3-8 蒼銀の執心Ⅴ
──あの寄生虫どもは全員八つ裂きに……!
シノから聞き出した話を思い出すと怒りが収まらない。
シノについてきていたあの女はよくも『連れて帰る』などと口にできたものだ。
知っていれば、絶対に絶対に無傷でなど帰さなかったのに。
断言できることは、向こうでの暮らしぶりを聞く限り、ここにいた方が安全に生きていけるということだ。
やりきれないのは、本人に自覚がないことか。
「利用されているだけではありませんか……!」
日中の執務の時間。
「レティ、顔が怖いよ。あんなに怯えて、さっき報告に来てくれた子が可哀想じゃないか」
「申し訳ありません」
空返事をし、今度はため息などついている。
目の下に薄く隈ができているのも相まって、スサナの目には、レティシアが何か病気でも抱えているように見えた。
──まぁ、病気には違いないのかもしれないけど。
「さっき外に出てみたんだけど、噂になってたよ。首教様の様子がおかしいってさ」
「……そうですか」
「キミが聖堂の上に立たなくなったせいだよ」
「もう、その必要がなくなりましたから」
「毎日欠かさず立っていたのに、急になくなれば不安にも思うだろうさ」
「不安……今はその気持ちが、よく分かる気がします」
「レティ、一体どうしちゃったんだい?」
「名前を……」
ぽつり、とレティシアが呟いた。
「名前?」
「いえ、何でもありません」
椅子に座ってはいるが、今度は机に肘をつきながら掌の上に顎を乗せて、外を眺め始めた。
目を向けている方角には、レティシアの私室があるはずだった。
いよいよ様子が変だ。
しかし、原因は明らかだった。
「ねぇ、レティ」
「はい」
「ちゃんと寝た?」
「……はい」
「酷い顔だ。もしかして、ずうっと〈聖域〉を維持してるの? 身体がもたないよ」
「そうですか」
どうでもいい、そんなことは。
大事なのは、シノ・グウェンが近くにいることだ。
今もシノを囲むようにして展開している〈聖域〉を通じて、存在が手に取るように伝わってくる。
「でもさぁ──」
「そうですか」
「その顔を彼にも見られているんじゃないのかい? 同じ部屋で寝起きしているんだろう? 君が寝ているかは怪しいものだけどね」
「……。っ!!」
今度は慌ただしく部屋を出ていった。
「まったく、重症だな。何か変化があるとは思っていたけど、あれほどとはね」
「銀色鎧女……」
やや疲れたような顔をしている自身の姿が映る鏡を見ながら、レティシアは目元を指でなぞる。
ギンイロヨロイオンナ。
本名よりも長ったらしく、呼びづらく、珍妙な小動物にでもついていそうな名は、シノのレティシアに対する呼称である。
「私の名前は知っているはず……」
確かにシノ・グウェンからみれば、友好的な関係を築ける状況ではないことは理解できる。
しかし、名前くらい呼んでくれたっていいはずだ。
「……そういえば」
あの忌々しい『王女の槍』は何と呼ばれていたか。
「確か……『金髪』と。ふむ……」
考えるに、今のシノ・グウェンには名を覚えようとせず、外見的特徴から渾名をつける悪癖があるようだ。
確かに、大聖堂を統べる首教として白銀の鎧を身に着けてはいる。
元来、渾名とはある程度の愛着がある相手につけるものであるはず。
しかし、その逆もあり得ることも知っている。
聖堂に詰める聖騎士達が、気に入らない者の陰口を叩く際に、渾名をつけてこき下ろしていたのを聞いたことがある。
レティシアは鏡に映る銀鎧の自分を見つめ、むすっと唇を尖らせる。
「……どちらなのですか、その渾名は」
〈教国〉の頂点たる首教が、渾名一つで頭を抱えているなど、誰が想像しただろう。
「……むぅ」
「お加減でも……?」
通りかかった大柄な聖騎士が、しかめっ面で鏡を見つめるレティシアに声をかけた。
「こ、これは首教様……!」
振り返ったレティシアの顔をみた聖騎士が、あわてて敬礼をした。
「体調に問題はありません。それよりも、訊きたいことがあるのですが」
聖騎士は直立不動のまま、
「なんなりとお尋ねくださいッ」
「渾名とは、どのような相手につけるものなのですか?」
「は、は……?」
聖騎士が、面食らったように目を瞬かせた。
失礼な渾名をつけた命知らずでもいるのだろうか。
「個人的な見解になりますが……」
「構いません」
「好ましい相手につける場合と、そうではない相手につける場合があると思います」
「好ましくない相手にも……。そうですか……」
心なしか、レティシアの声が沈んでいる気がする。
答えた聖騎士の背に、冷たい汗が伝う。
今、自分は顔も知らない誰かの命運を握っているのではないか……!
「し、しかし多くの場合、好ましい相手につけるのではないでしょうかッ」
「それを区別する方法はないのですか?」
「目の前でその渾名を言えれば、好ましい相手につけたもの、ということだと思います」
苦しすぎる理屈だ。
だが、もう押し通すしかない。
「目の前で……。そうですか、とても参考になりました」
目に見えてレティシアの表情は明るくなっている。
聖騎士は虚空で握った拳を、なで下ろした胸に当てた。
「お役に立てたのなら幸いです」
「名を訊いておきましょう」
「レニ・バラムでありますッ」
「その名、記憶しておきます」
「も、もったいなきお言葉……!」
まだ〈詠隊〉の中でも見習いの身。
本来であれば、首教と直接言葉をかわすなどありえない立場である。
足取り軽く戻っていくレティシアを見送りながら、その機会を恵んでくれた誰かに、レニは密かに感謝した。
アイン・スソーラ王城の主塔。
その最上階へと、オリアはいつのまにか足を向けていた。
習慣だろうか。
いや、会いたかったのだ。
その先には、罪を公にすることすら憚られるような大罪人を収監しておく特別牢がある。
石壁は冷え切り、鉄格子は長年の湿気で黒ずんでいる。
足音ひとつで、ここに押し込められた者たちの呻きがよみがえりそうな場所だ。
この階段を登ろうとする者は、重苦しい陰鬱な気持ちを抱えていたに違いないが、五日前までオリアは連日、息を弾ませながらここを駆け上がっていた。
それはもちろん、長く続く階段によるものだけではなかった。
昼間は幾分か明るいが、夜も深まっている今はただの不気味な石階段だ。
誰もいないと分かってはいたが、突き当たった古びた冷たい扉をそっと押し開ける。
「こんな時間に、こんな所に来るものではないな」
重たく軋む扉の音に返ってきた答えは、女性の声だが少し低い。
オリアが暗闇に慣れ始めた目を凝らすと、人影が二つあった。
そのうちの一つは見間違えようもない。
「お姉様……」
姉がこんな所にいる理由の見当もつかない。
「そう身構えるな。おそらくは、私もオリアと同じ理由だ」
耳に慣れた声が、少し柔らかくなった。
「同じ?」
「会いたくなったんじゃないのか?」
誰に、などととぼけることはできない。
ここの住人、というより囚人は一人だけだ。
私はそうだ、とユリアーネは笑う。
屈託のない笑み。
怜悧とさえいえる顔に、その笑みは一層映えている。
隠すことなど何もなく、思うままに生きている。
オリアはユリアーネを羨ましく思った。
「そちらはどうなんだ?」
ユリアーネが向けた言葉の先には、黒い外套をすっぽりと被ったもう一人の先客がいた。
「……」
どういうわけか、その先客は房の中に入っていた。
一番奥のそこは、シノ・グウェンが収監されていたところだ。
「何もおかしなことはない。わたしの仕事はここの守りだから」
「中に誰もいないのに守りも何もないと思うが。いや、そもそもそこにいる必要があるのか?」
「実際に侵入者が二人いた。率直に言って、見たくない顔」
「そう言うな。シノに会いたかったのも本当だが、お前もいるのではないかと期待していた」
「私に用でもあるのか?」
「お前は今、お母様の近くにある。シノを、〈教国〉へ引き渡すことは最初から知っていたか?」
「知っていた」
あっさりと、黒いローブの魔術師は頷いた。
「マリアンネ・ローゼンベルクは、〈教国〉が最も欲しがっているものを〈神〉の対価とし、〈教国〉の赦しを得ようとしている」
「お母様の思惑など知ったことではない。肝心なのは、貸してやっただけの私のモノが、いまだ戻ってきていないことだ」
「なぜそこまで執着する。あの男とお前に、そこまでの関係性はないはずだ」
黒いローブの魔術師は、外套の奥から値踏みでもするかのような視線をユリアーネに向けていた。
「よく分からない……。ただ……ただ、シノを見ていると、不思議な気持ちになる。申し訳ないような、憎らしいような、複雑な気持ちだ。それがはっきりするまでは、傍に置いておきたい」
「それだけか? 戦いに利用しようとしているのではないか? いや、その気がなくとも強い力が手の届くところにあれば、使ってしまうのがお前たちの弱さだ」
「もちろん、あの力に惹かれているのも本当だ。あれほどの力、興味を惹かれぬほうがおかしいだろう。しかし、一番の理由は、大事なモノを奪われて、それをくれてやるほどお人好しではないということだ」
「大事……か。もし、お前の大事なモノが、幾千、幾万の血を吸い、恨みを買い、穢れに塗れてきたものだとしたらどうする。それでも側に置きたいか?」
動揺する素振りもなく、笑みすら浮かべて、ユリアーネは答える。
「私にとってどれほどの価値があるのか。大事なのはそれだけだ」
「あぁ、貴女はそういう女だった」
顔は見えないが、黒い外套の下で魔術師が笑った気がした。
欲しくて欲しくて仕方がないモノを、手元に置いておきたいなどとほざくその顔面に魔術を叩き込みたい衝動を、オリアは両手に拳をつくることでやり過ごす。
ローブの魔術師はオリアを一瞥したが、声をかけることはなかった。
そして房の扉を開き、外に出てくる。
「……王女、もう少し待て」
その言葉だけを残して、黒いローブを翻しながら牢を出ていった。




