2-18 破魔の一擲Ⅱ
──人を殺しちゃダメだよ。
その言葉を言われたのは、もう十年以上も前だったろうか。
そんなことは知っている。
人を殺してはいけないからこそ、自分のような役割が必要となるのだから。
“仕事”を完遂し、血が夥しく飛び散った凄惨な現場で、まだ幼さを残した少年が無垢な瞳でそう言ったのだ。
ここに住むのは母と娘の二人だけのはずだった。
見せしめにでもしたいのか、できるだけ無惨に殺せとの命令であったので、殺した後に四肢を切断した。
効果の程は、言葉を失くし、隅でただ震えている娘を見れば満足がいく仕上がりだったとわかる。
事情は知る必要もないが、この女が生きていると困る人間がいるのだろう。
当然に過ぎる言葉に対して、何と答えたのかは憶えていない。
あぁ、とか、いや、とか曖昧な言葉だったような気がする。
ただ異様だったのは、少年は恐れるでもなく、泣き叫ぶでもなく、ただ純粋にこちらを嗜めていたことだ。
“仕事”を見られたのなら必ず殺すのが鉄則だったが、
「名前は?」
馬鹿みたいな言葉を吐いていた。
後になって思えば、そんなことを尋ねてしまった時点で負けだった。
「……さぁ。コレでもアレでも何でもいいよ」
「ここの子供ではないの?」
物言わぬ死体を顎でしゃくる。
ふるふると少年は首を横に振った。
よく見れば肌は薄汚れ、くすんだ衣服の伸びた手足は棒切れのように痩せていた。
しかし、眼差しには強い力があった。
「もしかして、君にとって大事な人だったのかな。私が憎い?」
また少年は首を横に振った。
「まだ」
おかしなことを言う。
「まだ?」
「あの娘を殺したら憎む、と思う」
そう言って、娘を見る。
はじめて、娘の顔をはっきりと認識した。
薄く青い髪色をした少女だ。
恐怖ゆえか、いつの間にか気を失いぐったりと動かない。
「ああ、そっちは予定にない」
「よかった」
感情が分からない子供だ。
「一緒に来る?」
そう言ったのは、あまりにも無感情に見えるその子の感情が動くところが見たかったから、だと思う。
憐れみではなかったはずだ。
或いは『大災厄』の折、戦場で拾い上げた子供を連れたまま転戦した大英雄がいたという話を耳にしたことがあったからかもしれない。
正直に言えば、孤独に飽いていた。
だが何よりも、悲惨な状況において何にも依存しなかった少年の強さを、私は買ったのだ。
色よい答えは期待していなかった。
少しでも躊躇ったのなら、殺してしまおうと考えていたが、相手はすぐに大きく頷いた。
「ひとつ約束して。自分で選んだんだから、これから君がさせられることに泣いたり、怒ったり、諦めたりしないで。ただ笑っていなさい。できる?」
そんな卑怯な予防線に、少年はぎごちない笑顔を作って応えた。
こうして私は拠り所を手に入れ、少年は名前を手に入れた。
力を手に入れるために少年が人として大切なものを喪ってゆくたびに、私の孤独は満たされた。
その罪に気付いたのはつい最近。
既に取り返しはつかない。
ならばせめてできるのは、レヒツ・アルムをベイデ・ベインより先には死なせないことだ。
扉に掛けられたユリアーネの魔術の解除は瞬きする間に終わった。
まるではじめから存在しなかったかのように痕跡も残さずに魔術は無へと帰した。
(ねぇ、どこに向かってるの?)
室外へ出ると、オリアはそのまま上へ上へと階段を駆け上がっていく。
「お城の中でいちばん逃げるのが難しい場所」
そこは主塔の天辺、犯した罪を明らかにすることさえも憚られる重罪人が入る特別牢。
中は灯りをつけても薄暗く、埃っぽい空気が滞留している。
(思っていたよりも大胆なのね、貴女は)
永久化された防御の魔術がいくつも重ねられ、存在するほぼ全ての魔術を拒む。
最奥には、唯一の囚人であるシノ・グウェンの房がある。
もちろんそこには誰もいないはずだった。
「驚いたな。私が扱える魔術の中でも強度の高い守りを施したつもりだったが」
低く、聞く者に艶を感じさせる声が淀んだ牢の空気を震わせる。
オリアと同じ色の長い髪を肩の向こうへ流しながら、ユリアーネが感心したようにそう言った。
傍らには盾を背に負った男と槍を手にした少女が控えている。
(ふん、あんなのは守りのうちに入らないわ)
「お姉さま……」
「姉の心遣いを無駄にしおってと叱ればいいのか、よくやったと褒めればいいのか難しいところだな。囮になろうとでも思ったか。考えることは同じだな。しかし、私には力があるがオリア、お前には──」
黒い魔剣を握りしめ、オリアが反論しようとした時、
「いや、もう言っても仕方のないことか」
牢の入り口から薄暗い奥へと影が伸びる。
槍を手にしたメルヴィナと背の盾に手を掛けたコーマックが、ユリアーネとオリアの前に立った。
「殺していいのは第二王女だけ。『槍』と『盾』の出る幕はない」
「仮にも元近衛の魔術師とは思えない言葉ですね。国境で襲ってきたのはあなたですか?」
メルヴィナが槍をぴたりとベイデへと向ける。
「ちょっとした挨拶でしょ。そんなに怒らないでよ。それにそんなものじゃ、私を貫けない」
「……〈竜狩り〉か。その鱗、蒼の竜狩りだな?」
唸るようなコーマックの声。
「おや隊長殿、そんなに長い言葉が話せたんですね。ご指摘の通り、この身に宿すは蒼の竜。力は紅の竜ほどではありませんが、人間を殺すくらいわけはない。こんなふうにッ」
少し姿勢を低くし、ベイデは全身を引き絞り、力を解放する。
わずかな動作で強弓に射られた矢のような速さで飛び出したベイデは、前に護ったコーマックとメルヴィナの横を駆け抜けようとする。
二人が速さを認識したときには、既にベイデはオリアの首に手が届くところにいることだろう。
そして応戦される前に、オリアを絶命させる。
確かな目算をもって、ベイデは正面きって駆け出した。
しかし、金属に肉がぶつかる鈍い音と共に駆けてきた道を数歩戻されたのはベイデだった。
盾に打ち据えられ、よろめいたベイデに向かって白雷が走る。
白い閃光に打たれ、ベイデは膝を落とした。
放たれた雷は、蒼い鱗に僅かに黒い焦げ跡をつけた。
扉のように閉じられた双盾の向こうから、低い唸るような声が聞こえる。
「城門は閉ざされている。隙間などない」
行く手を阻んだのは巨大な二帖の盾を持ち、鈍重なはずのコーマック。
「これが『城塞』……。属性の見当もつかないわね」
それは即ち、ベイデには対処する術を持たないということ。
「投降するか?」
ベイデは不敵な笑みを浮かべて、首を横に降る。
「いいえ。門が開かないのなら、城ごと壊しちゃえば良いだけ。私はね、魔術について下らない自尊心なんか持ち合わせてないの。足りないなら持ってくればいい。いくらでも、ね」
ベイデが内に巣食う獣の枷を緩める。
(きっと無傷では済まないわねぇ)
芝居がかった魔剣の声が、戦況の行方を見守っていたオリアの脳を揺らした。
手に持った魔剣からは仄かに熱が伝わってくる。
「え?」
(どこから持ってきたかは知らないけれど、力は盾の男を上回っているわ)
「また──」
犠牲が。
(でも貴女なら何とかできるでしょう? 姉にはできなくても、今の貴女になら。強い剣も持っていることだし)
──わたしなら。
そうだ、アレに負けない強い剣を持っているじゃないか。
後は抜きさえすればいい。
もちろんそれは、いま手にしている魔剣ではない。
「おい、オリア──」
ユリアーネの制止の声を振り切って、オリアはベイデの前に立つ。
ベイデの速さからすれば、首に手を掛けるのに一息とかからない。
(そうよ、いいわね)
この距離ならば、たとえコーマックとメルヴィナであっても間に合わない。
ベイデの殺意に射抜かれ、オリアの脚は竦み、身が震える。
相手は違えど、これがアルバスでシノの見ていた世界。
「……何をすればいいの」
(そこに滅ぼすべき魔があり、求める声があり、私がある。だったら、顕現させることは容易いわ。きっと、ああいう存在を殺すためだけにあの子はいるのだから)
「どういうこと?」
(理解しろなんて言わない。世界の法則も魔術の原理も関係ない。ただ、あなたは想像するだけでいい。その姿、あり様、正確にね。決して世界が間違えないように。もっとも、そんなことは簡単でしょう? 好いた男の姿なんて、考えたくなくても頭に浮かんでしまうものだし。ね?)
「ちょっと黙ってて」
ベイデはすでに腕を振り上げている。
人外の力で振るわれる鋭利な爪は、人間の体など紙くず同然に切り裂くだろう。
目を閉じて魔剣を前方へ突き出し、自身に迫りつつある死を思考の外へ追い出して、オリアは己が剣に想いを馳せる。
目を閉じて、その姿を夢想するだけで身体は僅かに熱を持つ。
同時に、底冷えのするような恐れも。
それは次第に大きくなり、生じた熱をさらっていこうとする。
オリアは自身の力が大量に流れ出るのを感じた。
直後に目前で衝突音。
ベイデの爪を防いだのは、オリアの前に出現した壁のようなものだった。
またも正体不明の魔術に阻まれ、ベイデは警戒したように少し離れた。
(早くしなさい。次は防げないわ)
もちろん分かっている。
自分の魔力はもう尽きてしまっている。
(正確に想像して)
「さっきからやってるってば! どうしてできないのよっ」
(貴女が信じきれていないからよ。まだあの子が死ぬことを恐れている)
「だってそんなの仕方ないじゃないの。もう誰も死んでほしくない……」
──特に彼には、絶対に。
(だから言っているでしょう。あの程度、足元にも及ばない)
「でも、でも……」
(貴女が死ねば、シノも無事ではすまないわよ)
「え?」
(命令を果たさないことが許されていないあの子が、その命令をもはや果たしようがなくなったら、どうなるのかしらね。存在意義に齟齬が生じてしまったら、一体どうなるのか)
標的の力が弱まったのを見て取り、警戒し様子を窺っていたベイデはふたたび風となった。
今度こそ、命を刈り取られるだろう。
でも充分だった。
我ながらなんという単純さか。
迷いはもう消えている。
魔剣の言葉通りに彼の姿を想い描き出すのには、眼前のベイデの爪がこの身に届くまでの猶予で事は足りた。
──できる。
簡単な、こと。
だって彼は、シノ・グウェンは私の剣。
最強の一振り。
そう言っていたけど、きっと間違いじゃない。
そして剣とは常に主人の傍に在り、敵を斬り伏せる武器となるモノだ。
だから、手に取るのは簡単なはず。
「……抜剣」
(寄るな)
魔剣の声が聞こえたはずはない。
だが確かに、こちらを狙っていたベイデが足を止めた。
身を低くし、注意深く周囲に気を配る。
対して、魔剣からは喜色が滲み出ていた。
(解るのね。相手はもうこの娘ではなくなった。敵が、来るわ)




