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3-15 策動

 王都の市場の喧噪は、昼の光を腹いっぱいに吸って膨らんでいた。

 果実の甘い匂い、焼いた油の匂い、香草の青い匂い。

 呼び声と値切りの声が泡のように跳ね、石畳の上を転がっていく。


 レヒツ・アルムは、その中を身をかがめ、顔を隠すようにして歩いていた。

 アイン・スソーラで珍しくもない、鳶色のローブ。


 ――近く第二王女が、公務でここを通る。

 集めた情報はどこか不自然に揃っていた。

 酒場、荷運びの列、路地の立ち話。

 風向きがきれいに同じなのが気になる。

 先日の襲撃から間もないのに、城から出歩くだろうか。

 だが、オリア・ローゼンベルクが囮のような扱いをされていたのも事実だ。


 ベイデ・ベインは死んだ。

 レヒツ・アルムはまだ生きている。

 残ったのは、いまだ果たせていない任務だけ。

 任務を遂行できない〈竜狩り〉に価値などない。


個人的な感情は、もう関係ない。

最初からこうすべきだった。

王女が自分を誘き寄せる餌だったとしても、食らいついた餌だけは必ず殺す。


 レヒツは市場の奥――人だかりが途切れる角へ視線を滑らせた。


王女が現れるなら、あそこだ。

見通しは悪くない。

逃げ道も多い。

――仕留めやすい。


 その時。

 頬の横で、空気が裂けた。

 熱が遅れて走り、レヒツは反射的に頬を押さえる。

 頬に当てた手に、血に濡れた感触が伝わってくる。

 音も気配もなかった。

 ただ、嫌な確信だけがある。


 レヒツは人波に紛れながら、視線だけを走らせた。

 すぐに分かった。

 黒いローブを纏っている。

 顔は外套の影に沈み、輪郭だけが人混みの中にあってもなお、不気味に浮かび上がっていた。


「罠か」


 情報は漏れ聞こえたのではなく、やはり意図的に流されたものだ。


あいつとは一度戦っている。

勝ち目はない。


 レヒツは逃亡を即断した。


黒いローブの魔術師は、距離を詰めてこようとはしない。

様子を窺うように、こちらを観察しているように見える。 


――どうやら、ここでやりあうつもりはないらしい。


周囲に近衛の魔術師がいる気配もない。


 レヒツは人波に身を沈めながら、角を曲がる。

 市場の騒ぎの中でも、レヒツの耳にはよく通る歪んだ声が背後から追いかけてくる。


「ベイデ・ベインを殺したのは、わたしだ」


 血が沸いた。

 レヒツの足が止まりかける。


「……貴様ッ」


 振り向きざま、左腕が唸る。

 屋台の柱を掴んで引き抜き、ぶち抜くように投げた。

 果物が弾け、怒号が上がり、人の流れが崩れる。

 投げつけた木片は、レヒツの手を離れて間もなく、細切れになった。


 レヒツと黒いローブの魔術師の間に、人がいなくなった。

 黒いローブの魔術師の手が鋭く翻る。

 放たれた刃が地に跡を残しながらレヒツへ迫った。

 レヒツは回避を余儀なくされる。

 断続的に放たれる不可視の刃を踊るように躱しながら、レヒツは人気のない通りへと追い込まれていく。

 分かりやすい魔術の始動、不可視である優位を捨て、刃をあえて地に這わせる。


 意図するところは誘導――。


 路地へ飛び込む。

 狭い。

 石壁が迫り、足元は濡れた石畳。

 角を二つ折れたところで、レヒツは舌打ちした。


――行き止まりだ。


 左右は固く閉じた裏口と高い塀。

 叩き割る時間はない。

 視線を上げる。

 壁面に、古い排水管と、補修用の足場板が渡されている。


「……上か」


 レヒツは左腕で排水管の根元を掴み、金具ごと引き剥がした。

 きしむ音。

 金属が異音とともに歪み、管がたわむ。

 それでも、足を掛けるだけの隙間は生まれた。


 乗った瞬間、冷たく無機質なものが指にまとわりついた。

 見えない糸。

 蜘蛛の巣のように、腕に、胸に、腰に。


「……ッ!」


 左腕に力を込めた。

 だが、拘束は緩まない。

 むしろ、動けば動くほど締め付けが強くなっていく。

 路地の入口に、黒いローブの魔術師が現れた。


「お前は逃げ帰るべきだった」


 こちらへ歩いてくる足取りに、焦りはない。

 魔術師の指先が、わずかに動く。


 糸が首にも回ったのが分かった。


「ベイデ・ベインもそうやって死んだ」 


「貴様……」


「その辺から拾い上げただけの魔術で、無様に情けなく、あっけなく殺された。このわたしに」


「貴様、貴様、貴様ぁッ」


 レヒツが左腕に宿るモノをさらに解放させる。

 殺意が理性を塗りつぶす。


 その時、路地の入口で、杖先が石を叩く乾いた音がひとつ響いた。

 次いで、同じ間合いでもう一つ。


「どうも、言葉が足りなかったようですね」


 大きな杖を手にした女が路地に入ってくる。

 整った身なり。

 顔は白粉で塗りつぶされ、表情は定かではないが、声には咎めるような響きがあった。


「来たのか」 


「アシミ、私は〈竜狩り〉を生きたまま捕縛してほしいとお願いしたのです」


「生きてはいるだろう?」


「人のままで捕らえてほしいですね。あまり力を解放しすぎると、使い物にならなくなります」


 マリアンネは足を止めて、もがくレヒツを見下ろした。


「命が惜しいですか、レヒツ・アルム」


 レヒツは薄く笑った。

 喉元の締め付けに、笑い声は出ない。


「そんなものは……とっくに捧げたとも」


「では、ここで殺されても構わないと?」


「そこの魔術師を退かせてくれたら、反撃のひとつでもするのだがね」


 マリアンネは頷く。


「いいでしょう」


 促され、黒いローブの魔術師は不満そうに拘束を緩めた。

 首の締め付けが消え、レヒツは石畳へ落ちるように足をついた。

 手首をさすりながら立ち上がったレヒツの至近に、マリアンネが立つ。

 互いの吐息がかかるほど。


 黒いローブの魔術師は、身じろぎひとつしない。

 だが、殺意だけが濃い。


「何を――」


「私は、貴方を殺しはしない。向こうにお返ししても構いません。しかし、貴方は困ったことになりますね?」


 レヒツは黙った。


「獲物を狩りそこねた〈竜狩り〉に価値などありません。今頃は、次なるレヒツ・アルムが貴方を待っていることでしょう。これからどうするのです? 分かりますよ、貴方は死地の上でしか生きられないし、まだ目的を果たしてはいない」


「何をさせたいんだ」


「貴方が敗れた者を監視してほしいのです」


「……あの男はもうここにはいないだろう」


 マリアンネは、ほう、と息を吐いた。


「よく知っていますね。ですが、私はこれからのお話をしているのです。そして私の指示があれば、殺してください。貴方もそうしたいのではありませんか?」


 背後の気配が、さらに鋭さを増す。

 冷たい刃が、首筋に触れた。

 マリアンネは、そこで初めてレヒツの背後へ視線を投げた。


「アシミ。どうか理解して下さい。そういう可能性もある、ということです」


「……わたしは、こいつは必要ないと思う」


「私には必要です」


 マリアンネは微笑む。


「さて、お話は以上です。返答はなるべく早いほうがよいかと思います」


 レヒツの喉元に、再び冷たさが触れる。


「さっき、殺さないと聞いた気がするのだが」 


「“私は”殺さないと言ったのですよ。その者は貴方を殺したくて仕方がないようですが、それを止めなかったとしても、私が殺したことにはならない」


「……邪竜め」


「何か、言いましたか」


 選択の余地はない。


「御心のままに」


 レヒツはゆっくりと膝を床へとつけ頭を落とした。


「期待していますよ、レヒツ・アルム」


 マリアンネは、声だけを柔らかくした。

 背後の黒いローブ――アシミは、まだ動かない。

 ただ、その殺意だけが路地の空気を冷やしていた。






 オイケイン平野の赤褐色の砂礫を越えて、その報は王城へ滑り込んだ。

 報告が王城にもたらされたのは、路地の冷気がまだ街の空気に残る頃だった。

 報告役は、声を落としていた。


「……シノ・グウェンの行方は不明。同行したウォールズ准将も同様です。ウォールズ准将については、数日前にアルバスに滞在していたようです」


 ユリアーネは机上の報告書を見ていなかった。


「つまり、シノとメルヴィは」


「……戻られる見込みはございません」


 言い終える前に、ユリアーネは立ち上がっていた。

 椅子の脚が石床を擦る音が、やけに乾いて響く。


「分かった」


 それだけ言うと、扉へ向かう。

 彼女は振り返らない。


「準備をしろ。貸したモノを返さない子供には躾が必要だ」


 報告に来た近衛の魔術師はただ頭を下げて了解の意を示した。





 そこは普段、人が行き来しない通路だった。

 壁の松明は間引かれ、空気がひんやりと澱んでいる。

 扉の蝶番には幾重にも補強が入り、縁には古い封の痕が残っていた。

 扉の向こうから、人の気配が漏れていた。

 その扉の前に、コーマックが立っている。

 構えた二帖の盾が、彼の輪郭をひと回り大きく見せる。


「退け、ウォールズ」


 真紅のローブを纏った、近衛の魔術師たちが扉を取り囲んでいた。


「殿下の行いは、王国の意思ではない。お諌めするのが、お前の役目ではないのか」


「主がここを守れと言うのなら、殿下の御楯としての役目を果たすのみ」


「王城にある魔術師とは、国に仕える者。所詮は卑賤なる家の出であったかッ」


 魔術が走った。

 炎の塊が、真っ直ぐ胸へ。

 構えられた二帖の盾が、わずかに傾く。

 放たれた火球は盾に防がれ、焦げ跡ひとつつけることはできない。

 だが、熱だけが行き場を失った。

 盾の縁から灼けた魔力が噴き返り、壁の石肌を黒く舐める。

 空気が歪み、煤の匂いが通路に満ちた。


 続いて風刃が走る。

 束ねた大気の刃が、正確にコーマックの首筋を狙う。

 しかし、刃は届かない。

 容易く盾の前で押し潰される。

 押し潰された風が、遅れて壁へ叩きつけられた。

 乾いた衝撃が通路を走り、石粉が跳ねた。

 煤が舞い、雪のように降りかかる。


「魔剣を我らに向けるかッ」


 誰かが吐き捨てるように言った。


「誰も通さない。それ故の〈城塞〉だ」


「戻ってみれば、随分と騒がしいですね」


 近衛の魔術師たちの後ろから、通路の奥で、硬いもので床を打つ乾いた音が響いた。


「マリアンネ様……」


 白粉で表情を隠し、整った身なりで、杖を携えている。


 彼女の視線は、まず扉へ。

 次にコーマックへ。

 コーマックは深々と頭を下げた。

 最後に、王城魔術師たちへ。


「道をあけなさい、コーマック・ウォールズ。これは命令です」


「何人たりとも、ここを通さないようにと命令を受けております。例えマリアンネ様であろうとも、お通しするわけにはいきません」


「そうですか」


 マリアンネが手にした杖で、地面を小突く。

 ――地鳴り。

 ごく小さな揺れだったが、近衛たちは顔色を失った。


「〈城塞〉とはいっても、足元が崩れれば守りも意味をなさない。違いますか?」


「……お願いですッ」

「おやめください、ここでそれは――」


 王城の魔術師達の方が膝をつき、懇願を繰り返した。

 マリアンネは、その懇願を見下ろしたまま、杖をわずかに持ち上げた。

 それだけで、通路の石が軋む。

 コーマックは些かも動じない。


「お試しになられますか」


 マリアンネの視線が、コーマックへ戻る。


「スクロールを手にしたところで、転移に必要な力はどうするのです。まさかリアン一人で行くわけではないでしょう? リアンは優れた魔術師ではありますが、全員を転移させるほどの力はありません。もし、たどり着けたとしても、〈教国〉があれほど欲しがっていた彼を大人しく返すとも思えません」


「マリアンネ様の方がよくご存知かと思いますが、我が主はそのような無謀な方ではありません」


 マリアンネは少し考え込む素振りを見せ、コーマックの背後――扉へ視線を移した。

 扉の向こうからは、もう人の気配は感じられない。


「アシミもいるのですね」


 その言葉だけが、通路に落ちた。

 マリアンネの声は先ほどより低く、硬い。


「その名は存じ上げませんが、以前より、マリアンネ様のお側に控えておられる方も同行しておりました」


 マリアンネはほんの一瞬だけ目を細める。

 杖先が床に触れたまま、一拍だけ止まった。


「……そうですか」


 杖を握り直し、コーマックに背を向け、


「下がりなさい」 


 その命令は、コーマックではなく近衛たちへ向けられていた。


「はっ、しっ、しかし殿下は――」


「リアンは既に転移してしまっているでしょう」


 杖先が、短く床を打った。

 近衛たちが慌ただしく動き、マリアンネの後を追う。

 通路に残ったのは、煤の匂いと、割れた石の破片だけだった。

 コーマックは扉の前から動かない。

 だが、視線だけが一度、遠ざかる背中を追った。


「どうなっている」


 去っていくマリアンネと、その後ろを慌ただしく追いかける近衛の魔術師達を見送りながら、コーマックは疑念を抱いた。


得体のしれないあの魔術師――アシミは、マリアンネの考えを変えさせるほどの影響力を持っていることになる。

そうだとしても、思慮深く慎重なマリアンネが軽はずみに考えを変えるだろうか。

あの引き際は、迷って変えたものではない。

最初から、そうするつもりだったように見える。


 残るのは、この先で何が起きても、それが偶然ではないかもしれない、という感覚だけだ。

 全ては目論見通りだったのかと、コーマックは思った。

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