8話
これから始まるのはただのエピローグであり、起承転結で言えば「結」のその先にあたるのだろう。
1カ月にも満たない地球の危機は、一晩のうちに解決を迎えた。
1週間前のあの夜、薬物中毒のメンヘラ姫は大人しく月の都へ帰っていったのだ。
一瞬月の都へ誘拐されそうになったものの、「帝には帝の務めがあるから地上を離れることは出来ない。千年後にまたここで愛し合おう」みたいなことをつらつらと語ってみたら、案外素直に帰っていった。
これで少なくとも、千年先まで彼女の魔の手が地球に伸びることはないだろうし、その間地球になんらかの危機が訪れた場合は月の民が助けに来てくれるかもしれない。
なんて、都合が良すぎるだろうか。
それ以外にも収穫があったとすれば、かぐや姫がもう二度と不死の薬を服用しないと固く誓ってくれたことである。
思い悩んで悔やんで病んで壊れてしまった姫君はたった一度体を重ねただけで、悩みも悔やみも何もかもから解放されたようだ。
帰り際には懐にしまっていた不死の薬をリビングのゴミ箱に捨てていった。
愛があるから薬は不要なんだとか。いや、なんだそれ。
どちらにせよ、しばらくの間地球は平和である。
俺と帝が瓜二つだった理由は結局のところよくわからない。
もしかしたら俺の中に彼の血が多少流れているのかもしれないし、たまたまこの時代に全く同じ顔で生まれてきただけなのかもしれない。
そうなのだとすれば、千年後も同じような境遇の人物の元に月のお姫様が現れるのだろう。それが誰になるのかは知らないが、俺にだって出来たんだからそいつも上手くやるはずだ。
「じゃあ、そろそろいきますか」
空に浮かんだ月は、残念ながら満月ではない。
細くて鋭い繊月だ。
けれど、それで月の美しさが失われるわけではなかった。
どんな月も美しさは等しく変わらない。
あの日と同じ橋の上、相変わらず高いフェンスがそびえ立ち、冷たい風が吹いている。
「よっと」
靴は既に脱ぎ捨てた。
前回よりも容易くフェンスをよじ登り、てっぺんを跨いで谷底を見下ろした。
さてさて、そろそろお時間です。
「じゃあな」
誰にでもなく呟いて、闇に体を投げ出した。
身体が世界に溶けていくような感覚の中で、心の片隅に小さなしこりを感じている。
ここ数日間は、人生のどんな瞬間より充実していた。
無垢で素直で影の無い少女、いろんな意味で現実離れしたあの子との生活は本当に楽しかった。
最初はいろんな不安を感じていたし、不可思議な彼女の存在は恐ろしくもあった。
だけどそんなものはすぐになくなって、悩みや後悔を忘れることができたんだ。たとえそれが、一時的なまやかしに過ぎなかったとしても。
俺は結局過去に囚われたままで、その生活を壊してしまった。これはきっと、永遠に治す事の出来ない病気の様な物だと思う。
あの子はもう、月に帰ったのかな。
あの後、彼女が俺の前に姿を現すことはなかった。
そもそも、かぐや姫による地上の破壊を防ぐことが彼女の役目であり、その仕事が終わった以上ここにいる意味なんてない。
念のために作っておいたオムライスは、誰にも食べられることはなく、いずれ捨てられるのだろう。
それもまたいいじゃないか。
ゴミの様な人生を送ってきた人間が最後に残すのもゴミだとか、洒落が効いてて悪くない。
本当は少しだけ、ほんのちょっとだけ期待していた。
あの子の好物を作れば、匂いにつられてふらっと帰ってくるのではないか。
こうして飛び降りてみれば、あの子が月から降りてくるのではないか。
なんて。
竹取物語の足もとにも及ばない夢物語は、そんなに都合よく出来ていない。
どうしようもなく目頭が熱くなる。
思い出したくない過去も、取り戻したかった今も、なにもかもがぐちゃぐちゃに入り混じり、いくつもの涙が闇の中に落ちていく。
その一粒一粒が自分の分身のように思えて、取り返そうと手を伸ばしてみても落ちる雫には届かない。
あの涙は谷底の沢に打ち付けられて、今頃悲鳴を上げる間もなく息絶えているだろう。
俺もすぐに行くから、どうか情けなく泣かないでくれ。
最後くらいはあの月の様に美しく、星空を自由に飛び回ろう……。
「…………ん?」
あれ? おかしい。
おかしくない?
どうして涙だけが落ちていくんだろう?
空を飛ぶのは初めてだから詳しくないが、涙ってむしろ上がっていくんじゃないのか?
というか。
さっきから景色が全く変わっていない。
死の直前は時間がゆっくりと進むとか聞いたことがあるけれど、これはもうゆっくりとかそういうレベルじゃないだろ。
ていうか。
「なんで俺浮いてるの!?」
「プラリルあらば、いとたやすきことなり」
その声に、思わず振り返る。
俺が買った冬服姿で、三日月を背に浮かぶ美しい少女の姿がそこにはあった。
「どこ行ってたんだよ、お前」
「プラリル取らんと月の都へ帰りたり~。これで帝のプラリルなおしけり」
「いや、お前どうやって帰ったんだよ? プラリルもないのに」
「緊急装置を使いたり。奥歯を強く噛み締めれば、たちまち影の様に消えたりて、すぐさま都に戻りけり~」
加速装置かよ。とか、今は野暮なツッコミは不要だろう。
「でもかぐや姫は帰ったぞ。もしかして、あんなものを直すために帰ってきたのか?」
「否~。帝を護らんと使命を受けて、再びこの地に降りたりし〜」
「俺を……? じゃあ、その……」
「ん〜? どうなされた?」
馬鹿か、何を今更恥ずかしがってやがる。
ハッキリ言えよ俺。
「じゃあ、またうちに住むか?」
「あなや! まことなり? まことによき!?」
「良きに決まってるだろ」
俺は本当の帝じゃないが、それを信じてもらえるのはいつになるかもわからないし、それまでは彼女と一緒に過ごしてもバチは当たらないだろう。
この息苦しい世界も、彼女が居れば幾分楽だ。
「そうだ。オムライスつくってあるから、帰ったら食べような」
「オムライス!? やりし~!」
彼女がいれば、俺はきっと、もう一度。
「ところで帝は、こんなところでなにしてはべり?」
「え? いや、まぁ。ちょっとした息抜きっていうか……とりあえず、橋の上に降ろしてくれないか? タクシー呼んで家に帰ろう」
「それには及ばず~。このままおうちに飛んでまいらん~!」
「え!? 嘘だろ!?」
「まことなり~!」
「あっ靴! 靴置きっぱだから!」
俺は子供が語る夢物語の様に空を飛びたかったわけではない。
本当のところ、星空も月もどうでもよかった。
せめて死ぬ時くらい、かっこつけてみたかったってだけなんだ。あいつと同じ場所で、同じ方法で、死ぬための理由が欲しかっただけなんだ。
けれど実際に空を飛べたのだから、ありもしない妄想も、時には悪くないのかもしれない。
俺は決して美しく飛べてはいないけれど、俺の手を引く彼女の姿はこの世の何より美しい。
「おかえり、パプリナ」
聴こえるかどうかの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「ただいま!」
その笑顔を永遠に見られるのなら、不死の薬を飲むのも悪くないなって、そう思えたんだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
本当に拙い作品ですが、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。