3-13 甘い罰Ⅲ
パンの欠片を嚙み砕いたまま、シノはふと足を止めた。
「……来てるな」
背後で、レニが反射的に周囲を睨みつけた。
「何が、ですか」
「敵意だ」
レニの顔色が変わる。
敵意など、この街ではほとんど感じることはない。
「そんな……! ですが、首教様の——」
「まだここでは何にもしてないと思うんだけどな」
シノはそう言って、遠くを見る。
——気づけ。
来い。
そう言わんばかりに、剥き出しの敵意がこちらを指す。
「グウェン殿、お心当たりは?」
ばつが悪そうに、シノは目をそらし、前を向いた。
「……さぁ」
「それはお心当たりが多すぎて分からないということでしょうか、それとも本当に覚えがないという意味でしょうか?」
「……前者」
「今すぐ首教様の所へ戻りましょう。人通りが多い道を案内します。ついてきてください」
「お前は先に戻れ。それが最善だ」
シノは振り返らずに言った。
その声音には熱も焦りもない。
淡々と言葉を並べているだけだ。
「できませんッ!」
レニが一歩踏み出す。
使命感に火が点いた目だった。
「そうか」
「グウェン殿——」
言葉を言い終える前に、確かにあった二人の距離は一瞬でなくなり、レニの肩にぽん、と手が置かれる。
友人が何気なく触れるような、気安い接触。
次の瞬間、レニの全身がびくりと震えた。
「……ッ?」
驚く暇もなく、声が喉で詰まる。
息を吸えない。
いや、身体が呼吸する手順を忘れたみたいだ。
意識の端で、自分の内側を流れている“何か”が、ぐしゃりと掻き乱される感覚がした。
抵抗もできず、驚きの表情すら遅れてくる。
「……な、に……」
膝から崩折れた。
倒れ込む身体を、シノは優しく地面に横たえる。
「……すまん」
誰に言うでもなく呟き、シノは歩き出した。
敵意は逃げない。
誘うように、少しずつゆっくりと奥へ引いていく。
人気の薄い石段。
城壁の影。
工事跡の仮囲いが並ぶ、狭い通路。
(行くの? 分かってると思うけれど、貴方、おびき寄せられているわよ)
久しぶりに聞いた魔剣の言葉は、分かり切った忠告だった。
「せっかくお誘いいただいたからな」
(はぁ。貴方に行動の是非を問うたところで意味はなかったわね)
分かっていて、追う。
追わなければ、別の誰かが狙われる可能性は皆無ではない。
それはこの街の人間かもしれないし、倒れている護衛かもしれない。
それだけの話だが、足は止まらない。
はっきりとは分からないが、ここではもう誰も死なせられない、という結論だけが、最初から決まっているみたいに心にあった。
(それに、覚えがあるわよ、この気配)
「行けば分かる」
通路の先は袋小路だった。
空だけが四角く切り取られ、足音が逃げずに戻ってくる。
左右は背の高い石壁に挟まれ、逃げ道は今来た細い通路一本だけ。
石畳には工事の仮囲いが残り、端には資材の板と縄が無造作に積まれていた。
「あ、来た来た」
軽い声。
女が一人、つま先をぶらつかせながら、石壁の縁に腰掛けていた。
その下の石壁に、男がもたれ掛かっている。
慎重そうな男の目は、シノを注意深く追っている。
女が顎の下に指を当てた。
癖のような仕草。
「さっきからずっとさ。気づいてるのに顔色ひとつ変えないの、ムカつくんだけど」
シノは黙って相手を見る。
怒りも戸惑いもない。
「何の用だ」
「は?」
女が一瞬、間の抜けた顔をした。
シノは淡々と繰り返す。
「俺に何か用があるんじゃねぇのか? 人を待たせてるから、早くしてくれ」
ちょっと道を尋ねている、程度の気軽さ。
相手を脅威とも何とも思っていない、その証左。
女の目が吊り上がった。
「……あんた、今すぐここで殴られてもその顔のままなの?」
男が小さく息を吐く。
「ルキナ。戦うなと言われたことを忘れたのか」
「分かってるって。ちょっと“確かめる”だけ」
顎下に触れた指が、そのまま滑る。
右手をシノの方へ突き出し、ゆっくりと握り込む。
次の瞬間、空気が重くなった。
見えない圧が、面で叩きつけられる。
土埃が舞い、石畳が微かに軋む。
——掴む。
視界に入るものを、力で押さえつける。
「どう? 少しは危機感持ってくれた?」
自信満々の声。
「何の真似だ、これは」
立ち込める土埃の中から、顔をしかめたシノが、衣服についた埃を払いながら姿を現した。
ルキナの笑みが消える。
「……なにそれ」
「目的はなんだと訊いてるんだ。よく喋るくせに、答えろよ」
ルキナの顔が赤くなる。
「ふざけんな……!」
突っ立っているシノに向かって、より強く手を握りこむ。
圧が増す。
無造作に、そして確信をもってシノは足を運ぶ。
シノの後を追うように、石畳が陥没していく。
攻撃はかすりもしなかった。
ルキナの力が発動したときには既に、彼はそこにはいない。
「何なのよ……!」
腰に佩いた剣を抜く気配すら微塵もない。
——侮辱。
戦いなのだという認識すら持っていない。
ルキナの声が尖った。
「ねえ。あんた、何者なの?」
「最近よく訊かれるが、生憎と俺にもよく分からねぇ」
「……あ、そう。答える気がないってことね。じゃあ——」
ルキナが右手を突き出した、その時。
「やめろ、ルキナ」
男が、低い声で制した。
「止めないで、ホルン!」
「これ以上は命令違反だ」
「分かってる。でもムカつくの。こいつにべイデやレヒツだってやられてるのに!」
「あの怪力男と足癖の悪い女か」
「あんた……!」
「よせ、ルキナ。戦うなと言われた意味が分かった気がするのだ」
ホルンの声には、持ち合わせた慎重さだけではない、確信めいた響きがあった。
それでもルキナは、戦意をより滾らせる。
「ホルン、あんたが何て言おうが、あたしはいくから! 連れてくにしても、一発殴ってやんないと気がすまないし!」
「……これ以上、〈竜狩り〉を失うわけにはいかんか」
ホルンが渋々、顎下に指を当てた。
仕草だけで、空気が変わる。
滑らかな革の皮膜——人にあるはずのない器官が、ホルンの背に顕現していた。
肉体そのものを変成させる、その手法には覚えがあった。
「あぁ、こないだのやつらの仲間かなんかが追いかけてきたのか。そうだよな、俺、ここではまだ何にもしてねぇもんな」
「我々と一緒に来てほしい。できれば戦いたくはない」
「人気者だな、俺」
「返答は、いかに」
「難しいな。今は、ここにいることに意味がある」
初めて、シノは二人の敵を真正面から見据え、一歩前進するが、その目的は先ほどとは正反対だ。
退避ではなく、相手を狩るための準備動作。
「来る……!」
ホルンの翼の羽ばたきとともに、大気が粘る。
進めているシノの足が、泥を踏んだように遅くなる。
(前のとは種が違うみたいね)
「みたいだな」
シノが腰の剣に手を伸ばした。
力強い拍動とともに、強烈な殺意が駆け巡る。
同時に確信する。
これは、消さなければならないモノだ。
「今度こそ、握りつぶしてやるッ」
ルキナが叫び、視界で停滞しているシノを掴む。
今度は、足運びだけでは抜けきれない。
粘る空気の中で、身を投げ出すようにして辛うじて避ける。
シノの頬を、何かが掠めた。
血が滴り落ち、古ぼけた片刃の剣が、鞘走りの音を立てる。
戦場に晒された剣身に一筋、血が赤い亀裂を描いた。
それを見たホルンの眉が跳ねた。
「……撤退だ、ルキナ!」
「なんでっ! もうちょっとなんだから——」
「お前らは俺の敵だ。なら、シノ・グウェンがその意義を証す。——血刀転化」
次の瞬間、剣身に“炎”が立ち上がった。
火葬場に上がる炎に似ている。
生命を焼き尽くすための赤。
冷たく、禍々しい炎。
色を得た剣とは対照的に、シノからは色が抜け落ちていく。
髪が、 黒から白へ。
瞳が、黒から紅へ。
ルキナが力を立て続けに行使するが、シノはもはや避けることすらしない。
ただ、燃え盛る剣を振るうだけ。
それだけで、ルキナが必死で絞り出した力の発露は、最初から何もなかったかのように消し去られた。
「一体、どうなってんのッ」
戸惑うルキナを横目に、ホルンが唇を噛む。
あの剣は魔術に対する絶対的な優位性を持っている。
魔剣の特定はできないが、大気の粘性操作もおそらくは意味をなさないのだろう。
「……戦うなと仰られた理由は、これか……! 命令だ、ルキナ! 撤退するぞ。これは、我々の手に余る」
「……分かった」
ルキナは不満そうにしながらもすぐに背を向け、逃走を開始した。
ホルンは、シノの周囲の大気の粘性をさらに上げ、逃げるに足る時を作りだそうとする。
だが、ここは限定的な空間だ。
操作できる大気の総量には限界がある。
檻にするつもりで選んだ場所が、今は自分たちの足枷になってしまっている。
ルキナを追いながらついでのように振るわれた一閃が、作られたばかりの粘る大気の壁を無に帰した。
剣技とも呼べないような稚拙なひと振りは、ホルンが作り出した力の起点を正確に切り裂いていく。
「馬鹿な……!」
ホルンの背筋が凍り付く。
——見えぬはずだ。
一瞬の足止めにもならない。
シノはすでにルキナの背後にいた。
「後ろだ、ル——」
その言葉すら、遅かった。
すでに刃はルキナの間近にせまり、背に突き立てられようとしていた。
その時。
シノとルキナの間に白銀の光が、天から落ちた。
空間そのものが塗りつぶされ、石畳に幾重もの光の紋が走り、壁が、天井が、空気が、神威の輪郭を持つ。
「あの時とは逆になりましたね」
敵であるはずの二人を庇うようにして、レティシアが立っていた。
突き出された切っ先は、割り込んだレティシアの目前で止まっている。
「どけ」
シノの発する声からは温度が欠落していた。
「まったく! こうなってほしくないから、私は反対したのですッ」
憤慨しながら、レティシアは〈竜狩り〉へ視線を投げた。
憎悪を隠さないまま、ただ命令を告げる。
「——消え失せなさい、今すぐに。自分の足で」
命令が落ちた瞬間、空気が一段冷えた。
ホルンは反射で息を呑み、次にルキナの手首を掴んだ。
「……行くぞ」
「っ、でも——!」
「“右腕”を引きちぎられたいか」
ルキナの喉が鳴る。
さっきまでの虚勢が、ひび割れたまま戻らない。
白い髪。
紅い目。
温度のない炎。
それが自分たちを葬り去るための火だと理解した。
「……クソ」
吐き捨てて、ルキナが背を向けた。
ホルンは、背の翼膜を震わせる。
作るのは道だ。
逃げ道を薄く滑らかに整える。
呼応するように〈聖域〉の輪郭が、二人の進路だけを避けるように形を変えた。
「行きなさい」
ホルンが一瞬だけ振り返り、首教の瞳を見た。
そこにあったのは慈悲ではない。
切迫と、焦りと、そして——諦観。
次の瞬間、二人の背中が路地の向こうへ滑り落ちた。
シノは追おうとした。
炎を纏った剣先が、ほんのわずかに前へ出る。
しかし、見えない壁に刃が阻まれる。
押しても進まない。
〈聖域〉が、シノを閉じ込めるようにして檻を作っている。
(これはだめね。『魔』ではないから、斬れないわ)
「なんだ、お前も俺の敵か」
やはり、声から温度が欠落していた。
「いいえ、私は何があっても貴方の味方です」
レティシアが一歩踏み込む。
石畳に走る紋が増え、壁も空気も、神威の輪郭はより確かなものとなる。
〈聖域〉がさらに強度を増した。
「あいつらを排除する」
シノが剣を振り抜いた。
禍々しい炎が尾を引く。
だが、〈聖域〉に触れた炎だけが、黒く欠け落ちた。
燃えているはずの禍々しさが、そこだけ削り取られる。
シノの眉が、わずかに動いた。
初めての違和感。
通らない。
消えない。
無に帰らない。
(だから言っているでしょう。斬れないわ)
「……首教」
シノが反射のように呼び名を口にした。
けれど中身は空っぽだ。
名前ではなく、目の前の“障害”を識別しただけ。
レティシアは距離をつめ、剣を握るシノの腕に手を這わせる。
剣先は彼女の胸元へ向いている。
「——戻りなさい、シノ」
レティシアが、名を呼んだ。
紅い目が、ほんのわずかに揺れた。
揺れただけで戻らない。
シノは剣を持ち直した。
追う。
抹消する。
消す。
そうしなければならない。
目的が、まだ手を放してくれない。
「これほど、ですか……!」
レティシアは歯を食いしばり、言葉を選ぶ。
説得では届かない。
罰でも縛れない。
必要なのは力だ。
扱いきれる限りの神威でもって、レティシアは願いを口にする。
「〈私だけを見なさい〉」
〈聖域〉が応えた。
紋が一斉に脈打ち、空気が沈む。
シノの肩がびくりと跳ねた。
向こうに逃げた敵を追っていた目の焦点が、レティシアを捉えた。
「なんだ、いたのか……」
言葉には確かな温度が戻っていた。
「えぇ、もちろん。貴方から目を離すわけがないでしょう?」
シノは踏ん張ろうとしたが、身体が思うように動かない。
「信用、されてねぇんだな……」
剣先が、がくりと下がった。
炎が薄れる。
髪の色が、白から黒へ戻り始める。
紅が、深い闇へ滲む。
倒れ込む身体を、レティシアは受け止めた。
「……ッ」
レティシアは唇を噛み、シノの体重を引き寄せる。
古ぼけた片刃へ戻った剣が地面に落ちかけるのを、寸前で押さえた。
(次はもう少し、賢くやりなさい)
そのとき、背後で足音がした。
ふらつきながら駆けてくる影。
「しゅ、首教様ッ!」
レニだった。
いつの間にか意識を取り戻し、状況も分からないまま飛び込んできた。
「ご無事で——! いえ、その、グウェン殿が、こ、これは一体——」
「〈動くな〉」
レティシアの一言で、レニの身体がそこで硬直する。
レティシアはシノを抱え直す。
片腕の身体を落とさないように、胸へ引き寄せ、膝を折らせずに持ち上げた。
「今は、邪魔をしないで」
「……は、はいッ!」
返事だけが裏返る。
レティシアはシノの頬に触れた。
温かい。
生きている。
けれど、安堵より先に別の感情が胸を裂く。
——もう少し遅かったら。
想像もしたくない。
〈聖域〉の外へ、〈竜狩り〉達の気配が薄れていく。
「……レニ・バラム」
「は、はいッ!」
「命令します。できるだけ人に見られない道を案内しなさい。大聖堂へ戻ります」
「承知致しました!」
「それと——」
レティシアは一瞬だけ、唇を噛む。
「……大聖堂へ戻ったら、私が呼ぶまで誰とも話してはいけません。分かっていますね?」
「も、もちろんです! この身に代えましても!」
レニは勢いよく、拳を胸に当てた。
レティシアは一度だけ〈聖域〉を見回した。
騒ぎを聞きつけた人間たちが集まってきている気配がある。
「……お願いだから、もうどこにも行かないで」
誰にも聞き拾われぬように小さく呟いて、レティシアはシノを抱えたまま歩き出した。
レニは前を走り、人気のない路地へ誘導する。




