3-7 蒼銀の執心Ⅳ
大聖堂の最奥――かつて〈教国〉の始まりとともに造られ、『神』の力がもっとも濃く満ちるとされる区画。
今では“〈院〉”と密やかに呼ばれるその部屋の存在を知る者はほとんどいない。
外界からは隔絶され、声も気配も漏れない。
立場を考慮せずに話すには、これ以上ない場所に二人の姿はあった。
「やぁ、もうボクのことなんか忘れてしまったのかと思ったよ」
待ちくたびれた様子のスサナが、後から入ってきたレティシアへ、友達に挨拶でもするように右手を上げた。
「それはこちらの台詞です」
レティシアが、スサナへと非難がましい目を向ける。
「なに、怒ってるの? ちゃーんと手土産を持ってきてあげたじゃないか。彼と何か話せたんでしょ?」
「いえ、あのまま眠らせています。これからは時間もありますから」
「あぁ、寝顔を眺め回していたから、こんなに遅くなったのか」
「そそそ、そんなことはしていませんッ」
「え、ほんとにキミのところで寝かせてるの?」
スサナが目を丸くすると、レティシアは少し顔を赤らめた。
「他のどこに置いておけますか。あの人たちとは違います」
「うん、そう、だね」
「その話はもういいでしょう。それで、今までどちらにいらっしゃったのですか?」
「いろいろと巡ったけど、少し前まではアイン・スソーラに。気になったことがあってね。でも大正解だったよ。懐かしい顔も見られたしね」
「……その方はご一緒ではないのですね」
スサナは口元を押さえて笑った。
「まあね。でも、またどこかで会えるさ。それよりも聞いてよ」
「……はぁ」
だんだんと思い出してきた。
基本的に、この人は話を聞かない。
「新しい友達ができたんだ! もちろんキミの他に、だよ?」
「あぁ、そうですか」
「あんまり興味なさそうだね?」
「別に興味はありませんね」
「冷たいなぁ」
スサナが悪巧みでもしているように、にやりと笑った。
「何ですか?」
「きっと知りたいんじゃないのかなぁ。シノ・グウェンがなぜ、虜囚となってまでアイン・スソーラに留まっていたのか」
「それとご友人に何か関係があるのですか?」
「そのご友人こそが、シノ・グウェンがアイン・スソーラに留まっていた理由なのさ。どう、興味出てきたんじゃない?」
「話を聞かせてください」
「シェイラ・オドリオソラ。名前くらいは知ってるだろう?」
「……女性、ですね」
レティシアの声が、わずかに遅れて続いた。
名前を飲み込むようにして。
スサナが苦笑する。
「気にするべきはそこじゃない。いいかい、オドリオソラだよ?」
もちろんその家名は知っている。
ただ、そちらよりも興味深い情報があっただけだ。
「今回の件の当事者、ですね」
「侯爵家だね。あまり表には出てこなかったけれど、アイン・スソーラの暗部を請け負ってきた殺しの家系さ。一部とはいえ、〈神〉に手を掛けるだけの力を集めたのも彼らの仕事だろうね。シェイラはそこの娘だよ」
「そんな家の女とシノに、関わりがあるようには思えませんが」
レティシアは、面白くもなさそうに髪の毛先を指に巻きつけて弄んでいる。
「向こうの学校では同じ教室で机を並べていたんだ。お節介な優しい娘でね。魔術学校に馴染まなかったシノの事を、本人よりも心配してたっけ」
「学校に通っていたのですか」
「何を隠そう、ボクも通っていたんだ。『あの魔術師』にはちょっとした貸しがあってね。なかなか楽しめたよ」
「長い間留守にしていると思えば……。ちょっと待ってください」
「ん? なんだい? これからがいいところなのに」
「それほどまでに近くにいらっしゃったのに、企みにはお気づきにならなかったのですか?」
「……続き! 聞きたくないの?」
レティシアは、諦めたように先を促した。
「続けてください」
「〈教国〉の人間だと悟られないように、過去も用意してもらった。これでも模範生だったんだから。でも、友人は慎重に選んだ。本来なら、シェイラと関わり合いになるつもりはなかったんだけど、彼女の目にはボクが孤立しているように映ったらしい。気付いたときには友人になっていた。シノと関わるようになったのも、おそらくはそういった理由からじゃないのかな。ただ……お節介というよりは、もっとこう、どこか義務感のようなものを感じたけども」
「そう、ですか」
髪を弄んでいたレティシアの手が、胸の前できゅっと握られる。
その姿はとても幼く見えた。
「その女は今どこに?」
「分からない」
「分からない……?」
レティシアは訝しげな目をスサナへ向ける。
「『神』にはシェイラ・オドリオソラの記録が確かに残ってる。 でもね、肝心なところだけが抜け落ちてるんだ。 誰かが隠したって感じじゃない。最初から、その部分だけ “記録にならなかった”みたいでさ」
「そんなことが可能なのでしょうか……」
「さて、あり得ないことではないんじゃないかな。それにもっと不思議な事がある。シノ・グウェンだ」
「シノがどうかしたのですか?」
「シノ・グウェンは、この世界にはもういない。本当にいたのかどうかさえ、今は分からない。『神』のどこを検索しても、彼の存在は記録されてないんだ」
「嘘ですッ! だって、あの人は本物でした。私が見間違えるわけが――」
詰め寄るレティシアを、スサナは両手で制した。
「落ち着きなよ。ボクにだって、彼が死人じゃないことくらい分かるさ。ただね、『神』には彼の存在が記録されてない」
「そんな……」
「この世界はシノ・グウェンの存在を認めていないんだ。でも、確かに彼は生きてるように見える。死者を蘇らせることは、誰も手が届いていない業だし、さらに不思議なのが、生存していた記録もないこと……。一体、何がどうなってるんだろうね? この世界で生まれず、召喚された存在ですら『神』は見逃さない。始まりがないのに、この世界に存在してしまっている。本当に死人なのか、何者かが隠蔽してるのか……」
「そうですね……」
よくよく考えてみれば、レティシアにとってはどうでもいいことだった。
──彼が近くにいる。
その事実だけが全て。
それ以外は何もいらない。
「レティ、君はもっと欲を持つべきだね。人ならざる力を使ってるんだから、せめて人間らしくしていないと、本当に人じゃないモノになってしまうよ」
時々、この方は心が読めるのではないかと思うことがある。
「いいえ、私は欲深い人間です」
なぜならば、絶対に実現できない、とびきり醜悪な欲が、心の奥底にへばりついているから。
「ボクはこれでも君のことを心配してるんだ。君に力を押し付けた、あの時から」
「押し付けた、などと仰らないでください。私が望んだことです。この力があったからこそ、また会えたのですから」
スサナの表情が一瞬だけ曇った。
「確かに叶わない願いっていうのはあるけどさ、君のはそうじゃないと思うけどねぇ」
声音は軽い。
しかし、その軽さの奥には諦観が混じっていた。
スサナの言葉に、レティシアは思い詰めた顔をしている。
「ま、いいけどね。ただ、ボクはレティの悲しむ顔を見たくないだけでさ」
「……それよりも、『王女の槍』の動きが気になります。シノがああ言ったので見逃しましたが、あの女が諦めるとは思えません」
「ウォールズといえば、国よりも第一王女個人に忠誠を捧げているような連中だからね。向こうでも有名な話だったよ」
「アイン・スソーラが擁する、唯一の大英雄だった『あの魔術師』も消えて、弱体化しています。〈竜狩り〉共も今はあちらに牙を剝いているようですし、報復として王都を攻め落としてしまえばよろしいのでは?」
らしくもない提案に、スサナは思わず苦笑いを浮かべた。
「さっきと言っていることが真逆じゃないかい?」
「何も要求しない、と言っただけです。彼らが大好きな言葉遊びですよ」
「そう簡単な話じゃないさ。それは逆に、世界最高の魔術師をも倒しうる戦力があるってことなんだから。正直言って、“群”の中でも彼は別格だった。もう名前すら残ってない。存在ごと削られた魔術師なんて、後にも先にも彼だけだよ」
「しかし、その戦力はもう手の内にあります」
「マリアンネ・ローゼンベルクは慎重な人間だ。簡単にシノ・グウェンを手放したところを見ると、彼が敵に回ったとしても十分な戦力を確保していると思うけどね」
「〈蓋世の魔剣〉、ですか?」
「オイケインで〈大災厄〉を終わらせた最高位の魔剣。それをアイン・スソーラは死蔵している、とボクは思っている。ひょっとしたら、担い手も見つけているかもしれないね」
「……ですがッ」
「今は向こうの出方を見よう。スクロールも取り上げたんだ。すぐには動けないと思うよ。君だって待たせている人がいるんじゃ――って、あれぇ?」
すでにレティシアの姿はどこにもなかった。
理由は察しがつく。
「なんだろう……この敗北感は」
──目を覚ました!
〈聖域〉の中で分からないことはない。
息せき切って、レティシアは自らの居室の前にいた。
そのまま飛び込もうとしたが、ふと思い直した。
足がもつれて、鼻先を扉にぶつけそうになったが、なんとか踏みとどまる。
「待ちなさい、レティシア・グレスロード…… 冷静になるのです」
息を整えようとしても、胸の奥がうずくように痛む。
待ち続けた時間が、今日だけやけに短く思える。
このままの状態で入れば、会いたくて仕方がなかったように見えるのではないだろうか。
もう少し、息を整えてからのほうが──。
いや、何を躊躇っている。
自分の居室なのだから、部屋の主らしく堂々と入ればいい。
遠慮がちになるべきなのは、相手の方だ。
扉の前で葛藤する主人を、見張りを任されていた二人の聖騎士たちが不思議そうに見ている。
意を決して、レティシアが扉に手を掛けたとき、
「──俺はなんか間違えたかな」
中にいるのは一人だけのはずだが、会話をしているような声がした。
──部屋に入れるのは、シノ一人だけだと厳命したはずですが……。
レティシアが険しい顔で睨むと、二人は慌てて首を横に振った。
「ご苦労さまでした。もう行きなさい。今日は誰も近づけないように」
レティシアに任の終わりを告げられると、二人は足早に立ち去った。
漏れ聞こえる会話はまだ続いているが、相手の声は依然として聞こえない。
「やっと話したかと思ったら説教かよ。教えてくれたっていいだろ? またそうやってーー」
レティシアが中に入ると、シノ一人が所在なさげに隅で突っ立っていた。
他に誰かいる気配もない。
「いきなり入ってくるな」
「ここは私の部屋です。それより、他に誰かと話していませんでしたか?」
レティシアが、怪訝そうに室内を見回す。
「あー、独り言を話すのが癖なんだ」
「……そうですか」
シノの顔色から察するに、見られたくないところを見てしまったようだ。
過酷な監禁状態に長くあった者は、幻覚、幻聴の類をきたすことがあるという話を思い出した。
ふつふつと怒りが湧き上がってきたが、今後はそのような心配は不要となるはずだ。
そう怒りを鎮め、レティシアは口を開く。
「さてシノ・グウェン、あなたには死んでもらいます」
「それがお前の願いか?」
ちょっとした意思確認。
返ってきたのはその程度のものだった。
レティシアは即答できず、わずかに視線を揺らした。
シノはその揺らぎに気づかないまま淡々と続きを待っている。
罰とは、本来罪を正すためのものだ。
だがレティシアは、シノに変わってほしいとは思っていない。
むしろ――変わらず、彼女の手の届く場所にいてくれさえすればそれでよかった。
「それだけですか。他に何か訊くことはないのですか?」
「金髪はどうなった?」
──なんですか、それは。
レティシアはため息をつきたくなった。
「ここにいますよ」
レティシアが自分の髪を指し示した。
メルヴィナよりも少しくすんだ金髪。
「わたしも、髪の色は似たようなものですから」
「……」
「か、彼女なら心配いりません。国境まで丁重に送り届けましたから」
「そうか」
「……それで。あなたは逃げないのですか?」
「俺が? なぜ?」
「言ったはずです。ここにいると、殺されるからです」
シノには、責められることがどこが救いにも思えた。
「お前には俺を殺す理由があるんだろ?」
「私にあなたを殺す理由があることと、あなたが殺されたくないと思うことにはなんの矛盾もありませんよ」
「そう……だな?」
ようやく、ようやくだ。
覚えのないはずのレティシアの糾弾は、シノの心に安堵に似た感情をもたらし、胸に巣食う焦燥を薄めてくれた。
まさしく裁かれるべき悪人。
死は救いだ。
「それとも、あの女を逃がすために犠牲になったつもりなのですか?」
「死ぬべき人間が死ぬだけだ」
「死ぬべき? 貴方には記憶がないのでしょう?」
「お前になら殺されてもいいと思ってる。殺されて当然……そんな気がするんだ。手を汚すのが嫌なら──」
「〈括れ〉」
たった一言。
付加された条件も何もない曖昧な命令によって、シノの身体がぴたりと縫い付けられたように動きを止めた。
「おい、どうなってる」
動くのは、首から上だけ。
力で抑えつけられているわけではなく、首から下に自分の意志が届かない。
命令が、骨にまで染み込んでいく感覚。
自分の身体なのに、その実感を持てない不快感。
「勝手な行動は慎んでください。聖域〈ここ〉では、私の意志が全てにおいて優先されます。領域を絞り、力の密度を高めれば貴方にさせられないことなどないくらいに」
背後に回ったレティシアが、平坦な口調でシノの耳元で囁いた。
「……了解した」
シノが頷くと、すぐに拘束は解かれた。
「すぐに殺してしまったりはしません。罪の償い方は色々とあります。さしあたっては、ここで過ごしてもらいます」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「……ここで?」
「はい!」
「罪人なんだろ、俺は」
「はい、大罪人です!」
レティシアが、再度大きく頷いた。
「なら、もっと相応しい場所があるんじゃねぇのか?」
「そういった場所の方がよろしければ用意させますが、あまり気が進みません。二人だと狭いですし……」
レティシアは本気で心配していた。
ここよりも狭く、暗く、冷たい場所に彼を置くなど、考えただけで恐ろしい。
「そうか……?」
「どうかしましたか?」
「いや、何も」
何かが決定的に噛み合っていない気がするが、シノは何も聞かないことにした。
レティシアは満足げな笑みを浮かべている。
「まずは、聞かせてください。貴方があちらでどのように過ごしてきたか、を」
「あまり面白い話じゃねぇ」
「えぇ、それで結構です」




