少女の望む明日 1
真っ暗の世界。 右も左もわからなくなるようなその場所で、祭星は立ち尽くしていた。 ここは確か、一度来たことがあるなとおもい、以前そこで出会った女性の名前を呼ぶ。
「エスペランサ」
すると闇を切り裂くように白い女性が優雅に現れた。 決して交じらぬ黒と白。 エスペランサという女性だ。
『……見違えるようね、祭星』
祭星の頰に手を伸ばし、愛しい子をあやすように優しく撫でる。
『痛かったでしょう、ワタシの痛みが貴女に響いて』
「ううん。 あなたの方が痛かったはずだから……」
エスペランサが祭星の額に口づけをした。 そして彼女に連れ添うように、隣へ降り立つ。
白い髪を撫で、赤くなった毛先にフッと息を吹きかけると、溢れ掛かった魔力の象徴であったその赤が綺麗に消えた。
『契約を交わしましょう、祭星』
手を伸ばすエスペランサ。 祭星はゆっくりと、怖気付くこともなく手を握った。
闇が晴れる。 水の中のように美しく光を反射するその場所で、エスペランサはにっこりと微笑んだ。
つられるようにして祭星も微笑む。
『貴女の側にワタシも付き添いましょう。 だから、ワタシを上手く使いなさい』
エスペランサがパチンと指を鳴らす。 それを聞いた瞬間、祭星は目眩に襲われ、目を閉じる。
目を開けると、ただの真っ白な天井があるだけだった。
目をこすって体を起こす。 自室のようで、服も部屋着になっていた。 着替えた覚えなどないのだが。
寝起きの頭を必死で叩き起こし、何があったのかを考える。 枕元に置いてあったスマホをつけると、充電切れだった。 腹立たしく思うと同時に、一体何日寝てたのだろうという不安も思い浮かぶ。 充電器にスマホをつなげて、廊下に出る。
真っ暗だった。 どうやら夜中らしい。 流石にこんな暗闇を一人で歩く自信もない。 部屋に戻り、画面のついたスマホを覗き見る。
「一月、二十五日……?! 確か、イリスの討伐が十五日で、アナスタシアの襲撃が十八日で……。 わ、私一週間もずっと寝てたの?!」
頭を抱えた。 そりゃあ一週間も放置していたら充電もなくなるはずだと、祭星は呟く。
今は午前三時。 とりあえず何か温かいものが飲みたいと思った祭星は部屋着のまま、廊下を歩く。 自販機はロビーにあったはずだ。
真っ暗な廊下。 祭星は考える。 もしもこの場所がもうヴァチカンではなく、魔物に支配された場所だったら。 と。 誰もいなかったら、自分だけ取り残されてしまっていたら。
そう考えると心細くなって、胸が張り裂けそうになる。 溢れそうな涙を拭って、一人寂しく廊下をさまよっている。
自販機で買ったココアを手にして、祭星が廊下をペタペタと歩く。 二号室の表札が見えて、ふと立ち止まった。
彼はもう寝ているだろう。 それに任務に出ている可能性だってある。
「……」
でも無性に、今は彼に会いたい。
小さくノックした。 十秒、二十秒……。 一向に彼は現れない。
ああ、やっぱり寝てるんだろうな。 と祭星が悲しそうに笑って目を伏せて、帰ろうと体を動かした時。
ドアが開いた。
眠たそうな瞳が祭星を捉えた。 彼の瞳に映る祭星は、怯えて小さく縮こまっているように見えて、涙で蒼い目が濡れている気がして。
「おいで」
何を求めているかなんてすぐにわかった。
祭星は蓮に手を引かれて部屋の中へ入る。 電気をつけて、暖房を入れてくれた蓮は、祭星に毛布をかけた。
「あの、ごめん……なさい。 寝てた、んだよね」
「気にしないでくれ。 もう目が覚めた」
「その言い方は気にする言い方だよ!」
もう! と祭星がぷくっと頬を膨らませた。
可愛いなぁもう。 と蓮がにっこり笑った。 別に寝ていたとかそういうのはどうでもいいのだ。
「で、一週間寝てたんだが気分はどうだ?」
「しばらく寝れないんじゃないかなって思うくらいだよ。 身体中痛いし……」
祭星がココアの蓋をあける。 蓮はしばらくその様子を見て、不意にあることに気づいた。
祭星がいつもつけているイヤリングがなかったのだ。 寝ていた時に外れたのだろうか? それならば起きてすぐにつけそうな気もするがと思い、声をかける。
「祭星、お前イヤリングは」
「……えっ?!」
慌てた様子で耳を抑える祭星。 どうやら知らなかったらしい。
「あ、あ〜、アナスタシアから引きずられた時に落とした……のかな。 ど、どうしよ、また取りに行けるかな」
「あの広い場所で小さなイヤリングを探すのは無理じゃないか?」
蓮の的確な言葉。 祭星は肩を落とした。 藍沢に本当に申し訳ないと、心からそう思う。
ちゃんと謝って、わかってもらおう。 許してもらえるのかはわからないけれど……。
それから二人は何気ない会話をした。 祭星が眠っている間、レイが毎日様子を見にきていたことと、ジョシュアがちゃんとヴァチカンの歴史について学ぶようになったこと。 昨日の晩御飯がハンバーグだったことや、明日の晩御飯はビーフシチューだということ。
祭星はその全てを聞いて、いつも通りの会話に安心した。 あの時廊下で思った気持ちは、今やっと晴れた。
そう思うと、涙がポロリと何度も溢れる。 泣き出してしまった祭星を胸に抱いて、蓮が静かに寄り添った。
声を上げて泣く祭星は、やがて泣き疲れたようにウトウトとしだした。
「しばらく寝れないんじゃなかったのか?」
蓮がからかうように笑って、彼女を抱えてベッドへうつる。 一緒に横になると、祭星は彼の胸元でスヤスヤと眠りについた。
すると、彼のスマホに通知が入る。 チラリと確認すると、ジョシュアからだった。 任務から帰ってきたのだろう。
『透視で見てるからな〜、変な真似すんなよ??』
そんなメールを見て、蓮は笑いをこらえる。
「誰がするかよ」
自分の腕の中で眠るこの少女に、今は何もやましい気持ちなどない。
ただ今は、ゆっくり眠ってほしい。 そう思ったのだ。
イギリス郊外の静かな田舎町。 そこにひっそりとある墓地で、クラウンは静かに佇んでいた。
目の前には、苔のついた暮石。 長年手入れすらされていないのが見てわかった。
それもそうだろう。 もう十年ほど、誰もここを訪れなかった。
「アーニャ」
妹の名を呼ぶ。 長い間、自分の身体をいいように使ってきた妹の名を。
アナスタシアが好きだった、スズランの花を供える。
スズランの花言葉は「再び幸せが訪れる」というものだと、アナスタシアが昔教えてくれた。
思えば、妹が狂い始めたのはいつ頃だったのだろう。 大雑把で、サバサバしていて、豪快で。 それでいて凛々しい彼女はいつだって笑っていた。 悩みさえないように見えて、彼女を慕うものは多かった。
「死」という概念にとらわれ、苛まれ、自分を失ってしまったのは、本当に死ぬ前だ。
悩みさえないように見える彼女は、本当はたくさんの悩みを抱えていたのではないか。 そう思って、仕方がない。
今更、もう遅いというのに。
「ずっと、言いたかったことがあるんだ。 お前が死ぬ時に言えなかった言葉なんだ」
クラウンが暮石に触れる。
「今までよく、頑張ったね」
一陣の風が吹く。 風に吹かれてクラウンの長い髪が揺れる。
「きっとお前のことだから、何を今更と憎まれ口を叩くだろう。 だけど、これだけはどうしても、言っておきたかったんだ」
クラウンが立ち上がる。 そして踵を返して歩き出した。
きっとアナスタシアの作ったあの少女は、これから沢山の辛い思いをするだろう。 それこそ、死んだほうがいいと思うくらい辛いことだ。 あの子は死ぬことより生きることの方が、難しい。
アナスタシアを討った。 アルトストーリアを一時的にでも扱えた。
きっとそれはこれからの彼女を取り巻く環境を恐ろしいほどに変えてしまう。 人間だけじゃない、魔界、天界からもなんらかの動きがあるはずだ。
産まれた子供ではなくとも、あの子は自分の子供なのだ。
クラウンがしっかりと前を向く。 その目は誰もがよく知る、本物の聖騎士の瞳。
その佇まい、そして動作。 落ち着いた気品ある姿から、クラウンはこう呼ばれている。
──静謐の聖騎士、と。




