物語に科学を持ち込むべきか?
この中に一部、君の名はのネタバレになるところがあります。まだ見ていない人はお気をつけ下さい
「そんなものはあり得ない」「非科学的だ」
そんな批判をこのごろよく耳にする
こう書き出したが、私は決して反科学論者という訳ではない。むしろその逆でイギリス人が紅茶を好むのと同じぐらい私は科学を好んでいる。私が言いたいのはこの批判の中に内容自体が誤っているものや批判の対象として適切では無いものがあるのではないかということだ。
前置きはこのくらいにしてと言いたいところだが一つだけお付き合いいただきたい。それは科学の定義についてだ。
「科学」と聞くと恐らくフラスコを持った白衣の男や黒板の前でチョークを持った学者たちを思い浮かべるかもしれない。それは科学の一部だ。
経済が「限られた物を分配する方法」、政治は「お金を何に使うかの課程」と簡潔に表せるように科学を表すとどうなるか。
私は科学の定義として「合理的で理性的な知識の体系、及びそれを導き出す手法」を使いたい。
もちろん厳密に科学非科学を決めるときはもっと複雑で正確な定義が必要であることは分かっている。しかしここではこのくらいの曖昧さがちょうどいいのだ。
ようやく本題に入ろう。物語に科学を持ち込むことの是非だ。
誤解を招かないように言っておくがここでの是非は作者が持ち込むことの是非ではなく読者が批判の道具として科学を用いることの是非である。(もし作者が科学を使ってはいけなくなったならSF とは「すごく不可解」の略だと思う若者が急増するだろう。)
ではまずよくあるケースから見ていこう。
「魔法は科学ではない」論である。魔法の定義はあやふやだがなろう作品の多くで「魔法とは科学でないもの」と決められているという話は聞かない。出来るだけ多くの作品に当てはまる魔法の定義を考えるとしたら「現実世界では起こり得ない現象を引き起こす人間が操ることのできる力」だと私は思う。
ここで私が使った科学の定義を思い出してほしい。科学とは法則のことでも理論のことでもなく知識の体系付けのことである。つまり現実と違う力があることは何ら非科学的なことではない。
むしろ多くの作品では属性やランク付けにはじまる魔法理論を組み上げているように思えるがこれは当に科学の手法に他ならない。
魔法は科学でない論は単に的外れなだけにとどまらず発言者の無知をもさらしてしまうだろう。
その世界の中で矛盾がないのならその作品は十分に科学的足り得るということがより多くの人に認識されることは科学と小説双方に利益があると考える。
では、作品の中で矛盾していれば直ちに良くないことになるだろうか? 例えば物理法則と地球、太陽、月の質量が現実世界と同じで月が一年かけて地球の回りを回る状況を考えよう。ケプラーの法則によってこの月は地球から190万キロ離れたところを回ることがすぐに分かるがこれはヒル球(惑星の回りに衛星が存在できる範囲)を越えており月が衛星として存在できない。
しかしヒル球などほとんどの読者は意識しないし、あるいはそもそも知らないかもしれない。これは確かに明らかに非科学的な存在だがこれを認めて誰が困るだろうか?
SFなら話は別だ。しかし普通の小説にそんなことを求めても有益とは言えないだろう。
作者がほとんどの人が気にしないこと(惑星が永続的ハビタブルゾーンにあるか?、中心星の寿命は十分長いか? 等々)をいちいち検証し誤っていたところを辻褄あわせに奔走され肝心の中身がすっからかんになっては誰も得をしない。このようなことを批判するのは無益であり科学自体が煙たがられることになりかねない。
しかしこの境目が難しい。有名な例だが君の名はの彗星の軌道を見てみよう。
作中では彗星の予測軌道が示されるのだがなんとその軌道が太陽の手前でUターンするトンデモ軌道だったのだ。
これは天文学的にあまりにもありえなさ過ぎるもので実際騒がれたし多少なりとも天文が好きな人からするとあまりのインパクトに作品を楽しみにくくなる。私などは製作者のやる気を疑ってしまったほどだ。
この誤りは作品の価値を下げてしまうものだし予測図を変えても物語には差し障りがない。よってここは科学を持ち込むべきところではないだろうか。
この予想図は後にDVDになるときに差し替えられた。
しかしこの変更後にも複数の誤りがあった。
一つは落下時刻である。作中の軌道をとると太陽に近づくときに地球に接近しているがこの軌道をとると隕石の落下時刻は昼間になり作中の描写と合わない。
さらにあまりにも地球に近すぎるのも問題である。作中では月よりも近くまで接近したがこれはとんでもない異常事態である。彗星の軌道の不安定さも考えると衝突の可能性は少なくない。パニック映画になってもおかしくないだろう。
そして彗星は本体の小ささに対してその尾やコマの規模は大きく尾は太陽と地球の距離を越えることも珍しくなく、コマの直径が太陽の直径を越えることも普通である。太陽の直径は地球月間の三倍以上あるため多量のダストによって多くの人工衛星はその機能を停止することが予測される。
軌道の形も問題でこの形では周期は長くて百年を越えたぐらい。千年彗星は言い過ぎだろう。ただこれについてはティアマト彗星がものすごく小型なために千年前以外は肉眼で観測できなかったのかもしれない。
長くなってしまったがこれを言うことは有益だろうか?
天文好きからすれば理系の学生でもいいからちょっとはそこを分かる人に意見を聞いてくれとも言いたくなる。
科学、科学 言うのもどうかと思うが鍵を握る部分は矛盾がないようにしてもらいたい。そうでないと予測する楽しみのない何でもありの世界になってしまう。言うなれば夢落ちのようなものである。
小説と科学がどう付き合えばいいのかはなかなか難しいもののように思える。
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