではあるが、そうすることで不測の事態を回避することに繋がるケースが多かったことが、本当の条件がいまだに明文化されていない理由。
よからぬ輩には、ルールが限られていると思わせておくこと、それ自体が、予防線になるということである。
「シンなら、あの子だからこそ、黒天に至る為の別の条件を見つけ出せる筈……それに、ラーメン屋さんがいれば、道を誤ることもないでしょ、きっと」
彼女は、休まず筆を走らせる。本来の彼女の役割を考えると、ここまで手を加えるようなことがあってはならないのだが、あまりに度が過ぎた、悪ふざけにも程がある文章なのだから仕方がない――という名目のもと、彼女は、徹底的に修正箇所の指示を、書き殴るように記していく。
そして、筆先が紙面から離れ、筆自体が音無く霧散、彼女の掌中へと光の粒が収束する。
「ふぅ……まずは、ここまで。ここから先は、様子を観ながら、随時更新ね……っと、そうだ、忘れてたわ……ええと……あれ、どこかしら……」
手の平のガラス玉のような何かを懐にしまった彼女は、その流れのまま、懐に突っ込んだ手で、何かを探しては――数分後。
「あったあった……それにしても、本当にこんなのが人気なの? また、あの子に騙されてないかしら、私……騙されたと思って使ってみるっすよー、なんて言われて本当に騙されるとか、あまりにも癪なのだけれども……まぁ、いいわ…………採寸ぴったりね。普段は不真面目なのに、こういうことには手を抜かないのよね……まったく、あの子ったら」
彼女が懐から取り出したのは、書物を保護する役割を主とする道具、つまり、カバーである。
だが、赤髪の後輩から渡されたそれは、保護と同時に、別の役割をも与えたカバーであった――ことを彼女が知るのは、当分先の話であった。
「とにかく、これで準備は整った。あとは、適宜、私の判断で修正指示を出すだけ……シンやラーメン屋さんを含めた七つの種が芽吹く時期に、ズレがあるのだけが不安ではあるけど……信じるしかないわね。頼んだわよ……特に、シン……ユグドレアでも、いつも通り、かましてやりなさい」
ガルディアナ戦記と題された書物の上に覆わせた、彩り豊かなカバーをマジマジと眺めながら彼女――校正の魔女にして祈願の聖女、ユグドレアを含めた次元重層区域にて大いなる魔の意思と呼ばれたる原初の英雄の1人、始まりの戦姫――アナスタシアは、カバーに記してある、改題された文言を目で追っては、クスッと思わず微笑んでいた。
ところで、アナスタシアが思わず微笑んでしまった文言とは、一体なんなのだろうか?
カバーには、このような長文がデカデカと、読みやすいフォントで記されていた。
『ラーメン大好きおっさんは、異世界に連れてかれてもブレない。 −ラーメン大好きベルセルクの異世界無双− 』、と。
今、この瞬間に反抗、否、反撃を題材とした物語――喜劇の幕が上がる。
祈願の聖女という名の魔法師だけが発現できる奇跡、すなわち螺旋式の魔法によって因果律をねじることで歴史を改編する、アナスタシアだけの天撃が――再び始まった。
「全力でブチかましなさい、天拳ウラノス」
そして、誰も彼も知らない物語――黄昏にして黎明、終わりにして始まりの物語が、始まりを迎えたのである。
それはさておき、アナスタシアが最後に手を加えた一文とは、どんな文章だったのだろうか?
答えよう――タイムリミットまで、残り30秒。




