3-5 蒼銀の執心Ⅱ
途中何度か休息を挟んだが、出立してからというもの、〈教国〉への道中で会話らしい会話がなされることはなかった。
向かい合う形で配置された座席の中で、メルヴィナはシノのすぐ隣に寄り添うようにしながら座り、対面しているスサナを油断なく睨みつけている。
忙しく回る馬車の車輪と、疲れを知らない馬蹄の規則正しい音だけが気まずい静寂を紛らわせる。
進路を指示する者がいないにも関わらず、馬車を牽く馬には、何もない褐色の荒野に道でも見出しているかのように、その歩みには迷いがない。
以前とは対照的な静かな旅を、当初は歓迎していたが、据え付けられた小窓を流れていく景色が変わり映えのしない荒野になり、シノが沈黙に苦痛を覚え始めた時だった。
目的地が近づくほどに表情が険しいものになっていくメルヴィナに、スサナが茶化すように、
「そんなに警戒しなくても、取って食べたりしないよ」
「貴方だけを警戒しているわけではありません。この荒野を抜ければ、〈教国〉の領内に入りますから」
「そりゃ、歓迎はされないだろうけど。ボク達からすれば、君達は盗人だから。業を盗み、今度は『神』をも盗んだ」
「……侮辱していますか?」
メルヴィナの金色の髪が逆立ち、発生したごく小規模な雷撃による不穏な音がした。
「〈教国〉の民の一般的な認識を教えてあげただけだよ。くれぐれも目立つ行動は控えてほしいな。その様子じゃ心配だ」
「わかっていますッ」
「特に大聖レイモンドについては軽々しく口にしないように」
「〈教国〉の王……。大英雄の生き残りだと聞きますが、実際はどうなんでしょうか」
「さあて、ボクみたいなのが会えるわけもなし。あと、〈教国〉に王はいない。君たちから見ると異様に映るんだろうけどね、元々は『大災厄』で帰るところがなくなった人たちの集まりなんだ。文化や主義主張が異なる人々が共存するために、最も効率がいいのは同じモノを信じることだった。大聖レイモンドはそのための記号なんだろうさ」
「顔も知らない存在によくも自分の命を預けられるものです。理解できません」
「理解しろとは言わないけど。でも君だって、他人に槍を預けているじゃないか」
「それは違います。私はリアン様が握る『槍』そのものに過ぎません」
「あ、そう」
真顔で答えるメルヴィナに、スサナは気のない相槌を打った。
シノにはどちらも理解できない。
「……」
景色はまったく変わらないのに、シノの心持ちは波立つ水面のように落ち着かない。
荒涼とした赤褐色の荒野を見れば見るほど、その揺らぎは大きくなっていく。
「どうかしましたか?」
気遣わしげにメルヴィナがシノの顔を覗き込む。
「なんだ金髪、やけに優しいな」
「そ、そんなことはありませんッ。今、グウェンさんに体調を崩されでもしたら困るというだけです」
実のところ、メルヴィナにもどうして自分がシノ・グウェンを気にかけているのか、理解しかねていた。
主のお気に入りなら、なおのこと自分は疎ましく思うはずなのだ。
しかし、実際には心身を案じている。
もっと言えば、守ってやらねばとすら思っている。
どう差し引いたって、この青年の方が強いだろうに。
出どころが分からない感情に、メルヴィナは戸惑いを覚えた。
二人のやり取りを笑みを浮かべながら眺めていたスサナが、
「ここがオイケインと呼ばれていた頃、大勢の人々が亡くなった。そちらにも記録は残っているだろうけどね」
表情とは対照的に、スサナの言葉は重々しく沈んでいる。
「前回の『大災厄』の最終盤に、ここでたくさんの将兵が殺され、大英雄達も数を大きく減らしてしまった。戦闘の記録を見る限り、あの戦いでの勝者は間違いなく悪魔だったはず。でも、結果は逆だった。殺戮し、勝者であったはずの悪魔は戦場から姿を消した。最も多くの犠牲を出したあの戦いを最後に、『大災厄』は収束した」
スサナの話に、メルヴィナも耳を傾けていた。
『大災厄』に関する事柄は、最も重要な秘匿情報だ。
「謎がひとつ」
「一体どうして悪魔が消えたのか、ですね」
警戒心が好奇心に負けたメルヴィナが、後を引き取った。
スサナは首肯しながら、
「不思議な話だよ。何が起こったのか、ほとんど伝わってない。直接目にした者もいたはずだけど、彼らが話すこともなかった。こういうのはどれほど秘密にしようとも、どこかで真実の欠片が漏れるもの。一つ拾い上げられたのは、それは一人の大英雄によって成し遂げられた、ということだけ」
「どうしてそんなことが分かるのですか?」
「秘密。言ったって信じないと思うよ」
胡散臭げなメルヴィナにスサナは、
「ま、その戦場にいなかった人間が考えても仕方のないことだけど。その様子じゃ、そちらの記録も似たようなものらしいね」
メルヴィナが頷き、
「レイモンドとやらに訊いてみればよいのではありませんか?」
「いい考えだ。会えたら聞いてみるよ。それにしても、いつかは知りたいものだ。ね?」
スサナは意味ありげにシノを見る。
「俺は興味ない」
「そうなの?」
「その話は……お前からは聞かねぇ」
「へ……?」
それきり、シノは言葉を発さず、窓の外を眺めていた。
スサナもそれに倣う。
──この荒野の土の色が赤みを帯びた褐色なのは、大勢の血を吸ったからだろうか。
「誰だ、お前」
不意に、シノが呟いた。
「どうかした?」
「あそこ」
シノが指さした先は、近づきつつある〈教国〉を囲う壁の向こう側。
まだかなり距離があるが、ひときわ目立つ、銀色に輝いている構造物が顔をのぞかせている。
「グレスロードの大聖堂だね。あそこがどうかしたの?」
「こっちを見てるやつがいる」
「君ね、そんなことも分かるの?」
呆れたように、スサナが言った。
「見てるというか、俺に意識を向けてきているやつがいる」
警戒したメルヴィナが腰を上げ、魔力を研ぎ澄ませる。
「君たちを中に入れるんだから、警戒して当然だと思うけど」
「こっちを窺っているのは何人かいたけど、こいつは違う。強い」
スサナは少し考え込むような仕草をして、
「心当たりがないわけじゃないけど……。危害を加えるつもりはないと思うよ」
スサナの言葉通り、向けられている意識に敵意は感じない。
シノが頷くと、メルヴィナは力を収め、慎重に浅く座り直した。
敵意はないものの、粘りつくような意識は纏わりついたままだった。
「早く……こちらへ」
感情の高ぶりからか、発した言葉は熱を帯び、微かに震えていた。
〈教国〉の統治機関にして象徴でもある、グレスロード大聖堂。
銀色に輝き、完璧な均衡の取れた真円の屋根には、無粋にも思えるほど無造作に、これまた銀色の柱が突き立っている。
その上に、〈教国〉の守り手たるレティシア・グレスロードの姿はあった。
何があろうとも、1日も欠かすことなくここに立ち、褐色の荒野を見下ろしてきた。
両の手足の指を超える数の年月が巡る間、続けてきたこの日課も今日が最後になるだろう。
荒野を見渡し、近づきつつある馬車を見つめている。
全身に白銀の甲冑を纏っているが、細い柱の上に軽やかに立つ様からは、その重さを一切感じ取れない。
二十歳そこそこの外見にはそぐわない、老成した雰囲気があった。
──長い間待ちました。
これ以上は待てないし、その必要もないでしょう。
暫く物思いに耽ったあと、レティシアは軽やかに中空へと歩を進める。
彼女の体が均衡を失う前に、踏み出した足の下には銀色の塊が現れた。
塊は意思を持っているかのように自在に形を変え、無造作に踏み出されるレティシアの足の下へとその身を滑り込ませる。
ちょうど階段を下るようにして、ゆっくりと地上に降り立った。
レティシアが先程まで立っていた銀色の柱は跡形もなく消え、聖堂の屋根は真円の均衡を取り戻していた。
地上で待っていた、同じく白銀の甲冑で身を固めた二人の聖騎士が虚空で握った右手を胸に当てて、レティシアに敬意を示した。
白銀の甲冑は、大聖堂において軍事を司る〈詠隊〉の証。
「首尾はいかがですか?」
レティシアも礼を返しながら尋ねた。
「万事整っております! 車は、今日にも到着すると思われます」
「相手は神を我が物にせんとした下劣な罪人の同胞です。決して気を緩めてはなりません。問題があれば、即時殲滅を」
「はっ、心得ております!」
「ただ……黒髪の男は必ず無傷で捕らえなさい」
「承知いたしました」
怪訝な顔をしながらも命を受けた聖騎士にレティシアは微笑みかけ、
「私自ら、罪を償わせます」
常日頃、慈愛を持って振る舞ってきたレティシアの酷薄な笑みは、歴戦の聖騎士達を戦慄させるには十分すぎた。
「しょ、承知いたしました……」
背中に冷たい汗を流しながらもう一度右手を胸へとやって、聖騎士達はレティシアの前から足早に立ち去った。
「もうすぐだからね、おとーさん」
急に幼くなった言葉は弾んで消え、聞き拾う者はいない。




