君とフルーツフレーバーティーと呪い
オレンジティーはゲロみたいに不味いと言ったら、彼女にひっぱたかれた。
小さい頃の話で、まだあのときは彼女の背の方が僕よりも大きかった。だから、怒った顔がすっごく怖く見えたのを覚えている。けれど、当時の僕には自分の何がいけなかったのか、よく分かっていなかった。だって、お父さんもお母さんも、フルーツフレーバーティーの類は嫌いだった。僕は、そういう閉じた世界で生きてきた。
ばこん、と自販機が乱暴に商品を吐き出す。
会社の中の休憩スペースで、オレンジティーの紙パックが置いてあるのは、営業部のオフィスがある三階だけだ。企画開発部に所属する僕のオフィスは、四階で本来ならその階の休憩室を利用するべきかもしれない。けれど、僕はオレンジティーを買うためだけに、階段を下りてこの休憩室を利用する。
「相変わらずだなー。吉川」
にやにやと笑いながら、同期の田所が話しかけてくる。田所は調子のいいやつで、外回りに出ているか、“ここ”にいる。とどのつまり本社に出ているときは、サボっている時間の方が多い。
「いっつもそれ飲んでるけど、美味しいの?」
なんてそんな会話の始まりは、何度したか分からないくらい。それに対する僕の返事は決まって、曖昧なものだ。
「さあ、自分でもよく分からない」
「吉川は釈然としないなあ。――そんなんだから、いい年して独り身なんだろ」
日本の社会人には一種の宗教がある。仕事や人生に疲れたとき、まるで処方するかのように女遊びを勧めて来る。田所は接待などでキャバクラにも幾度となく行っているようで、しつこく勧めて来る。この前は、風俗も勧められた。
入社したての新人研修では、よく話していたのに、入社して十年が経った今では、どうも会話が噛み合わない。どこか遠くに行ってしまったかのようだ。
「親にも言われる。――頼んでもいないのに必死にお見合い相手を探してくる。孫の顔が見たいんだとさ」
それでも、愚痴は聞いてくれるから、そこは感謝している。このところ、どこかで話さないと耐えられなくなって来た。このところ、親の“あたり”が強くなってきた。三十を超えても、独身で浮いた話の一つもないからだ。
「会ってみたらどうなん?」
「人に組まされた縁談に興味は持てない」
「そういうけどさ、誰だって最初は他人同士だろ。会ってみなきゃ、始まるもん始まらんだろ。それとも何か、まだ“葉月”のことか?」
田所が、彼女の名前を呟いた。――そう、僕に呪いをかけたオレンジティーが好きな女性の名前。森本葉月。
ずっと昔に胸にささったまんまのナイフが、ひとりでに動いて僕の心を抉った。
恋人だったと言ったら、独りよがりになる。でも、友達以上だったとは、せめてでも言いたい。それが、僕にとっての葉月だ。
もう連絡先も知らなくて、二十年近く会っていなくて、友達の友達の友達くらいでつながったSNSのアカウントだけしか繋がりがないのに。だから、この気持ちは慕情にさえなり切れない、ただの呪いなんだ。
***
幼馴染に呪われた、情けない男が仕事ができるかって? それは愚問というものだ。その日に飲んだオレンジティーが、とびきり美味しくなかったからかもしれない。急ぎのタスクだけを終わらせて、定時に退社した。田所に飲みに誘われたが丁重に断った。――誰かと一緒に飲むよりは独りで飲みたい気分だった。
ポケットに手をつっこんで、うつむきながら何かに追われているかのような速さで歩みを進める。平日のまだ明るい時間に街を歩くなんて、久しぶりのことなのに。僕はただただ鼠色の地面と向き合って家路を急いだ。特に家に帰ってやりたいことがあるわけでもないのに。
本当に何故だか分からないけれど急いでいたから、慣れていない近道も使った。方向音痴のくせに狭い路地をくぐって、しばらく歩いて――こじんまりとした飲み屋が軒を連ねて並んでいるあたりで現在地が分からなくなった。でも、便利な現代。スマートフォンさえあれば、迷子だってお家に帰れる。
「あ……」
思わず間抜けな声が出た。ホームボタンを押したところで、充電が切れたそいつは、うんともすんとも反応しない。
ダンジョンの奥に潜っているときに頼りにしていた最強装備が壊れたみたいな絶望感。そこで僕は改めて周りを見渡す。焼き鳥、串カツ、蕎麦といろんなお店の提灯が並んでいて、赤くぼうっと光っている。どれも馴染みのない店だ。家からそうも遠くないはずなのに、急に感じる疎外感――途方に暮れて、強まった静寂の中、ぐうと腹の鳴る音が木霊した。流石に腹が減った。食べ物屋はそれこそ、そこらじゅうにあった。だが、どれも和食に偏っていた。別に洋食が食べたかったわけではないけれど、僕の足を止めたのは異彩を放つ一軒の喫茶店だった。
***
“Le souvenir”
唐突に現れたそれは、洋館のような佇まいで、隣にあるいかにも古い定食屋ともうどん屋とも一線を介している。「どうして、こんなところに?」と思わずにはいられない立地だ。
僕は次元の隙間に吸い込まれるように、フェンスゲートをくぐった。それから、とん、たん、とん――とウッドデッキを踏みしめて、誰もいないテラスの脇を通って、格調高いマホガニーの扉を開ける。ぎぃ……と趣のある軋みを追って、からころと小気味の良い鈴の音が。
「いらっしゃいませ」
臙脂色のスーツを着こなした壮年の男性が深々とお辞儀をして僕を迎えた。客は、僕を除いて誰もいない。夕食時というのもあるのか。それとも、それだけ格調高い店なのか。残業代を足してやっと月収が三十万になるかという具合の僕は、少し身構えた。
「当店でのメニューは拘りの紅茶のみとなっております」
と言われて、え、と思わず声が出てしまった。でもそこで店を出てしまうのも失礼だと思い、一杯だけいただくことにした。――空きっ腹に、温かい紅茶……余計に腹が減りそうだ。付け合わせのお菓子だとか、そういうものもないらしい。
頼んだのは本日のフルーツフレーバーティー。ほとんど無意識に頼んでしまった。注文を受け取ったのも先ほどの男性で、店は広々としているのにウエイターもウエイトレスもいない。どうやらあの男性が、一人できりもりしているようだ。
店内は間接照明だけで照らされていて、読み物や書き物をするには、少々暗い。なので、待ち時間で何か本を読もうかとも思ったが止めた。かと言ってスマートフォンは充電が切れてしまっている。
時間を持て余しそうになっていたところにちょうど、店主がアロマキャンドルを持ってきた。
「当店では、紅茶の香りを引き立たせるアロマキャンドルをサービスでお楽しみいただけます」
モデルのようなしなやかな腕が、マッチで火を灯す。ライターではないというところに拘りが感じられる。
「本日のアロマキャンドルの香りは、リンデンです。優しくて甘い香りが特徴です。紅茶の方は、爽やかな渋みを愉しむアールグレイをベースに、バレンシアオレンジをはじめとする数種の柑橘を使っておりますから、より清涼感が際立ちますよ」
落ち着きのある声での流暢な語り口に圧倒される。――それにしても随分と格調高いところに来てしまった。
説明された通りの優しく甘い香りが、仄かに漂ってきたところで店主が紅茶を持って来た。
「こちらが本日のフルーツフレーバーティーです。それではごゆっくりとお愉しみください。――当店の名前は、ル・スーヴニール。これはフランス語で想い出という意味です。あなたの素敵な想い出が今夜、蘇るかもしれません」
ちょっとクサい台詞だなと思った。少し間を置いて、店主は照れ隠しか、「ほんの口上です」と付け加えた。
紅茶から甘酸っぱい柑橘の香りが、湯気に乗って鼻孔を刺激する。一口飲むと、それが温度とともに口の中いっぱいに広がって、後から追ってほろ苦さと渋みがやって来る。――いつも飲んでいる紙パックのオレンジティーとは雲泥の差だ。
「美味しい」
と数年ぶりに口に出した。
「あれ? キョウちゃん?」
なんて懐かしい声がして、幻聴か……いよいよ病院にでも通ったほうがよさそうだと自嘲した。
「なーに、一人でにやにやしてんのよ」
それを詰りながら、彼女は何の気もなしに向かい合わせに座ってきた。そこでやっと彼女が本当にそこにいる! と気づいて思わずむせてしまった。
「ちょっと! キョウちゃん!?」
慌てて白いハンカチを取り出す彼女。染みにならないうちに、と急いで拭いたけどシャツと、ハンカチには茶渋が残ってしまった。
「ありがとう、これ……」
「もうそれ、あげるわよ。おっちょこちょいさん」
自分の顔が紅くなっているのを感じる。十数年越しに会った彼女は、あの頃よりもキレイで――なんて言葉は、僕の口をついて出てくることはない。紅茶が美味しいってことは、あんなにも簡単に言えたのに。
「それ、美味しそうね」
「ああ、うん。――すごく」
「キョウちゃんも好きになったんだね。小さいときはゲロみたいに不味いとか言ってたくせにさ」
フルーツフレーバーティーが好きか嫌いか。初めて心から美味しいと感じるものを飲んでも僕には決着がつかなかった。そして、目の前にその呪いをかけた張本人が現れても。
「あのときの葉月は怖かった」
「まあ私もひっぱたくことはなかったかなあ、なんて。でも、人が好きなものを馬鹿にしちゃ、ダメだよ。キョウちゃん、そんなことしてない?」
もう僕は、彼女よりずっと背が高くなってしまったけれど、それでもまだ僕は彼女の歩幅に追いつけていない。今は外資系の企業に勤めていて、英語が飛び交うオフィスで働いているという。これは到底追いつけない。確固たる自分の主義主張があって、他人のそれらも尊重できる彼女だから、そんな場所でやっていけるのだろう。
「葉月には、敵わないな」
「なに、勝負でもしてたの? つまらない」
「喩えの話だよ」
でも悔しさを感じていないと言えば、嘘になる。もとから遠かった彼女と、こんな近くにいるのに、その差を感じてしまっている。だから、久しぶりの再会なのに、会話が途切れ途切れになってしまう。
しばらくして店主が注文をとりに来た。
「ミルクティーで」
フルーツフレーバーティーじゃないのか、と思った。
「珍しい? 今日はそういう気分なの。――疲れているし。今ね、休業してるの」
途端に彼女の声のトーンが下がった。アルトになった声は、僕に届くまでに、テーブルの上に落っこちた。
「どうしたんだ?」
神妙な顔つき、彼女のそんな表情を見たのは初めてだった。
「キョウちゃんは、結婚はしてるの?」
こっちが聞きたかった質問をいきなり吹っかけて来た。びくり、と跳ね上がる肩。「いや――まだ」と答えると、すぐに「私も」と。
「いいところまで行ってた人もいたんだけどね。去年、別れて……、親に紹介も済んでいた人だから、『なんで別れたんだ? もういい年なのに、独り身にまた戻るのか?』って説教喰らったよ」
彼女が僕に弱みを見せたのは初めてだけど、その内容が自分の抱えているものとあまりにも近くて、親近感が湧いた。
「僕も、親のあたりが強くて。――孫の顔が見たいんだってさ」
「どこの親も同じね」
諦観に満ちたため息を彼女が一つついたところで、彼女が頼んだミルクティーがやってきた。それに口をつけて、もうひとつため息を。
「私はね、その子供を自分が産んで育てるということが、なんだか怖くなって彼氏に申し訳なくなったの。いや……なんていうか、男の人が急に怖くなっちゃってさ。仕事柄、外国の取引先とかも多くて、自分とかけ離れた人間とうんざりするほど話していると、他人って自分の意志でどうこうできるもんじゃないって毎日のように思い知らされる。それが辛うじてできるのは、自分自身だけだって。だから、私は、自分とだけ真摯に付き合って生きてきたんだと思う。だから、自己実現もそれなりにできて……でもさ。子供を産むってさ。他人が自分の中に入って来て、それがこれからの人生ずっと、“割り切ることのできない他人”として存在し続けるようになるんだって考えると――怖くて怖くて。途端に自分が誰かを幸せにできる自信がなくなった。だから、ごめんなさいって言って別れた。そうしたらさ、なんか自分のやることなすこと全てに自信が持てなくなってきちゃってさ」
彼女の声は時折掠れて、時折震えていた。語り終えたころには、目が潤んでいて、ほんの数分前よりも彼女がくたびれて見えてしまった。元気づけてあげたいけれど、なんと声をかけていいか分からない。僕だって経緯こそ違えど、彼女の心境に共感することは多い。多いはずなのに。いや、多いからこそなのか。
「ごめん……急にやって来て、急にこんな重たい話」
「いや、大丈夫。気持ちは分かるから」
咄嗟に出たのは、そんな無責任な言葉。事実共感はしたんだけども、口に出してみるとその身勝手さが思い知らされる。それでも、彼女は笑って、ありがとうと言った。
その笑顔が、愛想から来るものではなく、心からのものだと思ってしまった僕は、都合がいいだろうか。僕の意気地なしの心は、その自己解釈だけで満足してしまって、それから先を求めなかった。いや、僕は――彼女とは違って、自分さえもどうこうできなかった人間だから、彼女という存在を許容できなかったかもしれない。
沈黙の中で、二杯のティーカップの中身は、あっという間に消えた。僕らを挟んだ真ん中でアロマキャンドルの火が、不安定に揺れていた。
***
それからは結局、ほとんど言葉を交わさないままに僕らは店を出た。
「今日は、愚痴聞いてくれてありがとう」
ああ、終わってしまう。彼女との時間が終わってしまうんだ、と。――非現実的なひとときだった。それこそ、丸々自分の病気が見せた幻覚と思ってしまえるくらいに。でも、本当に幻だったとしても――
「大丈夫だよ。またいつでも愚痴を言ってきていいし」
「そんなこと言ったら、甘えちゃうよ」
また彼女が、僕に甘えてくれるなら。と未練がましい心は、僕らが背中合わせになったところで悲鳴を上げた。
「待って!」
振り向きざまに呼びかけた。数百メートルほど続く、狭いけれどまっすぐな路地。そのどこにも彼女は居なかった。やっぱり、彼女は幻だったんだ。それで納得した。彼女がフルーツフレーバーティーを頼まなかったことも、彼女が僕との関係を特別に見ているかのように弱みを見せてくれたことも、これで全部説明がつく。
僕も明日から会社を休もうか。幻の中の彼女のように、なんてため息を一つついてポケットに手を入れなおしたところ、違和感が。いつも空っぽなはずのスラックスのポケットに何かが入っている。
取り出してみると、僕がこぼした紅茶を拭いた彼女のハンカチだった。――それから何度も洗濯したけれど、真っ白だったハンカチに染み付いた茶渋は取れなかった。彼女が僕にかけた呪いみたいに。