3―16 聖者の源流Ⅰ
自分の意志とは関係なく生き方を決められてしまうことがあるのだと思う。
宿命とか、運命とか。
そういう言葉で、自分の中に押し込んでいくしかないことがある。
父と出会ったときは、たぶんその最初だった。
大聖堂の前で、私は足を止める。
大英雄レイモンドを模した銀の像。
像そのものは、正直どうでもいい。
そもそも大英雄とは似ても似つかない。
でも、この場所だけは違う。
ここから始まった。
正確には、ここで終わって、また始まった。
必ず戻ると言った父。
どれくらい前のことだったか、もう数えられない。
「そういえば、ボクと出会う前はどうしていたか、キミの口からはあまり聞いたことはなかったね」
槍を振り上げた勇ましい像の影から、少女が顔を覗かせていた。
「大首教様……」
「いい機会だから、話してくれない?」
私は一度、像から目を逸らした。
ただ、胸の奥が痛む。
思い出すだけで、あの時の空虚な感情が戻ってくる。
「……人を見るのが、好きでした」
あの日も私は人を見ていた。
市場が好きだった。
雑多な人混みも好きだし、奇術師の芸を固唾を飲んで見守る静かな集まりも好きだった。
その日も、私は朝から市を眺めていた。
母は食べ物を探しに行っていて、私のそばにはいなかった。
「いい加減にしなさいッ!」
怒鳴る声がした。
母親らしき女の人に叱られているのは、ちょうど同じ年頃の女の子だった。
足元には包みに入った食べかけの菓子が落ちている。
菓子なんて、私はいつ食べたか思い出せない。
でも、あの子は泣きそうな顔で、それを見つめていた。
女の子は諦め切れないのか、その場に蹲った。
母親がその手を引っ張る。
「落ちちゃったんだから、もう食べられないでしょう。お母さんのいうことを聞きなさい」
――もう要らないのかな。
どうするんだろう。
女の子は未練がましく落ちた菓子を眺めていたけれど、やがて立ち上がって、手を引かれていった。
食べかけの菓子だけが、その場に残された。
誰かに取られる前に、と私は走った。
拾い上げ、口に入れた。
その瞬間、私は固まった。
あの女の子が振り返って、こちらを見ていたのだ。
泣き出すと思った。
怒鳴られると思った。
お菓子を勝手に食べたことを詰られるに違いない、と。
罪悪感で舌も回らないうちに、女の子は母親と言葉を交わした。
何を言っていたのか全部は覚えていない。
でも、頭にこびりついた言葉がある。
『可哀想な子』
確かに、そう言った。
怒るはずだった女の子はうんと頷いて、私に微笑んで見せた。
憐憫にまみれた、曖昧な笑顔だった。
あれは人間に向ける類のものじゃない、と幼い私でもすぐに分かった。
その日のうちに、私は母に尋ねた。
落ちたものを食べるのはいけないことなのか、と。
母は泣きそうな顔で私を抱きしめて、「ごめんなさい」と言った。
抱きしめられると、浮いた骨が痛かった。
なぜ気付けなかったのか。
ここ数日、母が食べ物を口にしているところを私は見ていない。
自分のことばかりで、痩せていく母の身体にまで気が回らなかったのだ。
母が痩せていくことに気づいた日から、私は母の手をよく見るようになった。
指が細く筋張り、爪の縁が割れている。
つないでいる手の力も弱い。
それでも母は笑って、「大丈夫」と言った。
その「大丈夫」は、いつも私に向けた嘘だった。
その日も、市の帰りだった。
母は何か包みを抱えていた。
中身は見せてくれない。
私は中身が何なのか知りたかったけど、少しだけ上機嫌な母を見ていると、訊かないほうが良い気がした。
夕方の光が斜めに伸びて、石畳の凹凸が長い影を作っていた。
人混みを抜けて、細い通りへ入る。
さっきまで聞こえていた呼び声が遠くなって、代わりに、自分たちの足音だけが残った。
その時、母の私の手を握る力が強くなった。
「……レティ」
名前の呼び方が違った。
いつもはもう少し柔らかいのに、その声は硬く鋭い。
喉の奥で削れたみたいに。
母が立ち止まって、通りの向こうを見た。
私はそれにつられて前を見る。
そこに人がいた。
どこにでもいるような男だった。
なのに、どこかがおかしい。
顔が笑っていない。
いや、口元は笑っているのに、目が笑っていない。
人として、すべてが歪であることは幼い私でも理解できた。
母は、私を背中に隠した。
「逃げなさい、レティ。走るの」
母の声は震えていた。
私は頷くしかなかった。
母が一歩、前に出る。
その瞬間、相手の首が滑るように傾いた。
動きが、人間のそれじゃない。
次の瞬間、母が倒れた。
何が起きたのか分からない。
転んだのかと思った。
つまずいたのかと思った。
でも、母の胸元から赤いものが広がっていくのが見えた。
母は私を見た。
瞳からは光が消えつつあった。
微かに唇が動いていたが、音にはならなかった。
「……レ、ティ」
それだけは聞き取ることができた。
私は叫ぼうとして、声が出なかった。
相手が、今度は私の方を向いた。
さっきと同じ、薄気味の悪い笑顔。
でも、足が動かない。
頭だけが必死に「逃げろ」と叫んでいるのに、身体が言うことを聞かない。
相手が近づく。
母が、私に向かって手を伸ばそうとした。
血で濡れた指。
「……に、げ」
今度は、はっきり聞こえた。
私は一歩だけ後ろへ下がった。
その一歩が、私にとっての精一杯だった。
その時、横から影が割り込んだ。
誰かの肩がぶつかって、私は石畳に尻餅をついた。
すぐ目の前に、黒い影が立っている。
黒い髪の男だった。
一瞬だけ見えた瞳が、紅く揺れた気がした。
黒い髪の男は、迷いなく相手へ踏み込んだ。
剣のようなものを振るっている。
でも、私にはよく分からない。
速すぎて、ただ空気を切り裂く音だけがした。
相手が呻き声をあげた。
喉の奥から出た獣の声。
よろめきながら背を向けた相手を、男は追いすがるように、もう一度斬った。
母を襲ったモノはもう動かなかった。
男は倒れ伏したそれを見下ろしている。
肩は激しく上下していて、呼吸は苦しげだった。
一方的な戦いではあったが、男はとても消耗しているように見えた。
男が私を見る。
目が合った瞬間、私は息を飲んだ。
怖い。
怖いはずなのに、目が逸らせない。
男は私に近づいた。
躊躇いながら手を伸ばして、途中で止めた。
代わりに、母の方へ向かった。
母のそばに膝をつき、何か言おうとしたんだと思う。
口は動いていたけど、何を言っているかまでは分からなかった。
母はもう、息をしていなかった。
死んでいるのだと、分かってしまった。
男が膝をついた。
「馬鹿野郎……。これだけ殺して、まだ殺したりねぇのかぁ……! 馬鹿野郎……馬鹿野郎……!」
拳を血で染めて、狂ったように地面を殴り続ける男がいた。
その男が、ひどく可哀想に見えた。
私の手は自然と男の背を撫でていた。
慰めるみたいに。
本当に救いが必要なのは、母を殺された自分じゃなく、この男の方だと思えるほどに哀れだった。
自分より哀れな存在に、私は初めて出会った。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて男の震えが収まった。
男は着ていた衣服を破り、血に塗れていた母の顔を拭い、目を閉じさせた。
苦悶に歪んでいた顔が、安らかになったような気がした。
衣服は汚れていて綺麗とはいえない。
それでも、その気遣いが嬉しかった。
男は穴を掘った。
指先が破れて血で濡れていくのに、無言で、脇目もふらずに掘り続けた。
私も手伝った。
母は死んだのだと、改めて思い知らされた。
涙は出なかった。
代わりに男が泣いていたからかもしれない。
「ついてくるか?」
唐突な男の声は掠れていた。
長時間の作業で、疲労が色濃く滲んでいる。
私は黙って頷いた。
男が真っ当な人間じゃないことはすぐに分かった。
人目を避けるように、主に夜間に行動したし、何度か、見知らぬ変な技を使う人間に襲われた。
その人間もやはり、不自然としか思えない表情をしていた。
でも、気にならなかった。
戦いの知識も経験もない私から見ても、男は強い。
血なまぐさいはずの殺し合いが、どこか見せ物じみて見えるほどだ。
それに、男が異常であればあるほど、私にとっては都合が良かった。
男の異常さに比べれば、私なんて『普通の』女の子なのだから。
「──大丈夫?」
「あぁ」
いつしか、男の手傷を手当てするのが私の仕事になっていた。
このところ男は傷を負うことが増えた。
以前なら傷ひとつなく相手を殲滅していたはずだ。
そして私は気づいてしまった。
襲ってくる連中が、私を狙い始めたことに。
男は何も言わない。
でも私を庇いながら戦って、負傷しているのは明らかだった。
──強くなりたい。
そう思うのに、時間はかからなかった。
その頃には、男のことを家族のように思っていたから、負担になりたくないというのは、当たり前の考えだった。
しばらくすると、男は住居を定めたようだった。
そこが目的地だったのかもしれない。
人里離れた掘っ立て小屋のようなものだったが、雨風をしのげれば私にとっては上等な家だった。
夜に行動することもなくなり、人間らしい生活をするようになったと思う。
戦い方の基礎を教えてもらうことになった。
ただ、教えると言えるのかは分からない。
槍を模した荒削りの木の棒を握って、男に一撃を入れる。
それだけの課題だが、振るう棒はかすりもせず、怪我をするのはいつも私だけだった。
私は同じ剣が良かったけど、男は槍にしろと言い張った。
「……痛い」
「そりゃそうだろ。当たり前のことをいちいち報告しなくてもいい」
男は煩わしそうに言った。
痛めつけたのはそっちなのに、その言い方はどうなんだ、と私は思う。
でも勝手についていったのは自分だし、鍛えてくれと頼んだのも自分だ。
不満は飲み込むことにした。
「……ねぇ」
ふと気づいた。
私たちは互いの名前も知らない。
二人しかいないから「ねぇ」と「おい」で事足りていた。
「なんだ。じっとしてろ」
不意に、手に自分とは別の温度を感じた。
いつの間にか男がそばに来て、私の腕に変な匂いのする薬を塗り込んでいる。
乱暴な言葉とは裏腹に、手付きは優しかった。
「名前は?」
「なんだ今さら。人に名前を尋ねるときはまず自分から、だろ」
「私は……ええっと……」
今になって名乗ることに、妙な恥ずかしさがあった。
「……レティシア」
ようやく、そして最後に口にしたのはいつかも忘れた自分の名を告げた時には、男は横になっていた。
「もう寝ろ」
私は頬を膨らませながら、その隣で丸くなる。
しばらくして、耐えきれずに小さく呟いた。
「なんて呼べばいいか分からないよ……」
「師匠と呼べ」
ほんの少し呟いただけだったのに、聞き拾われたらしい。
その言葉は、私にとって“いてもいい場所”の名前みたいに聞こえた。
「おやすみなさい。……師匠」
今度は返事がなかった。
でも、その沈黙は拒絶じゃないと、私は思った。




