2-21 破魔の一擲Ⅴ
背中に感じる石床の冷たさと硬さに、あまり嬉しくない懐かしさを覚えながらシノは目を開けた。
長時間の重労働をこなした後のように体は怠く重たい。
「あ、起きた」
鉄格子の間から、オリアが覗き込んでいた。
古びた黒い剣は房の隅に立てかけられてある。
「またここか……」
前と違うのは、目を開けて最初に目にした人間が殺気だった金髪女ではなく、心配げな顔をした端くれだったということか。
「あの獣もどきはどうなった?」
「死んだわ」
「……死んだのか」
心臓を掴まれるような悪寒とともに、褐色の景色の中に散らされた赤の色彩がシノの脳裏をよぎった。
その景色は、ずっと心の深いところに燻っている焦燥感を煽るものだ。
「お母様が連れている魔術師と姉さんが止めを刺したの」
憤慨するオリアをよそに、シノは密かに安堵した。
──殺したのは俺じゃない。
俺が殺したのは中にいた『魔』だけだ。
「浅ましいな……」
あれだけ深く混じり合っていれば同じことだ。
ほとんど一体化してしまっていた獣を殺せば、止めなんかなくても宿主はいずれ死んだだろう。
「もう一人は?」
「もう一人?」
「アルバスでお前を襲ってきたヤツだ」
「知らないわ。シノがやっつけてくれたんじゃないの?」
「いや、色々あってな。一緒にここに来た」
「一緒に!? 一体どうやって?」
オリアは目を白黒させる。
敵と行動を共にしていたという事実は、今後シノにとって不利に働くかもしれない。
「真っ黒ローブの魔術師にスクロールを貰った」
「空間制御術式の……」
アイン・スソーラにおいて最も厳重に管理されている魔術の深奥。
それを刻んだスクロールがどれほど貴重なものか。
一人の魔術師がおいそれと持ち出せるものではない。
「お母様が許したということ……?」
──レヒツ・アルムを死なせない為に。
この願いは間違いなくあの凶手のものだ。
それがシノの中にこびりついている。
「どうしたの? どこか、痛むの?」
疲れで巡りのよくない思考を打ち切り、格子に顔を押し付けるようにしてオリアが表情を曇らせた。
「いや、大丈夫。お前こそこんな所で何をしてるんだ?」
オリアは魔剣にちらりと目を向けながら、
「ちょっと様子を見に来ただけよ。言いたいこともあったしね。そしたら、ちょうどシノが起きたから……」
(嘘)
不意に口を挟んだ魔剣がクスクスと笑いながら、シノへと言葉を響かせる。
(だってこの娘、ずうっとここにいたわよ? 何度か姉の方が来ていたけれど、動こうとはしなかったわ。自分だって疲れているでしょうに。可愛らしいものじゃない。ねぇ?)
当然、返事はしない。
「言いたいこと?」
「お礼をね、言おうと思って。その……護って、くれたから」
「必要ない。王女さんの命令だったし、もう終わった」
「姉さんの……」
オリアが噛みしめるように呟いた。
仄暗い感情が顔を出す。
ただ、それは以前抱いていたものとは別種のものだ。
「まだ思うところがあるのか? あっちはずいぶんお前のことを心配してるように見えたけどな」
「私はただ……、あ」
「何だ」
「そういえばシノ、前にアルバスで言ってたでしょ? わたしと姉さんが紛れもなく姉妹だって」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったわ。覚えてる。あの答えを聞けなかったから、ちゃんと言って」
オリアはそっと期待を込めて視線を送った。
「あれね……。そうだな」
間をおき、シノは真面目くさった顔で、
「簡単なことだ。人間には遺伝ってのがあってな。血の繋がりを持つ者同士、特に外見については共通点がある場合が多い」
「……はい?」
オリアの中の期待が急速に薄れていく。
「例えば身体的な特徴、とかな」
そう言っているシノの視線は、ユリアーネも同じみ空色の髪ではなく、しっかりとオリアの胸元を捉えていた。
「もうッ!」
ひひっ、とシノは下品に笑った。
でも、とオリアは思う。
こういうふうにシノが笑う時は、単なる照れ隠しなんじゃないかと。
だって、助けに来てくれた時の笑顔は透明で、思わず目を奪われた。
でも、良いことばかりではない。
同時に、あの笑顔は自分の中に醜い欲も生んだのだ。
ほんとうにこの男には心をかき乱されてばかり。
「本当にもう……」
「だから礼は受け取っておくけど、気にする必要はない。俺は自分のために役目を果たした結果として、お前を護ることになっただけだ。それに、お前はもう影じゃない。少し、眩しくなった」
シノの返答は、オリアにはどこか牽制しているように感じられた。
もちろん、汲んでなんてやらないけど。
「そう。……だったら、わたしが自分のために勝手にシノを助けても文句はないわけね?」
呟くような声だったが、他に音もない空間でははっきりと聞き取れた。
「え?」
シノが目をしばたたかせる。
何を言われたのか分からない、そんな顔だ。
「私の目的の為に行動した結果として、シノを助けることになるだけ。だから別に気にする必要なんてない。……もう、決めたからっ」
オリアは一息にまくし立てると頬を染め、シノを驚かせたことに満足感を抱きながら、逃げ出すように唯一の出入り口に向かう。
「また、来るからね」
背中越しに言葉を放りだして、オリアは走り出した。
これは報復だ。
そして、紛れもなく自分の為でもある。
だって、シノ・グウェンがこんなところにいては、わたしの望みは叶わないんだから。
「え、あ、おい──」
応えたのは、軋みながら閉まった扉の音だけ。
「一体なんなんだ」
(気づいてるくせに)
先程のオリアの視線には、以前とは違う熱が含まれていた。
「誰も得をしない。端くれもいずれ気付く。喉が乾いて死にそうな時に水を恵んでくれたヤツのことは、どうやったって好ましく思うもんだ」
(前にも言っていたわね。それは貴方の経験なのかしら?)
「かもな」
(そう。まぁ、あまり女の執念を甘く見ない方がいいわよ。私の経験からだけれど)
「お前は剣だろ」
(だからこそ、たくさんの人間を見てきたの。痴情のもつれで男を刺した担い手もいたわ)
「心に留めておくよ」
「以前、メルヴィから聞いたことがあるが、本当に独り言を話しているんだな」
艶めいた声が、おかしそうに笑う。
誰だ、と聞くまでもなく、シノにとっては耳慣れた声だ。
少し遠く聞こえるのは、声の主が両腕いっぱいに大事そうに抱えている荷が、顔を隠しているからだろう。
「音もなく入ってくるな」
「仕方ないだろう、できれば誰にも気付かれずにここに来たかったのだ。オリアも今は私と会いたくはなさそうだからな。だが、おかげで面白いものを見れた」
ユリアーネが抱えた荷をそっと床に下ろした。
いつもならメルヴィナかコーマックが控えている彼女の後方には、ローブと外套ですっぽりと全身を覆った黒ずくめの魔術師が立っている。
「楽しんでくれて何よりだよ。前から思ってたけど、この国の王女は暇なのか?」
「もしそうなら、こんなふうに隠れてこなくてもいいのだがな。やるべきことは多いが、任を果たした者を労うくらいの時間は作れる、というわけだ」
「それに今日は珍しいヤツがついているんだな。この前は殺されかけてたけど、仲直りでもしたのか?」
「不思議なことに、私がお前と会うのはこの者の目の前でなければならないとのお母様のお言葉だ。まったく不思議なことだな」
責めるようなユリアーネの言葉にも、魔術師は微動だにしない。
「……それは今はいい。不思議なのはお前もだぞ、シノ。あの戦技、喪失者というのは皆そうなのか?」
そう言って、ユリアーネはシノをじっと観察する。
シノもユリアーネを見返すが、その顔が少しやつれているように感じた。
流れる精気にも力がない。
「寝ていないのか?」
「身なりは整えてきたつもりだが、分かるか。事後処理はもうすぐ終わる。私が休むのは、その後でいい」
視線が絡み合ったまま、さらに時間が過ぎる。
狭い房の中で、シノは居心地悪そうに身をよじらせた。
そして問う。
「なんだよ」
「告白すれば、私はお前を好ましく思っている」
「光栄です、とでも言えばいいのか?」
ユリアーネは、いいや、と首を振る。
「妙なことだ。私はあまり他人を信用できる性分ではないし、ましてや大切な妹を会ったばかりのこんな男に託すなどありえない」
「……俺を労いに来たんじゃないのか?」
「だが、実際にはお前を一目見て信頼し、自分のモノにしたいと思った。その気持ちは今も強くなってきている。お前を見ていると何か落ち着かないんだ。胸が騒がしくなる。まるで、忘れていることを思い出せないような、な」
(この小娘、勘が鋭いわね)
「何が言いたい」
「ここで会うよりも前から、私を知っていたか?」
ユリアーネはシノに探るような目を向けた。
「もちろん。この国じゃ、王女さんは有名人だろ」
視線を先に外したのは、今度はユリアーネだった。
「……まぁいい。労いにきたのも嘘ではない。約束もしたことだし、褒美をやろうと思ってな。確か、美味いものが食べたいと言っていたろう?」
そう言って、得意げに持っていた袋からパンと肉を取り出した。
埃っぽい湿った空気の中に、魅力的な香りが漂った。
「温めてみた。こういう力の使い方も悪くない」
シノの目はユリアーネの手に釘付けだった。
だが、ユリアーネは持ったまま、シノに渡そうとはしない。
「なんだよ、見せびらかしにきたのか?」
「渡す気がなくなったな」
「は?」
「これを調達するのに、私はこそ泥じみた真似をする羽目になったのだが、お前は感謝の一言も──」
「ありがとう」
間髪入れずシノが言ったが、ユリアーネは益々顔をしかめ、パンを袋に戻した。
「そりゃないだろ、おい」
「思い返せば、私が入ってきたときもあまり嬉しそうではなかった」
険しい表情のまま、ユリアーネがシノを手招きする。
「なんだよ」
シノは露骨に怪しんだ。
「欲しければ、来い」
警戒しながら、シノは慎重に近づいていく。
「ほら、食え」
パンを千切り、鉄格子越しにシノに差し出した。
「犬かよ……」
文句を言いながらも、抵抗する手段はないので、大人しく受け取り、口に運ぶ。
「美味いか?」
「あぁ。次は肉がいい」
「ふむ」
「なんだよ」
「私は今まで愛玩動物を飼う、という行為は理解できなかったが、少し分かった気がしたぞ」
「どういう意味だこら」
本来であれば無礼な言葉も、ユリアーネには何故か懐かしくも心地良い。
「まぁ、愛玩というには可愛げがなさすぎるがな」
手元の食料がなくなると、手についたパンくずを払いながら立ち上がった。
「オリアを守ってくれたことには感謝をしている。だがもし、あの子を泣かせたりしたら氷の彫像にしてやるからな」
「殺風景なここも、少しは華やぎそうだな」
「そうだろう。ちゃんと綺麗に仕上げてやる」
「そろそろこちらの話もいいだろうか」
それまでじっと立っていた、黒いローブの魔術師の入ってきてから初めて発した言葉には棘があった。
「あぁ、すまない。そうだったな。話をしてくれ」
ユリアーネが後ろへ下がり、格子の前をあける。
魔術師は突っ立ったままだ。
「どうして殺さなかった?」
言葉からは、隠そうともしていない明確な憤怒が滲み出ていた。
誰を、などと惚ければ火に油を注ぐことになりそうだ。
「やることはやっただろ」
「甘い男だ。ベイデ・ベインを殺さなかった。そのせいで、反撃の機会を与えることになってしまった。……まさか、殺せなかったのか?」
「好きに想像してろ」
「そして、何よりもお前の手落ちだ」
誰に言葉を向けたのか、シノには分からなかったが、ローブの魔術師はシノの側にある剣を睨んでいる。
(手落ちも何も、手なんてついてないもの)
魔剣の声は聞こえていないはずだが、魔術師は言葉を続けた。
「情けをかける剣など、欠陥もいいところだ。あの死に損ないが魔術を発動させていたらどうするつもりだった? その悪癖のせいでまた主を失うことになるぞ」
(……黙りなさい)
「二度と忘れないように、刃にでも刻んでおけ。お前の役割は担い手の、シノ・グウェンの敵を殺すことだ」
魔術師はまだ何か言いたげにシノの方を向いたが、それ以上は言葉を発することなく踵を返した。
牢と城内を隔てる扉の向こうからはユリアーネを探すメルヴィナの声が微かに聞こえる。
「おっと、私も行かないと。メルヴィの説教を覚悟しなければならないな」
「お前、あいつを知っているのか?」
(いいえ。でも、向こうは知っているみたいね。それよりも、どうして言わなかったの?)
「何をだよ」
(記憶のこと。説明してあげればよかったのに)
「どうせ言っても信じねぇだろ」
(嘘ね。言えば、あの娘が自分を責めるとでも思ったんでしょう)
「そんなに優しい人間に見えるか?」
「いいえ、見えないわ。でも、あなたが人間にとって優しい存在なのはよく知っている。優しい、という言葉が適切なのかは分からないけれど、不安になるほどに、ね」
「……」
(ごめんなさい。わたしが言うことではなかったわね)
気まずい沈黙が続きそうな気がして、シノは話を変えることにした。
「そういえば、今回は忘れられていないみたいだな」
(そのようね。でも、わたしはちゃんと対価を貰っている。よく分からないけれど、よかったじゃない)
「代わりに誰かの命を奪った……というわけじゃないだろうな」
(考えたって分からないことは仕方ないわ。それより、貴方の目的は果たせたのかしら?)
「目的?」
(呆れた。居場所を作るって自分で言っていたじゃない)
「……あぁ」
(ほんとにそれが目的だったの?)
「当たり前だろ」
そうだ。
そのはずだ。
そうでないとおかしい。
どうして見失ってしまっていた。
自分のために戦うのはなにもおかしなことじゃない。
ちゃんと目的を思い出したんだから、俺は大丈夫だ。
(そ。あまりお勧めできない目的だけれど。もう自分以外の為に戦うのはやめておきなさい。そんなの、絶対に上手くいきっこないんだから)
「分かってる。そんなことしたって、どうせまた──」
自分で発した言葉に驚いたように、シノは口元に手をやった。
何かどす黒くて苦いものが胸に溜まる。
「また……なんだ? なぁ、俺は──」
遮るように、魔剣が言葉を発する。
(少し、疲れたわ。今回は私も色々と働いたしね)
その声の温度はひどく低い。
──いけないいけない。
ついお喋りが過ぎてしまった。
今代の担い手には余計なことを言ってしまう。
今までそんなことはなかったのに。
この担い手が辿るであろう結末を予期しているからかもしれない。
魔剣としての力を十全に引き出せる者への執着……、というよりは哀れみか。
だが、いつまでも曖昧に誤魔化せるものではない。
色の落ちた箇所を塗りなおしたところで、元通りにはならないのだから。
ひとまずは生き延びてくれた。
少なくともあと一度は全力で振るってもらえるということ。
それは喜ばしいことであるはずなのに、剣は陰鬱な気分に苛まれながら、暫く眠った振りをすることにした。
2章終了です。




