3-4 蒼銀の執心Ⅰ
「私は『一人で行く』、と言ったのです」
──変わられたな。
こうも苛烈な方だったか。
オリア・ローゼンベルクに仕える“騎士”、フェルテン・クロスは主を眼前にして跪き、恭順を示した。
つい先日までは意志なき主と言ってよかった主人が、異議を口にした自分を睥睨している。
熱すら伴った魔力の波動が、跪くフェルテンの身体を叩いた。
それは主の不興を買った証拠に他ならない。
──変わられた理由は。
結果として母親に、城に潜む〈竜狩り〉を誘き出す餌として使われたこと。
人となりが変わるには充分な理由に思えるが、今の主からは昏い淀みは感じられない。
妹を護ろうとしたであろうユリアーネ王女が護衛に付けたのが、自分を差し置いて素性も分からない人間だったことは、フェルテンの矜持をいたく傷つけてもいた。
下手人は捕縛され、フェルテンを含めた殆どの近衛の魔術師の預かり知らぬところで、一応の解決をみたという。
事情に通じていそうな、アルバスで交戦したもう一人の〈竜狩り〉と喪失者は行方知れずのまま。
当事者たるオリアは、今回の事件については一切口に出すことはなかったが、心穏やかではないだろう。
変化はその直後からだ。
「お気持ちは分かりますが、殿下を襲った者の移送に立ち会うなら、やはり──」
「くどいですよ」
「……御意」
跪き、再び頭を垂れたフェルテンを一瞥すると、オリアは軽い足取りでその脇を通りすぎる。
「なくてはならないもの、なんだから」
囁くように、しかし力を込めてオリアは口にした。
「は……?」
オリアの表情は綻び、その顔は微かに上気していたが、跪いているフェルテンがそれを目にすることはなかった。
理解できない言葉を置き去りにしたまま、オリアは既にその場にいない。
一人残されたフェルテンは顔を上げ、立ち上がる。
腰の剣がカチャリと音を立てた。
腰に佩く剣の重さこそ、『大災厄』において多大な戦果を挙げた〈鏡の魔剣〉の使い手たるクロス家の価値であり、『大災厄』における過去の功績であり、王女の“騎士”を務めていられる理由だ。
使い手として、その責に足る働きはできなかった。
こと戦場においては大戦力と名高い〈竜狩り〉を、寡勢にて制圧したのは何者だろうか。
不思議なのは、これほどの戦果を挙げた者の名前が全く聞こえてこないことだ。
ふと、ある男の顔が脳裏に浮かんだ。
「いや、まさかな」
フェルテンは頭を振って、その可能性を打ち消した。
「寒い、どうなってんだ」
夜も深まり、漆黒の夜空を見上げながら不満を漏らしたシノの口元から白い吐息が立ち昇り、冷たい夜気に僅かな熱を加えた。
久しぶりに牢から出され、凝り固まった全身に冷気が刺さる。
永久化された障壁の魔術によって、外界からの影響が遮断されている牢中では感じ得なかったものだ。
「この世界には季節、というものがあるのです。それも忘れてしまったのですか?」
呆れたようなメルヴィナが、シノへ黒い外套を差し出した。
「あそこにいると、そんなものは分からなくなる」
差し出された外套には見覚えがある。
「着てください。風邪でもひかれたら、困りますから」
「あぁ、すまん」
袖を通すと、凍てつくような外気をまったく感じなくなった。
「私のものだが、貸してやる。本来の使い方ではないが、お前になら別の意味を持つだろう」
巨大な盾を背負った大男を背後に従えたユリアーネ・ローゼンヴェルクが、憮然とした表情で冷え切った手に息を吹きかけて温めていた。
少し離れたところに、オリアが硬い表情で立っている。
何か言いかけたのか、口を開こうとして、唇を噛みしめた。
──相変わらずだな、この姉妹は。
「ご機嫌斜めか、王女さん」
「お前のせいだぞ。あんな所へ行くなんて言うから」
ユリアーネが唇を尖らせながら、恨みがましくシノへ視線を寄越した。
「決めたのはそっちだろ」
「私は反対だ。お前が行きたくないと言うのなら──」
「ボクは、マリアンネ様のご判断は正しいと思うけどね。〈竜狩り〉が入り込んでいるんだから、外の問題は早く片付けておいた方が良いでしょ? それも喪失者ひとりで片がつくのなら、尚更さ」
どこかからかうような笑みを浮かべ、旅支度を整えたスサナが周りを見回しながら、
「あら、見送りの人数は寂しい限りだけど、顔ぶれは恐縮してしまうくらい、華やかだねぇ」
まったく恐縮している様子も見せず、あっけらかんと言葉を続けた。
「私の機嫌が良くないのは、お前が原因でもあるんだがな」
スサナへ向けられる眼差しは、ユリアーネの臣下が見れば萎縮してしまいそうなほど鋭い。
「それは申し訳ありません、殿下。少し彼をお借りしますよ」
「貸してやるだけだ」
「えぇ。いつ返すかは、お約束致しかねますが」
直後、スサナの足元の土塊が弾け飛び、細長い白煙が上がった。
浅く抉れた断面が赤熱している。
スサナの笑みがひきつった。
ユリアーネの後ろに控えているコーマックが、主の前に進み出て盾を構えた。
「言っておくけど、ボクがやったんじゃないからね」
「笑えない冗談はやめて」
ひとり口を開いたのはオリアだった。
口調は冷静だが、怒りのほどはまだ赤く燻っている浅い穴が物語っている。
「へぇ」
再びスサナの顔に浮かんだ笑みは、好戦的なものだった。
いつか向けられた殺気を思い出し、無意識にシノが身構える。
「娘の無礼をお許し下さい、〈教国〉の使者殿」
その声を聞くと、シノとスサナ以外の全員が直立の姿勢をとった。
後ろに黒いローブで身を包んだ魔術師を従えながら、マリアンネ・ローゼンヴェルクは頭を下げて謝意を示した。
ユリアーネは怪訝な顔をし、オリアは目を丸くした。
一使者に過ぎない者に、魔術強国の実質的な元首が頭を下げる。
ユリアーネが気になったのは、マリアンネという人間が目的もなくそういうことをするはずもない、ということだ。
マリアンネにとって、この少女にはそれほどの価値があるということを意味している。
「いえ、我々が受け取るモノの大きさに比べれば、些細なことです。今回の件について〈教国〉は関知しません」
スサナも殺気を収め、残りの面々を尻目にシノの手をとった。
「行こう」
「お前、一体なんなんだ?」
「ひどい言い草。ボクはただのスサナ・レモンだよ。でも、君もおとなしくついてくるなんて、少し意外だね」
「意外?」
「だってさ、君、ここが気に入っていたんじゃなかったのかい? だからオリア・ローゼンヴェルクに手を貸して、〈竜狩り〉と戦ったんだよね」
「別に手を貸したわけじゃねえし、端くれの為に戦ってもいねえよ」
「解らないな。ならどうして戦ったの? 〈竜狩り〉は簡単な相手じゃなかったでしょ」
シノは一瞬考え、
「……自分のためだ」
「……えーっと?」
シノの言葉が冗談なのかどうか、推量りかねている、といった表情。
「なんだよ」
「どうしてそんなふうになっちゃってるのかは知らないけど、まぁいいよ。こっちには都合がいいしね」
「……それに、〈教国〉に行けば何か分かる気がしたから」
「何が、分かるの?」
スサナがシノの顔を覗き込む。
そのままスサナと目を合わせていると、何かが引きずり出されそうな感覚に襲われた。
曇天下の広大な荒野、地を汚す黒ずんだ赤の濃淡。何かを諦めてしまったような諦観が混じった絶望と焦燥──。
「……ッ」
不意に、腰に佩いた魔剣が耳障りな音を立てて震え出す。
(シノ、戻って)
久方ぶりに頭の中に走った魔剣の声からは、懇願するような切実さが感じられた。
魔剣の声を聞いて、シノは平静を取り戻す。
音を立てて震える剣の柄を、なだめるように掌で包み込んだ。
「なぁ、ところで〈教国〉に行くには、まさかあの訳の分からんスクロールを使うんじゃないだろうな? 俺はあれが嫌いなんだ──」
「空間制御術式にも制約はある。好きな時に好きな場所へと移動できるような、便利な代物ではない」
答えたのは、全身を黒い外套ですっぽりと全身を覆い隠した、いかにも怪しい風体の魔術師。
ただ、教師が生徒の質問に答えるように、その言葉には微かな温かみがある。
「そうなのか。よかった」
「君が近頃、マリアンネ様にお仕えになっているという魔術師さんなのかな? さすが、只者じゃなさそうだ」
「一人の魔術師が侵した禁忌の情報を得るために、唯一の目撃者を一時的に〈教国〉に連れ帰る……。好きにするといい。ただ、それ以外の余計な詮索はしないことだ。お互いに知られたくないこともあるだろう?」
先ほどとは対照的な硬く冷たい声で、黒いローブの魔術師が吐き捨てた。
「それ、隠し事があるって言ってるようなものだよ? こっちはもう話がついてるんだ」
「最初の質問の答えだが、私はマリアンネ・ローゼンヴェルクに仕えているわけではない。言っている意味が分かるか?」
「もちろん」
「よく覚えておくことだ」
短く答えると、黒いローブの魔術師は、再びマリアンネの後ろに控えた。
「さて、そろそろ時間だ。出発しようか」
「このままか?」
シノが枷の外れたままの手足を示す。
「我らが〈教国〉の守護者様は、君が拘束されることを望んではいないんだ」
「そりゃ慈悲深いことで」
「そうだね。後でお礼を言ってあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」
冗談とも本気ともつかない言葉を返して、スサナは車に乗り込むように促した。
「行ってくる、王女さん、端くれ」
「戻って、くる?」
オリアの言葉は、質問というよりは確認。
──強い目だ。
「俺は囚人だからな。囚人は枷をはめ、鎖に繋がれて牢に入っているものだ」
「……うん」
その後ろで、ユリアーネがメルヴィナの手に紙片を握らせる。
「メルヴィ、頼んだぞ」
「はい」
紙片をしっかりとしまい込み、メルヴィナが頷いた。
全員が乗り込むと、車を引く二頭の馬がひとつ嘶き、車輪が回り始める。
(もう知らない)
魔剣はぽそりと呟いたきり、また黙り込んでしまった。
御者もいない一台の馬車が、騒がしい車輪の音をたてながら王都の門をくぐり抜けていった。




