3−11 甘い罰Ⅰ
レティシアの私室。
大聖堂の塔上にあるその部屋の机の上には、読みかけの書類と、読み終えたはずの神学書が山になっている。
その足元で、シノ・グウェンは床に突っ伏していた。
「……死ぬ。こう見えて、俺は立派な劣等生だったんだ」
「死にません。死ぬ、などと軽々しく口にするのはやめてください」
レティシアは淡々と答える。
「これが罰なのか?」
「そう考えていただいて構いません」
「どこがだよ。飯はうまいし、寝ろって言われたら勝手に寝てるし、仕事は写本と雑用だけだし」
「充分に罰です。自由を奪うという意味では、これ以上ないものだと思いますが」
「ま、罰を受けている俺が、罰が軽すぎると言うのも変な話か……」
シノは頭の向きを変え、窓の方を見やった。
外から、子ども達の笑い声が聞こえる。
聖堂街のどこかで、朝の市が始まっているのだろう。
「なぁ、銀色鎧女」
レティシアの眉がぴくりと動いた。
「その呼び方はやめなさい」
「え?」
「私はレティシアです。銀色鎧女ではありません」
「でも、銀色の鎧を着てる」
「そういう問題ではありません。レティシア、もしくは首教と呼びなさい」
シノは少し考えるように視線を上に流し、
「……分かった、首教」
素直に言い直した。
名前は、やはり呼んでくれない。
レティシアは、胸の奥がちくりと痛むのを自覚しながらも、そこには触れなかった。
そもそも、彼が誰かの名前を呼ぶところを、自分はまだ一度も聞いたことがない。
「それで、何かお話があったのではないですか。全てとは言いませんが、ある程度は聞き入れる用意があります」
「外を見てみたい」
「だめです」
「早いな。もうちょっと考えてみてくれよ」
「昨日──」
昨夜のことを思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
レティシアは口を閉ざした。
「昨日なんだよ?」
「いえ、なんでもありません。とにかくだめです」
「まぁ、俺は大罪人だからな。信じられないのは分かるけど、考えてみてくれよ。もうすぐ殺される哀れな人間の最期の頼みだと思って。絶対に逃げたりしないから、な?」
レティシアは表情をひきつらせた。
「信じていないわけではありませんッ。それに軽々しく死ぬ、などと口にするのはやめてくださいと言ったはずです」
「俺はお前に殺されるんだろうが。よくわからんやつだな……」
憤慨するレティシアに、シノは窓から差し込む光を指で切りながらぼやいた。
「はぁ……」
今朝から何度目のため息だろう。
レニ・バラムは緊張のただ中にいた。
〈詠隊〉の、いや〈教国〉の元首たる首教より、自分のような若輩に直接の召還命令があったのだ。
心当たりは、ある。
先日の、思いがけない首教との会話。
なにか失言をしてしまったに違いない。
思い返せば、不穏な会話だったかもしれない。
首教に対し、失礼な渾名を付けた不敬の輩がいたのだ。
おかげで朝食は喉を通らなかった。
足取りも重かったが、一瞬で首教の執務室の前に到着してしまった。
「入りなさい」
まだ扉も叩いていないのに、入室の許可を告げられる。
レニが中に入ると、厳しい表情のレティシアと彼女の傍らに立つ青年、そして見慣れない少女がいた。
レティシアとは対照的に、少女は悪戯っぽく笑っている。
「この子?」
顔だけをレティシアに向けて、少女がぞんざいに問う。
レニが眉をひそめるほどの口調だったが、レティシアは咎めずに首肯した。
「えぇ、間違いありません。レニ・バラムですね?」
「はい……」
──やっぱり。
ひょっとしたら人違いなのでは、というレニの淡い期待は砕け散った。
少女と青年は一体何者なんだという疑問は吹き飛び、背筋に冷たい汗が伝った。
「バラム、あなたは女性が好きですか?」
「……は?」
レニは即答できなかった。
質問の内容よりも、その意図が全く分からなかったからだ。
──大好きです。
分かっている。
そう答えてはいけない。
「〈答えなさい 正直に〉」
「大好きですッ!」
レティシアの言葉の意味を認識した瞬間、バラムの口が開き、本心ではあるが意図していない言葉が飛び出した。
「少し確認させていただきました。間違いがあってはいけませんから」
真っ青になったレニの顔を見て、レティシアは満足気に微笑んだ。
「良い答えです。あなたに仕事を与えます。全てに優先し、遂行してください」
「し、承知致しました……!」
「彼を守って欲しいのです」
傍らに立つ青年を見るレティシアの目は優しい。
「畏れながら、首教様の神威が轟く聖都において、ここに住む民が害されるとは思えませんが……」
「えぇ、だからこそ守りが必要なのです」
「と、言いますと──」
レニが口を噤んだ。
レティシアの目は先ほどとは反対に、冷たい光を纏っている。
「謹んで拝命致します」
「詳細は追って伝えます。あなたは正式に〈詠隊〉に属してはいないと聞いています。彼のことはくれぐれも内密に」
「あの、隊の方には──」
レティシアが凍り付くような視線をレニへと向ける。
「私はくれぐれも内密に、と言ったのですよ。そちらには話を通しておきます。明日からお願いします」
レニが拳を胸に当てると、退室を許可された。
「この任を完遂したならば、〈詠隊〉への道も開けるでしょうね」
「……! ありがとうございますッ!」
レティシアの言葉に狂喜したレニは、再び拳を胸に当てると、勢いよく扉を閉めた。
「あの子、大丈夫なの?」
「……おそらくは」
芽生えた不安を押しとどめながらも、レティシアはそう言うしかなかった。
──翌日。
大聖堂の執務室には、昨日と同じ三人が揃っていた。
レティシアの机の前。
シノは椅子の背にもたれ、天井を眺めている。
部屋の隅には、巨体の青年が直立不動で控えていた。
レニ・バラムである。
「では改めて紹介します。彼がレニ・バラム。あなたの護衛です」
「そうだったな」
シノは短く答え、ちらりとだけレニへ視線を流した。
レニの方はといえば、姿勢を崩すこともできず、固くなったままシノを見ている。
「バラム」
「は、はいッ!」
レティシアの呼びかけに、背筋をさらに伸ばし、声が裏返る。
「分かっていますね?」
「もちろんです! この身に代えましても!」
「……結構です」
レティシアは手元の報告書に目を落とし、シノとレニの間に短い沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、シノのほうだった。
「なぁ、首教」
「なんでしょう」
レティシアはわずかに身構える。
昨日の会話の続きを、なんとなく予感していた。
「外、見てきてもいいか?」
やはり来たか、とレティシアは内心で嘆息した。
しかし表情には出さない。
「だめです」
「昨日と同じ答えだな」
「昨日と同じ質問をするからです」
シノは机の上に積まれた書類の山を眺め、それから窓の外へ視線を移した。
外からは、今日も人々のざわめきが微かに聞こえてくる。
「仕方ないか……」
呟きは淡々としている。
拗ねているというより、本当にそう思ったことをそのまま口にしただけのようだった。
レティシアは言葉を探し、少しだけ考え込む。
向こうではずっと牢にいたという。
外に出たがっているシノをここに閉じ込めておくということは、場所の違いこそあれど、あの寄生虫どもと同じではないか。
「……どうしてもですか?」
「ゆっくり外を見てみたい。今まではそんな機会もなかったから」
シノの声音は静かだが、そこに嘘はない。
自身から生じた望みというものをほとんど持てないはずの男が、それでも口にしたわずかな願い。
レティシアは目を伏せた。
外に出したくはない。
自分が、ささやかな願いすら叶えてくれない人間だと思われたくもない。
その二つの思いが綱引きをしている。
「護衛をつければ、安全は多少は増すでしょう」
レティシアはレニのほうへ視線を向けた。
「……外出を許可するかどうかは、護衛の判断に委ねます。彼に一任していますから」
言いながら、レティシアは半ば確信していた。
生真面目なレニ・バラムならば、当然こう言うはずだ。
『外は危険です、ここに留まってください』と。
「レニ・バラム」
「は、はい!」
「シノ・グウェンが『外を見たい』と言っています。護衛として、あなたはどう判断しますか?」
レニは一瞬、シノとレティシアを交互に見た。
短い沈黙ののち、瞳に決意の色が宿る。
レティシアは、満足そうに頷いた。
「……首教様がお許しになるのであれば」
「え?」
思わず、レティシアは聞き返してしまった。
「私の役目はグウェン殿を守ること。ならば、命を懸けてお守り致します。外であろうとどこであろうと、私は責務を果たします」
胸に拳を打ちつける仕草は、いつも以上に力がこもっていた。
レティシアのこめかみがぴくりと引きつる。
期待していた答えとは、まるで正反対だ。
「……本当に、行けると思うのですか?」
「はい! この任務、必ずや完遂してみせます!」
シノはそんなやりとりを聞きながら、期待に満ちた目でレティシアを見つめている。
レティシアは額を押さえ、それから観念したように小さく頷いた。
「……分かりました。日中、聖堂街の外れまで。人混みの中には入らないこと。必ずレニ・バラムの指示に従うこと。それが守れないのであれば、今後一切の外出は認めません」
「いいのか?」
シノが確認するように問う。
レティシアは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて答えた。
「罰の一環です。外を見て、二度とここから離れたくないと思っていただければ、なお良いのですが」
言葉とは裏腹に、その声には微かな震えが混ざっていた。
「分かった」
シノは短くそう言うと、窓の外へ視線を戻した。
その横顔を見つめながら、レティシアは胸の奥のざわめきを押し込める。
護衛はついた。
条件もつけた。
それでも、不安は消えない。
レニはというと、緊張と使命感で表情を固くしながらも、どこか誇らしげだった。
自分に託された任務の重さを、都合よく「栄誉」として受け止めている。
レティシアは小さく息を吐いた。
「……本当に、大丈夫なのでしょうか」
執務室の静けさの中で、その独り言だけが残った。




