3-14 甘い罰Ⅳ
大聖堂、首教の執務室。
扉の内側は冷えた静けさに満ちていた。
窓の外はもう闇に沈み、廊下の足音も遠い。
書類の山も、燭台の火も、今はどれも余計に見える。
レニ・バラムは、机の前で膝が笑うのを必死に抑えていた。
喉が乾く。
唾を飲みこむ音すら、相手の耳に届いてしまいそうだった。
レティシアは、机に手を置いたまま立っている。
机の上に乗っている紙面ではなく、レニを見下ろしていた。
「バラム、報告しなさい」
「は……はいッ。仰られた通り、街を散策中に敵意を感知したと、グウェン殿が──」
言葉が途切れる。
思い出すだけで、恐怖が腹の底を突き抜けてくる。
触れられた瞬間、呼吸の仕方すら分からなくなった。
「私は……気を失いました。グウェン殿に、触れられて……」
言った瞬間、空気が一段と重くなった。
レティシアの目が細くなる。
見たことがないほどの怒りが滲む。
「目を離さないようにと、彼を守るようにと言いました。覚えていますか?」
「承知しております! 全て私の力不足です……!」
言葉にした途端、胸の奥が崩れた。
膝を折りそうになる。
その時だった。
扉が、控えめに二度叩かれた。
返事を待たず、重い扉が無遠慮に押し開けられる。
夜更けの執務室に入るには、あまりに場違いな音だった。
レティシアが反射的にそちらへ視線を向ける。
開いた扉から、男が顔を覗かせた。
乱れた黒髪。
隻腕の袖が肩口でたわみ、片方の手だけで扉の縁を支えている。
「……起きましたか。お身体は──」
言いかけて、レティシアは言葉を飲んだ。
“無事か”と問う資格が、自分にあるのか分からなくなる。
シノは、まっすぐレニを見た。
「責めてやるな」
短い一言だった。
「彼は護衛です。責務を果たせなかった以上──」
「果たそうとした」
シノは遮った。
淡々と事実だけを並べる。
「戻れと言っても聞かなかった。そいつはしっかり責務を果たそうとしたさ」
シノは視線をレティシアへと移す。
「そいつがついてくると都合が悪かった。だから用が済むまでの間、おとなしくしててもらっただけだ」
「……あなたが、そうした理由は?」
レティシアの声が硬い。
問い詰める形を取っているくせに、答えを聞くのが怖い。
そんな揺れが滲んでいた。
シノは少しだけ首を傾ける。
「用があるのは、俺だけだったみたいだからな。それに──」
言いかけて、シノが言い淀んだ。
「何ですか」
「それに、そいつが死んでるより、生きてる方がいいだろ?」
「……そうですね」
一拍。
レティシアの指先が、机の縁を強く押す。
怒りではない。
失ってしまっていたかもしれない恐怖が、別の形で暴れそうになる。
「危険があると分かった以上、護衛には〈詠隊〉から選りすぐりの者を選びます」
レティシアの言葉に神妙にしていながらも、内心でレニは胸を撫でおろしていた。
この任は、自分には荷が重すぎる。
「必要ねぇ」
──え?
「ですが──」
「誰だろうと、結果は変わらなかった。そいつでも、別の誰かでも」
──この男、最高戦力たる〈詠隊〉の聖堂騎士と、見習いに過ぎない自分とを同列に語っている……!
おそらくは自分を庇ってのこと。
しかし、その言葉は最悪と言わざるを得ない。
レニはレティシアの顔色をうかがった。
「それはそうかもしれませんが……」
レニが何より驚いたのは、この放言に対して大聖堂の長が、否定するどころか肯定的な言葉を返したことだ。
「だから、護衛はそのままでいい」
レティシアは言葉を探したが、結局それを飲み込んだ。
「……バラム」
「は、はいッ!」
「聞いての通りです。あなたの任は終わりではありません。今後も彼の近くにいなさい。ただし――」
レティシアの言葉が一瞬、詰まった。
外へ出したくない。
手の届くところに閉じ込めておきたい。
けれど、それではあの寄生虫どもと同じだ。
「当面、外出は認めません。この大聖堂においての最大戦力ですら、あなたを押し留めるには足りないのですから」
シノはただ頷く。
「りょーかいした」
レティシアの胸に、ちくりとした痛みが残る。
彼は従う。
受け入れるでもなく、反発するでもなく。
ただそうすることを求められたから、反射的に頷いているだけだ。
──違う。
欲しいのは服従ではないはずだった。
しかし、外へ出せば、また奪われるかもしれない。
ここに留めれば、奪う側になってしまう。
どちらを選んでも、彼は失うことになる。
机の上の書類に視線を落としても、文字はひとつも頭に入ってこない。
昨日、対峙した紅い炎とあの目だけが、鮮明に焼き付いていた。
あの炎は、一体何を燃やしているのだろう。
──当面、です。
自分に言い聞かせるように、レティシアは同じ言葉を心の中で繰り返した。
永久ではない。
──そうでなければ、私は彼らと同じになる。
燭台の火が、ふっ、と揺れた。
──翌日・午前。
〈教国〉西側の城壁近く。
石畳の道を行き交う人々の視線は、城壁の一角──黒く焦げた痕の残る塞ぎ跡へ、今日も吸い寄せられていた。
「……相変わらず、目立ちますね」
外套を深くかぶった女が、人混みから少し離れて呟く。
腰の短剣を布越しに押さえ、息を吐いた。
穴の周りには足場が組まれ、石材が積まれ、修繕の手が入っている。
だが、昨日に比べれば人数が大幅に減っている。
必要最低限の人数だけが動いていた。
メルヴィナは腰の短剣の柄を、軽く押さえる。
熱はない。
けれど、胸の奥が落ち着かない。
『風』を、薄く滑らせた。
周囲の会話を耳元へ運ぶ、大気の流れを作る。
「──穴は後でいいとよ。先にこっちだ」
拾い上げた言葉の出どころは、少し先を歩く二人の男だった。
二人とも傷だらけの、古びた木の道具箱を提げている。
「できるだけ早くあっちの穴を塞げって言ってただろうがよ」
「話を聞いてなかったのか? 指示が変わったんだよ。こっちを先に片付けろってよ」
「誰も通らねぇ路地だろ。何でそんな所を……」
「知らんよ。首教様直々の指示らしいぜ。聖堂騎士の方々も出張ってるって話だ」
「分っかんねぇなぁ」
「まぁ、あのお方のお考えなんか、俺たちにゃあ分かるめぇよ。さっさと言われたことを、言われた通りにやりゃいいんだよ」
「違いねぇ」
メルヴィナは風をほどいた。
穴の修繕は後回しに。
その裏で、誰も気に留めないような場所に、異様な熱量が注がれている。
外套を深く被り直し、ぼやいていた男二人の後を追う。
やがて二人は無駄口をやめ、路地の入口に立つ聖堂騎士に頭を下げ、路地裏へと入っていった。
中には既に何人かの職人がいるようだった。
警戒は厳重そのものだ。
「……気になりますね」
要路ではない。
建物の影が濃いだけの細道だ。
場所の価値に見合わない。
ならば、そこには相応の理由があるはずだ。
メルヴィナは外套の陰で指先を動かし、『風』をさらに細く滑らせた。
見張りに立つ聖堂騎士のすぐ脇を一条の風が行き来するが、気付く様子はない。
先ほどの男たち──職人の会話を拾う。
「何が起きたらこんな風になんだ?」
「砕けたんじゃねぇ。押し潰されたみてぇに、石が沈んでら」
「でかい馬車でも突っ込んだのか?」
「馬車なら轍が残る。これは違う。見ろ、石の目地が外に逃げて盛り上がってる」
「壁の方もか?」
「壁もだ。継ぎ目が、内側に押し込まれてる。まるで『ここだけ重くなった』みてぇな……変な歪み方してやがる」
「……こりゃ、修理は無理だな。造り直さねぇと。それにしても、いったい何の仕業だ?」
「知らねぇよ。ただよ、昨日の真っ昼間だ。あんな時間に、ここら一帯がどん、と鳴ったって」
「真っ昼間に?」
「すげぇ音がしてさ、子どもが泣いてたって。そんで騒ぎが収まってから様子を見に行ったら、ここがこの有様だ」
二人とは別の声が混ざる。
「その騒ぎの前だ。必死な顔で走り回ってた聖堂騎士が一人いたって、裏の家の婆さんが言ってたぞ」
「誰だよ。そんなの信じられんのか?」
「知らねぇ。見たことねぇ顔だったって。とにかく、鬼みてぇな顔の女だったらしい……」
「気味が悪ぃだろ。呼ばれて来てみりゃ、大事みてぇに騎士が張り付いて、やれ首教様の直命だの、やれ口止めだの……」
メルヴィナは目を細め、路地の奥を見た。
非常に限定的な空間において、通常では考えられないほどの力が行使された痕跡がある。
周囲の荒れようも相当なものだ。
魔術に馴染みの深いメルヴィナは、容易に結論にたどり着く。
「誰かが戦っていた……」
大きな力が振るわれた形跡が、いくつも残っている。
魔術戦があったことは間違いない。
なのに。
──魔力の残滓が感じられません。
普通なら残る。
乱戦ならなおさらだ。
それが、ない。
メルヴィナの指が、無意識に短剣の柄を握りしめた。
朱い宝石が、布越しに微かに熱を返す。
残滓を消す術はある。
だが、こんな雑多な痕跡のすべてを、同じ温度で、同じ深さで。
まして魔術行使から間もないこの場所で──。
可能性は、ひどく限られる。
ひとつは〈聖域〉。
あれほどの強い力が満ちれば、魔術の痕跡が感じられないほどには薄れるかもしれない。
もうひとつは、『魔』そのものを否定する類の何か。
もちろんそれは魔術ではなく、存在として痕跡もろとも消し去るもの。
短剣が、じり、と熱を増した。
今この街で、いや、知る限りそんなことをなし得る人間に、心当たりは一人しかいない。
そしてその男は今、首教の近くにいると思われる。
メルヴィナは、入口に立つ騎士の肩越しに、もう一度だけ奥を見た。
守っているのは“場所”ではない。
ただここで起きた“何か”を、誰にも知られないようにするためのものだ。
「あなたは、また騒ぎを起こしたんですね」
小さく、呟く。
確信に近い独り言。
「まぁ……今回は都合が良かったのですが」
彼女は踵を返し、放っていた風を引き寄せた。
求めるモノがどこにいるのか、明確な答えを得た。
白銀の尖塔の上。
そこにいる。




