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3-10 急所

 ──深夜。



 寝台の上で静かに寝息を立てるシノを、レティシアは見つめている。

 ほとんど習慣のようになっているこの時間はとても満たされている。

 同時に、失うことを恐れてあまり眠れない。

 互いの鼻先が触れそうなほどに顔を近づけても、眠りこけているシノは目覚める気配もない。

 少し腹立たしくもあるが、〈聖域〉において睡眠を強制しているのだから、それも当然といえた。


 寝顔が時折歪むのは、何か悪夢をみているのだろうか。


──知りたい、全てを。


 たとえ〈聖域〉の内にあっても、心中までを見通すことはできない。


 すらりと伸びたレティシアの指がシノの頬を触り、頸へと掛かる。 

 寝顔が少し穏やかになった。

 確かな脈動と体温が、指の下から感じ取れる。

 このまま力を込めれば、容易く脈を止めることができるだろう。


「今の貴方はとても危うい」


 果たすべき目的がなければ、これほどまでに無防備になってしまう。

 果たすべき目的があれば、ただの奴隷に成り下がってしまう。


「だったら……“罰”で縛っておけばいい」


 レティシアは目を閉じ、床に腰を下ろして寝台へもたれかかった。



 レティシアの私室の窓がゆっくりと開いた。

 同時に音もなく滑り込んで来た影が、真っ暗な室内を窺うように見回す。

 夜目が利くようで、室内の人間を正確に視認した。

 いるのは、寝台の上で眠る男と、寝台に身体を預けて目を閉じている女。

 横たわっている男の胸は規則正しく上下している。

 影は、ふっと息を漏らした。



 無防備すぎる。

『神』とやらの加護を過信し、自らが襲われるなどとは考えもしていないのか。



 影は滑るように寝台に近寄ると、覗き込むような動作をした。

 そしてそっと手を伸ばす。


「指一本たりとも、触れていいものではありませんよ」


 寝台にもたれていた女の目が開いている。


 慌てた様子もなく、影は伸ばしかけた手を引っ込め、じりじりと後退し、距離を取った。


 同時に部屋に灯りがともされる。

 暗闇の中では曖昧な輪郭に過ぎなかったものから、黒い外套で顔を隠した姿が露わになった。


「これは一体、どういうことでしょう? 害意のある者は、入り込むことができないはずですが」


「……」


 相手は答えないが、レティシアは得心がいったように頷いた。


「なるほど。つまり、()()()()()害意は持っていない、と。……絶対に排除しなければ」


 床を突き破った幾重もの銀色の槍が、侵入者を取り囲むようにして拘束する。


「串刺しにしてやりたいところですが、その前に訊きたいことがあります。どちらからいらっしゃったのですか?」


 侵入者は答えず、かろうじて動かせる右手で何かを手繰り寄せるような動作をした。


 背後から音もなくレティシアに迫った凶刃は、これもまた音もなく消滅してしまった。


「ここは〈聖域〉の内側ですよ」


 レティシアが背後に意識を向けたほんの刹那。

 切断された槍を踏みつけて、侵入者は自由の身になっていた。


「後ろは囮でしたか。姑息さではそちらの方が一枚上手のようです。しかしその魔術、あなたがどこの誰なのかを問う必要はなくなりました。向こうで狩り立てられて、こちらに逃げ込んできましたか? それともシノに手を出して、返り討ちにされた意趣返しですか?」


 侵入者が外套を外す。

 土気色の肌、整った顔は少しやつれているが、銀色の髪の向こうから目だけは爛々とのぞいている。


「銀髪……やはりオドリオソラ、それも直系の魔術師。貴女がシェイラ・オドリオソラですか?」


「動かないほうがいい」


 返答は若い男の声だった。


「その言葉は、自分が圧倒的に優位な立場でないと意味を成しませんよ。残念ながら、その程度では脅威らしい脅威にもなりませんね」


「本当に首教がいるとはね。もちろんここでは君を傷つけることはできない。でも、君が大切にしているモノはそうじゃない。意味は分かるかな?」


 寝台の上に視線をやったレティシアは、自分の顔から急速に血の気が引いていくのを感じた。


「何を、言っているのか、分かりませんね」


 レティシアの動揺を、熟練の凶手は見逃さない。


「声が震えているよ。知っての通り、オドリオソラの秘術は不可視の刃。その発動の瞬間を自在に操ることができる。さっきしてみせたようにね。断頭の刃は既に彼の上に。気づくのが少し遅かったね」


「誰がそんなことを信じると?」


 オドリオソラの魔術師が右手を上げる。


「なら動いてみるといいよ。僕の言っていることが本当なら、この右手を振り下ろした瞬間、そこで寝ている男の頭と胴体はお別れだ」


──嘘です。


 魔術を仕込む、そんな素振りも暇もなかった。

 だが、オドリオソラの魔術を全て見知っているわけではない。

 なによりアイン・スソーラの魔術師、嘘はつけないはずなのだ。



「……用向きを伺いましょう」


「『神』はどこにある?」


「大聖堂に。こんなことは子供でも知っています」


「違う。僕たちが引きずり降ろした方だよ」


「知りませんね。手を離れていますから」


「そうかな。ずっと『神』を管理してきた君たちなら、何か知っていると思っていたけど。知らないのなら仕方がないね。なら、その男も用済みだ」


 男の右手が勢いよく振り下ろされる。

 レティシアに考えている暇はなかった。

 悲鳴にもならない悲鳴を上げながら寝台の上に身を投げ出し、シノの上に覆いかぶさりながら、その身体を抱え込んだ。

 しかし、覚悟をした痛みは一向にやってこない。


「……やられました」


 レティシアが身を起こしたときには、既に侵入者の姿はどこにもない。


──今になって思えば、あの男は一度も断定していなかった。

“本当なら”と、逃げ道だけは残していた。

この程度の詭弁にも気付けないほど自分は動揺していた。

冷静でいられなかった。


「まずいですね……」


 涼しい夜気だけが、何事もなかったかのようにレティシアの頬を撫でていった。






「驚いたな……」


 深夜の聖堂街を駆け抜けながら、男は先ほどの光景を思い返した。


 非常に厳格な神威の執行者。

 それが首教レティシア・グレスロードに対する客観的な人物評であるはずだった。

 そして、『神』は〈教国〉の要、存在意義といってよいものだ。

 その一部をアイン・スソーラは、オドリオソラの魔術師たちは簒奪した。

 そんな人物が、〈教国〉にとってみれば、たかが喪失者一人の身柄でアイン・スソーラとの交渉に応じたという。


──シノ・グウェンは、囮かと思っていたけれど……。


 あの体たらくを見るに、違ったようだった。

 攻撃に備えるように、身を丸めていたが、そもそも〈聖域〉の中で、彼女を傷つけることはできない。

 つまり、そんなことも分からぬ程に冷静さを失っていたのだ。


「シノ・グウェンは、〈教国〉の急所となりうるか……」

 

 アロイスが足を止める。

 どこか見覚えのある少女が一人、人待ち顔で壁にもたれかかっていた。


「やぁ、黒い外套なんか被ってたからさ。もう来たのかと思ったけど、向こうで会ったのとは違うみたいだね」


 待ち人の姿を認め、少女は愛想よく手を上げる。


「どこかで会ったかな?」


「ボクはスサナ・レモン。学院ではシェイラと仲良くさせてもらってたんだ。何度か顔を合わせていると思うけど。君は少し痩せたかな、アロイス・オドリオソラ」


「学院……、そうか。妹と仲良くしてくれてありがとう。ところで、アイン・スソーラの学生がどうしてこんな所にいるのかな?」


「待ってたんだ」


「待っていた? おかしなことを言うんだね……」


 アロイスは対応を決めかねていた。


 会話を続けながら魔力の糸を縒り合わせ、不可視の刃は創り終えている。

 いつでも放つことができる。

 たかが一介の学生、斬り伏せるのは容易いはずだ。

 魔術師としての力量にも開きがある。

 だが、凶手としての本能が、目の前の少女に対して警告を発している。


──戦うべきではない。

獲物とすべきではない。

逃げるべきだ。


 本能に従い、アロイスが逃亡を決めたとき、


「〈動くな〉」


 投げかけられたスサナのたった一言で、アロイスの全身が拘束される。

 指先一つ動かすことは叶わない。


「なッ……!」


「逃げられるとでも思った? 残念でした。コソコソと魔術を捏ね回していたようだけど、それはボクが許可していたからなんだからね」


「これは、〈聖域〉…….! 〈教国〉の回し者だったのか」


「違う違う。確かに〈教国〉の人間だけど、ちゃあんと君のお父上に許可を得ていたさ」


「父に……?」


「おや、覚えてるんだね」


 本来なら、もう忘れているはずなのに。


「それはちょうどいいや。ひとつ言っておくと、ボクは魔術師じゃない。でもね、オドリオソラの秘術はよく知ってるんだ。無色の魔力(マナ)の物質化、そして撚糸された魔力(マナ)はもっぱら刃へと転化される。物質化されているが故に、その魔術を行使するにも物的な力が必要となる。武器を振るうのに、腕力が欠かせないように。だからキミの全身を拘束した」


 発動に致命的な制約があるからこそ、秘された魔術なのだ。

 アロイスの顔が驚愕に染まる。


「君は……いや、貴女は──」


「やめてくれよ。ボクの役目はもう終わってるんだ。今は隠居中の身さ。でも、キミにはまだ役目を背負わせられそうだ。ちょうどいい駒を探していてね。どういうわけか記憶もあるようだし、これが神に感謝しますってやつなのかな」



戦おうとした事自体が間違いだった。

人のままでは絶対に勝てない。 



「なら──」


 アロイスが内に繋ぎ止めている「魔」は、常に束縛から逃れようとしている。

 〈聖域〉の拘束を引きちぎるまで、少しずつ緩めてやればいい。


「〈眠れ〉」


 そんなアロイスの努力は、スサナの一言によって無へと帰した。


「危ない危ない。今、何かしようとしたね」


 糸が切れた人形のように倒れ伏したアロイスを眺めながら、少し思案する。



 レティシアに見つかれば、この男は間違いなく八つ裂きにされるだろう。



「さて、どこに隠しておこうかな。……まったく、これじゃレティのことを言えないな」






 大聖堂の執務室。

 夜明け前、慌ただしく行き交う足音の中、レティシアは報告を受けていた。


「侵入者、ですか?」


「西側の壁を破壊し、そこから侵入したと思われます。周囲はひどく焦げ付いていました。おそらく『火』の魔術によるものかと」


「魔術……」


 報告を聞いていたスサナが、横から口を挟む。


「目的は明白だね。狙いがボク達なら、門を壊そうが壁に穴をあけようが、そもそも入ることはできないだろうからね」




「これで分かったんじゃない? 彼は狙われている。守りが必要だよ」


「誰かに任せるなど……であれば私が──」


「ずっと守り続ける、なんてことはできないでしょ?」


「そばにいれば大丈夫です」


「ずーっとここに留めておく気なの?」 


「それは……」


「キミにも役目があるんだから、常に側にいるなんてこと、できっこないでしょ」


「でも、だって……」 


「そもそも、シノに自分の身を守れって言えばいいだけじゃないの?」


「もう二度と戦ってほしくありません……」


「レティシア」


 スサナが、幼子に言ってきかせるように言葉を重ねた。


 元来、聡明であるはずだが、彼が絡んだ途端に使い物にならなくなる。


「……分かりました。護衛を手配します」


「あてがあるの?」 


「はい」


 レティシアの頭にはひとりの男が浮かんでいた。


「レニ・バラムをここへ」

次回の更新は、12月28日の予定です。

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