2-19 破魔の一擲Ⅲ
剣を持つオリアの手から重さが消える。
「今回の俺の役目は」
不意に横あいから伸びてきた傷だらけの手に、握りしめていた魔剣が渡った。
「オリア・ローゼンヴェルクを傷一つつけずに護ることだ」
オリアに身体の震えはもうない。
「シノッ!」
待ち望んだ顔がそこにあった。
ヘラヘラと顔の端っこで笑っている。
「こんなところに皆さんお揃いで。なんだ端くれ、やっとやる気になったのか」
「分からない……。シノは生きろと言ったけれど、それが恐ろしいの。私が生きている限り、犠牲が増え続けるかも知れない。人はすぐに死んでしまうから」
「そうだな。どんなに鍛錬を積み、どんなに強くても、死ぬときは死ぬ。世界は死因で溢れてる。でも、少なくとも今この場でその心配はいらない」
「……どうしてそんなことが言えるの」
「なぜなら俺がいるからだ」
満身創痍の体で、シノはそう言った。
立つのもやっとの有様で、しかし自信に満ちている。
「信じて、いいのね」
「信じてくれたから、俺がここにいるんだろ?」
そう言って、シノはにこりと笑った。
ついさっき見せた笑みとは違う。
混じりけのない笑顔はなんていうか、とても希少なモノのような気がした。
「……っ。では命令です、シノ・グウェン。魔術師ベイデ・ベインを打倒しなさい」
「りょーかい」
シノはベイデへ向き直る。
既に脳の奥が熱い。
間違いなくアレは消さなくてはならないモノだ。
そして、今ならアレと戦えるという確信がある。
冷静さを取り戻したベイデが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
──その身体で何ができるというの。
「さっきはどうも」
「びっくりした。殺したと思った相手が生きていた、なんてことは初めて。いつもはちゃんと死体を確認するんだけど、急いでいたの」
「心配しなくていい。そんなことは今回が最後だ」
「そうね。今後はないように気を付けるわね」
「必要ない」
「どういう意味?」
「もう次はない」
「あなた、面白いわね。レヒツが殺し損ねただけのことはある。でも、あの子は優しいから。相手がローゼンヴェルクの第二王女となれば、ひょっとすると見逃すんじゃないかとは思っていたけど、贖罪のつもりなのかしらね」
「……やっぱり、あんたが相棒なのか」
「レヒツがそう言っていたの?」
「相棒だから自分が始末をつけないと、と言っていた」
「そう。なら、ますます時間はないというわけね」
「退くという選択肢はないのか? 勝ち目が薄いことくらい分かるだろ?」
「第二王女を殺し、レヒツを死なせさえしなければ勝ちよ。私が生き延びる必要はない」
「そっちの事情に興味はない。でも、望むならあんたらが自由になる手助けをしてもいい」
「……さっき、あなたのこと面白いって言ったけど、訂正するわね。あなた、一番嫌いな類の人間だわ」
ベイデの殺意が、敵意を伴ったものになる。
「そうか。別にどうしても助けたいわけじゃない。ここで俺が護るのは端くれ一人だけ。〈シノ・グウェンが、その意義を証す──俺がお前の敵だ〉」
その言葉は敵に向けられたものではなく、ましてや詠唱と呼ばれる魔術発動の手順でもない。
ただ、自らに言い聞かせるためのものであるようだった。
しかしその言葉で、損傷した身体が癒えはじめる。
口にしたことを実現させる為に。
獣の瞳が揺らぐ。
それは困惑に他ならない。
なんだこれは。
暗示の類いか。
ならば傷が癒えていくのはどう説明する。
何の魔術も用いることなく、傷を癒している。
いや、そもそも力の源は──。
「なんだ、もうちょっと治してくれてもいいだろ」
傷が癒えきらない腕を二度、三度振って、シノが魔剣を抜き払う。
(治癒はわたしの領分ではないわ。それだけしか治らないのなら、それで充分ということかしらね)
この国ではあまり見られない片刃の曲剣。
シノの視界が闇に閉ざされるが、そんなことはもう関係がなかった。
癒えきらなかった傷口から、血が魔剣を握る腕へと伝って、剣身に赤い筋を作る。
(その……いいのね?)
案じてくれているのが分かったが、聞き入れるつもりはもとよりない。
必要なのは謝罪よりも礼だろう。
「ありがとう」
(……そう。なら死力を尽くして、目的を遂げなさい)
シノが唇を湿らせる。
今から紡ごうとしている言葉は、今度こそ自分を破滅させるかもしれない。
後ろの少女と、周りの人間の中の自分。
また忘れられるのかと思うと足元の地面がなくなったかのような心地がするが、力の行使をやめる気にはならない。
それどころか殺意に衝き動かされ、どんな犠牲を払おうとも目の前の存在を消し去れと、思考とは違う部分が喚き散らしてくる。
城の魔術師が民を護るように、目前の凶手が標的を殺そうとしているように、自分も『魔』を消し去るのだ。
何も特別なことはない。
「血刀……点火」
唇の間から空気の漏れるような弱々しい呟きとともに、剣身が紅い光を帯びる。
揺らめく光は見る者に炎を思わせた。
彩色を纏う剣とは対照的に、シノの身体は色を落としてゆく。
血の気は薄くなり、髪は黒から灰色へ。
光が戻り、赤く染まった視界には人型が一つ。
だが、アレはもう人ではない。
消さなければならない、存在を許してはならないモノだ。
(手早く済ませなさい。あんなのは端肉もいいところなんだから)
──なるほど、端肉か。
「あぁ、そうしよう」
答えは抑揚がなく、いつもの軽く適当だが、後ろに温かさのある声とは違う。
「シノ──」
いい知れない不安を感じたオリアがシノの顔を覗き込むようにしながら、ハッと息を呑んだ。
その瞳は瞳の向こうに流れる血潮の色を映した、禍々しいほどの紅玉だった。
ひと目見て分かった。
コレはきっとシノ・グウェンではないのだ。
湧き出てくる恐怖が止まってくれない。
その恐怖に自分の中の何か大事なモノが根こそぎ押し流されてゆくような、そんな気がした。
それはベイデも同じであるらしく、歩を進めるシノから逃れるように後ずさった。
「目を逸らすな」
意思とは関係なく後ろに下がろうとしたオリアを、鋭い声が制した。
「お前もだ、第一王女。記憶になくとも、お前にも見る義務がある」
振り返ると、黒いローブをすっぽりと被った人間が立っていた。
マリアンネの側に侍る魔術師だ。
「あなたはお母様の……」
「これはお前の戦いだろう、第二王女。自分が振るった剣のもたらす結果を、過程も含めて見とどける義務がある。心配は要らない。シノはお前の望む結果を持ち帰る。……見ているぞ、シノ・グウェン。力を振るうといい」
最後に小さく付け加えた言葉は、オリアの耳には届かなかった。
生命を糧に揺らめく魔剣の光は、魔に染まった者に望まぬ後退を余儀なくさせる。
ベイデは紅い光を厭うように左手から蒼い炎を放つが、袈裟懸けに一閃された刃の前に薙ぎ払われる。
やがて後退は壁際で止まった。
ベイデの瞳がオリアを捉える。
オリアは怯むことなくその殺意を受け止めた。
敵は、その場における最も力の劣る者を的確に把握していた。
両足の蒼い鱗が光を纏う。
蒼い鱗はベイデの右腕にまで及び、手のひらは形を変え五指の先には鋭い爪が突き出されている。
恐ろしい姿に足が漉くんだが、すぐにそれも治まった。
最強の剣が共にあるのだから、何を恐れることがある。
ベイデの姿がかすむ。
背後の壁を蹴りつけ、シノの上を飛び越えたのだ。
アイン・スソーラではまず目にする機会のない身体強化の魔術。
肉体が変異し、強化された人外の動きを目で追うのは不可能だ。
飛び上がったベイデはオリアの背後に着地を果たす。
「オリア──」
ユリアーネが即座に氷の槍を創り出した。




