3-9 蒼銀の執心Ⅵ
アイン・スソーラの辺境、アルバスにてメルヴィナ・ウォールズは途方にくれていた。
主の所へ戻ることはできない。
何しろ、命じられたことを何一つ成し遂げられてはいないのだから。
アルバスから臨めるオイケインの荒野の向こうには、〈教国〉の門からの微かな灯りが見える。
もう正面から入ることはできない。
うまくいったとしても、得体のしれない〈聖域〉により魔術が阻害されてしまう。
「大体何なんですか、あの人は……!」
自分の目的のみを果たそうとする身勝手さも勿論だが、何より腹立たしいのは何者にも期待していないような、自分一人で何もかも決めてしまう態度だ。
「そんなところに突っ立ってさ。キミってアレだな? バカ、なんだな?」
ぐるぐると巡っていた思考に割り込んできたのは、嘲笑を含む調子の外れた、聞き覚えが多分にある声。
「何か御用でしょうか? こう見えて今はとても忙しいのですが」
「だからああいう言い方は良くないと言ったじゃないか。しかし、これで彼の歪さがキミにもわかったんじゃないのかナ?」
「ヴォルフラム・ザカリアス……!」
「そう恐い顔しないでヨ、笑って笑って。見たところ、とてもとてもお困りの様子」
「えぇ、とても困っています。それで、何か御用ですか?」
「キミはとてもとても運が良い……。この、私がッ! シノを取り戻す方法を教えてあげようというのだからネェ」
「なぜ私を助けるのです」
「キミを? ハハ、やはりバカだな。それとも人がいいのかな。冗談にもならない冗談はやめてくれたまえよ。キミなんかどうでもいい。大事なのは彼の方でね。あんな国に囚われてしまうと、ツィスカにとって好ましくないんだ。〈教国〉では、アイン・スソーラほど自由には動けないのでネ。実を言えば、ボクとしては少々複雑な気分なのだがね、しかしホラ、好きな男の子にはいつでも会いたいものだろう? これも、娘の心身の健やかなる成長を願ってやまない父親の──」
「それで、どんな方法なのですか?」
延々と続きそうなヴォルフラムの独白を、メルヴィナが遮った。
「ヒトの話を聞かない娘だナ、キミは。まぁ、いいさ。簡単、簡単。君が助けを求めればいいだけ」
「はい?」
ヴォルフラムはいたって大真面目だ。
「助けを請われれば手助けをする。求められなければ何もしない。そこに善悪の区別はなく、ただ誰かの望むままに与えられた役目を果たす。本来、アレはそういうモノだから。キミはねぇ、助けて、といえばよかったンだよ? あの聖職者のほうが、扱いを心得ていたってコト。やけに手馴れているよねぇ、彼女」
「あの人は、一体何なのですか……」
寒さに耐えるように、メルヴィナは自らの身体を両腕で抱え込んだ。
感じているのは、寒さではなく空恐ろしさ。
その様子を眺めながら、ヴォルフラムは愉快そうに笑った。
「シノと関わり、何らかの感情を移してしまった人間の抱く感情は、大体似たようなものだ。今の君なら、何かは分かるよね?」
──怒りと、ある種の恐怖。
「さっき君は怒っていたようだけどさ、勘違いしてほしくないのは、その怒りは誰に対してのものなのか、ということなんだ」
「まるで、経験があるかのような言い草ですね」
「おっと、喋りすぎたかな?」
ヴォルフラムは大仰な仕草で、口を両手で覆った。
「あの人は……グウェンさんは、何者なのですか?」
「さあて。僕が知っているのは、本物の英雄が欲し、夢想し、憧れたモノだということだけだヨ」
「『大災厄』を戦っていた……?」
答えず、ヴォルフラムは薄く笑うのみ。
「それと、コレを持っていくといい。役に立つと思うヨ?」
そう言って、ヴォルフラムは首にかけていた短剣をメルヴィナに差し出した。
柄にはめられた磨き上げられた大きな朱い宝石には、戸惑ったメルヴィナの顔が映りこんでいる。
「これは……?」
軽い。
それに、微かに熱を持っている。
武器としての実用性があるとは思えない。
儀礼用の祭具だろうか。
「これは力。〈聖域〉の中でも存分に振るえる。今のキミが欲しているモノだと思うヨ」
短剣へと落としていた目を上げると、ヴォルフラムの姿はどこにもなかった。
メルヴィナは分かっている。
腹が立つのは、シノに対してではない。
教国でもない。
シノが助けを求めるに値しない、自分自身に対してだ。
「……必ず連れて帰りますからね」
握り込んだ短剣の柄が、一層熱くなる。
荒野の向こうの街明かりが、随分と近く感じられた。
自身の居室へと歩くユリアーネの足音は少し荒っぽい。
メルヴィナ達を送り出して、日が経っている。
その間、彼らの動向についての情報は全くない。
「私の騎士と私のモノが、側を離れてもうどのくらい経った?」
傍らを歩く盾を背負った巨漢に問いかける。
「今日で十日になります」
「なぁ、コーマック。私は、もう十分に待ったと思わないか?」
「殿下、どうかもう少しのご辛抱を──」
口を開いたコーマックが途中で口を噤む。
目的地に到着していた。
平時であればここでコーマックの役目は終わる。
「……殿下」
ユリアーネを守るように、コーマックが扉の前に立った。
「コーマック、ここで待て」
「御意」
コーマックを残し、ユリアーネが部屋に入ると、異質な魔力を感じ取った。
この部屋では感じられるはずのない力だ。
──やはり来たか。
「何か用か、ザカリアス。近衛が血眼になってお前を捜しているぞ」
空間から滲み出すように姿を現したヴォルフラムは、恭しくその場で膝をついた。
頭は落とさず、緩みきった笑みをユリアーネへと向けている。
「感服致しました。やはり、殿下の慧眼を欺くことはできませんな」
「ふざけたやつだ。隠すつもりもなかっただろう?」
「どうかご無礼をお許しください。ですが、殿下が目を掛けておられる男について、お耳に入れておきたいことが」
「……言ってみろ」
「〈教国〉に、シノ・グウェンを返すつもりはありません」
「メルヴィはどうした?」
「解放されているはずです」
「はず……とはどういうことだ?」
「殿下には申し訳ありませんが、そちらには興味がないもので。しかし、〈教国〉が欲しいのはシノ・グウェンです。そして、おそらく彼は自身と引き換えにメルヴィナ・ウォールズの解放を要求するでしょう。しかし、こうして戻られていないということは、目下、彼を奪還しようとしているといったところでしょうか」
「お前が言ったことが事実であれば、メルヴィはそうするだろう。それにしても随分と詳しいな?」
「殿下がそうであるように、私もとても賢いのですよ」
「そうか。貴重な情報だ。礼をしなければな」
極低温の魔力により急激に室温が下がり、窓が白く色づいた。
「いやぁ、礼には及びません。あの娘はきっと、敬愛する主のために己が命を投げ打ってでも使命を果たそうとすることでしょう。殿下は良い臣をお持ちだ。しかし、今回はその忠誠が仇になりそうですな。何しろ、相手が悪すぎます」
「私に何をさせたい」
「殿下に何かをさせたいなどと、そのような畏れ多いことは考えておりません。ただ、現状を率直に述べただけでございます」
「……同じことであろうが」
「やはり殿下は賢く、そして慈悲深くあらせられる。しかし、すぐに私だと見抜かれたところをみると、誘い出されたのはこちらの方でしたか」
神妙な表情は瞬く間に消え失せ、にやりとヴォルフラムの唇がめくれ上がった。
「恐ろしいお方も近くにおられるようなので、そろそろお暇させていただきますヨっと……おんや?」
立ち上がろうとしたヴォルフラムの両足は真っ白に凍りついていた。
「これはまた懐かしい」
「そう急いで帰ることもないだろう。もう少しゆっくりしていくといい。お前にはまだ訊きたいことがある」
「是非、と言いたいところですが、今日のところはお断りさせていただきたいですねェ」
ヴォルフラムが右腕を掲げる。
指にはめられた指輪の大きな朱い宝石が光を放つと、彼を囲むように炎が燃え上がり、氷の枷が溶け落ちた。
「さて、今度こそお暇させていただきますよ」
炎とともに、ヴォルフラムの姿も煙のように消えてしまった。
炎が這い回っていた床には焦げ跡一つ残ってはいない。
「始末に負えん男だ」
ユリアーネは、呆れたように呟いた。
ヴォルフラムの行動は、シノ・グウェンを代償に〈神〉を一柱消し去ってしまった失策の幕引きを図りたいマリアンネの意に沿うものではないだろう。
「やはり、ヴォルフラム・ザカリアスは母についているわけではないのか……。コーマック」
「ここに」
「聞いていたな?」
「はい」
「レティは帰ってくると思うか?」
「殿下の命を果たさずに戻るとは思えません」
「不本意だが、私も同感だ」
「あれはウォールズの魔術師。いざとなれば覚悟がありましょう」
「私に覚悟がないんだ。コーマック、お前には門番を頼みたい」
「外敵の侵入を防ぐのが役目でありますれば。しかし、よろしいのですか?」
「そのために、メルヴィにはスクロールをもたせてある。私は自分のモノを誰かに取られるのが大嫌いだ」
「御意に」
〈城塞〉は気負った様子もなく、軽く頷いた。
「そろそろ迎えに行こうか。お前も来るんだろう?」
ユリアーネが唐突に言葉を投げかけると、部屋の隅で黒いローブが翻り、その下から人が姿を現した。
「もう待てなくなったのか。短気な王女様だ」
「よく言う。お前こそ、殺気が溢れ出ていたぞ」
「あの男は、好かない」
「気が合うな、私もだ!」
満面の笑みを浮かべて、ユリアーネは同意した。
次回の更新は、12月21日の予定です。




