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2-17 破魔の一擲Ⅰ

 早朝の王都イスファーンにある城の中を、おぼつかない足取りで一人の女が歩いている。


 城は眠ることなく、朝を迎えることになった。


 城の全ての出入り口が魔術によって封じられ、下手人の捜索が休みなく続けられている。


 女は、まだ冷たさの残る空気を熱く濁った吐息で汚しながら、壁にもたれて身を休めた。


 呼吸は浅く早い。


 猛禽を思わせる容貌も、極度の疲労からか目も落ち窪み、血の気は完全に失われている。


 鋭い顔立ちもあって、近衛の証である紅いローブを纏っていながらも幽鬼の類のようであった。


「何を……」


 ふと、自分が何をしようとしていたのかが分からなくなった。


 何か目的があったはずだ。


 息が上がり、膝に手を当てると、馴染み深い湿った感触を伝えてくる。


 水ではない、もっと粘り気のあるじっとりとした重たいものだ。


「どうして……」


 紛れもなく血だった。


 身体に痛みはない。


 誰か自分ではない人間の血なのだ。


 それを見たとき、殺した相手が脳裏をよぎる。


 同時に自分の目的も。


 アルバスを遠見の魔術で覗いていた近衛の魔術師だったはずだ。


 魔術に集中していたために背後からの攻撃に気づかず、脳天を右脚で蹴り潰すのは容易かった。


 熟れきった果実のように頭部が弾け、命を散らすその瞬間まで、死の気配を感じることもなかったろう。


 硬いものを蹴り砕く感触もはっきりと残っていた。



 城の中にまだ敵がいると教えてしまったようなものだ。


 こんなのは悪手だという自覚はあるが、第二王女が城に帰還を果たした時点でレヒツ・アルムの任務は失敗を意味する。


 彼が帰還するべき場所はなくなってしまったが、まだ生きている。


 自分が代わって第二王女を殺すのだ。


 そうすれば──。



「貴様とて一度は栄えある近衛として城に仕えた身だ。主人に杖を向けることがどういうことなのかは分かっているのだろうな。魔術師ベイデ・ベイン、国家叛逆及び殺人の容疑で拘束する。従う気はあるか?」


 現状を把握するための思考を中断したのは敵意に満ちた声だった。


 数人の近衛を後ろに、フェルテン・クロスが腰に佩いた剣の柄に手を掛けている。



 標的のオリア・ローゼンヴェルクを守護する騎士であり魔術師である。


 携えているのは〈鏡の魔剣〉。


 内を侵すあの魔剣は危険だ。


 同時に、発動に際しては制約の多い魔剣でもある。


 担い手の技量と後ろの魔術師を勘定に入れてもなお、勝算はこちらに。



「……」


 答えぬまま、ベイデの脚は仄かな蒼い光を発した。


 返答がなくとも、フェルテン達にはベイデの戦意の高まりがいやでも感じ取れた。


「内側に干渉する自己強化の魔術……。〈竜狩り〉か。そういえば、お前は外からの魔術師だったな。だからシュミートではない、外の魔術師を近衛に迎え入れるなど反対だったのだ。国を乱すのはいつだってお前達のような連中だ」


 糾弾は宣戦布告となった。


 フェルテンが腕を振って、背後の魔術師に支持を出す。


「〈竜狩り〉は追いつめると厄介だ。足を止めるにとどめろ。あとは私が制圧する」


 指示に従って速やかに創り出された風の刃が、ベイデの両脚に殺到し、ローブごと切り裂いた。


 ローブの裂け目から、傷一つついていない蒼い鱗のようなものが見える。


 ベイデは斬撃をものともせずにフェルテンの傍へと瞬時に到達し、そのまま流れるような動作で右脚を軸に身体を回転させた。


「貴様……!」


 凄まじい速度を得て凶器と化した側頭へ迫る左足を、慌てて抜き払った〈鏡の魔剣〉でかろうじて逸らすことに成功した。


 すかさずフェルテンは刃を返して胴を薙ぐが、ベイデは蹴り上げるようにして剣を弾き、金属音を残して勢いそのままに後方へ飛びすさった。


「いかに魔剣でも竜鱗を斬ることはできないか。貴様、喰わせたな」


 〈竜狩り〉となった者が、魔術を全力で振るえるのは生涯でただ一度だけ。


 内に巣食わせた怪物に自らを捧げた時にのみ全力で戦うことを許され、生じた鱗はあらゆる魔術を拒絶する。


「……」


「生け捕りを望めないのならば見せてやる。外からの攻撃を無効化する鱗など、私には関係ない」


 魔剣を立て、鏡面の如き剣身を無言を通すベイデへと向ける。


 フェルテンを援護すべく、背後の魔術師達も魔力(マナ)を練り上げ、それぞれの魔術行使の準備を完了させた。


 ローブの裂け目からのぞく蒼い鱗のようなものに覆われたベイデの両脚が、より強い光を放つ。


 次の一手で勝敗が決することを、双方が理解していた。


 故に、繰り出されるのは互いにとって致命の一撃だ。


 速度に勝る蹴撃と、発動さえすれば相手の生命に手がとどく〈鏡の魔剣〉。


「《生は死を──》」


 フェルテンが魔剣の始動語を呟いたのと、ベイデも前進を開始したのは同時だった。


 踏み込んだ足で地に亀裂を入れながら迫るベイデに、フェルテンの背後の魔術達が準備していた魔術を発動させた。


 より密度を上げた風の刃が襲い、足元からは土を圧し、槍と化した岩が伸びる。


 ベイデはそれらに目もくれず、ただ一つの脅威たる魔剣の担い手めがけて疾走を続ける。


 風の刃はベイデの後塵をむなしく切り裂き、頑強な岩の槍は踏み出された足に粘土細工のようにあっけなく踏み砕かれた。


 魔術はわずかな足止めにすらならない。


「このッ……!」


 労することなく近衛の魔術を掻い潜ってみせた下手人に悪態をつく間もなく、フェルテンは魔剣の発動を諦めて身を守らなくてはならなくなった。


 剣の柄を満身の力で握り込んで、先刻と同様に頭部を狙っているであろう打撃を迎え撃つ態勢を整えた。


 ベイデの蹴撃はもう風を切っている。


 その向かう先は剣を握る腕だ。


「ぐあぁッ!」


 骨が砕ける鈍い音と苦痛に満ちた呻き声を腹の底からこぼし、身体をくるりと回転させながらフェルテンの身体は地へ叩きつけられた。



 魔剣の担い手が魔剣を持たざる者に敗れるなどあってはならない。



 その屈辱は骨を砕かれた痛みをも忘れさせる。


 すぐさま身体を起こそうとするが、重さを預けた腕は、ぐにゃりとあらぬ方向へと曲がった。


 再び痛みに呻いたフェルテンの前に魔術師の一人が身体を投げ出した。


「何をしているッ。お前たちはクロス准将を連れて逃げろッ!」


 叱声に弾かれたように残りの魔術師達がフェルテンを抱え上げる。


「……《土塊よ、立ち上がれ》」


 詠唱を口にすると、ベイデのゆく手を阻むように巨大な土の壁がそそり立った。


「俺を殺して壁を越えるのにどのくらいかかる。せいぜい時間をかけるんだな」


「時間……」


 ベイデの目に少し理性の光が戻った。



 脅威にもならない存在にかまけている暇はない。


 自分の意志が持てるうちに標的を見つけなければ。



「ぐえッ」


 唐突に淡い光と共に上から落ちてきた男が、間の抜けた呻き声をあげた。


「クソっ、やっぱりこうなったか。でもまぁ城の中には入れたみたいだし──」


 落ちてきた隻腕の男、シノ・グウェンはその場にいたベイデに目を留めた。


 裂けたローブの隙間から見える脚は鱗に覆われ、およそ人のカタチをしていない。


 流れる精気(オド)も魔に染まりつつあった。


 レヒツに対して感じたものよりも強い殺意に、激しい心音が振動となって身体を伝わる。



 姿を見て身を固くしたのは、ベイデも同様だった。



──アレは、何?



 理解ができない。


 間違いなくアレはこちらに殺意を向けているが、あるべきものが何もなかったからだ。


 息が詰まらせるほどの殺意がありながら、魔力(マナ)もなく、敵意もない。


 殺意の多くは怒りに起因するものだ。


 理解できない怪物に出会った時、人は恐れを抱き、そしてそれを怒りに転化し自身を奮い立たせる力とする。


 それがない。


 いや、むしろそうした感情を抱いているのは怪物(自分)の方だった。


 対して、アレはただ無感情に獲物として品定めをしているに過ぎない。


 だが、人外になりつつある今だからこそ解ることもある。


 アレは戦ってはいけないモノだ。


 身を喰わせる前の自分なら勇んで挑んだかもしれない。


 力の優劣ではない。


 被捕食者が生まれた時から天敵を認識しているように、ただそうあるだけだという普遍的な事実が自分の中に刻まれている。


 捕食されないようにするには逃走あるのみだ。 


「お前、あの怪力男と同じだな」


 早々に撤退を決めたベイデだったが、シノのその言葉で決定を翻さなければならなかった。


 自分と同じ魔術を扱うのは、アイン・スソーラにはあと一人だけだ。


 同時に疑問が一つ解消された。


 一体誰がレヒツの邪魔をしたのか、という疑問だ。


「レヒツを、知っているの」


「あぁ、そんな名前だったっけな。一緒だったんだったけど──」



──レヒツがもう、ここに。


どうして戻ってきたの。


そのまま逃げて、私が任務を果たせばそのまま生き延びられたかもしれないのに。



 自身を縛る得体の知れない恐怖という鎖を引きちぎって、ベイデは豪速の蹴撃をただ立っているだけの天敵へと見舞う。



 出方を窺う必要はない。


 明らかに相手の方が強いのだ。



 天敵は何か戸惑ったような顔をして、さしたる抵抗もないままに物理法則に従って、蹴り出した脚の軌道の方向へと吹き飛ばされた。


 二度、三度と跳ねて、そして動かなくなった。


 拍子抜けしたように、ベイデは振り抜いた脚を下ろす。


 攻撃は命に届いた確信があった。



「いってえ……」


 追撃を警戒し、全身がバラバラになりそうな痛みを堪えてシノが身を起こす。


 咄嗟に盾にした右腕はもう使いものにならない。



──どうなってる。



 敵は魔に属するモノであり、さらに攻撃を視認していながら、反撃のための動作にうつれなかった。


 まるで、脳が回避のための動作命令を拒否をしているかのように。



「……とどめを」


 再びベイデが疾走を始める。


 十分な加速がつき、体重の乗った蹴撃はシノの眼に捉えられない程に速いわけではない。


 ベイデの身体を流れる精気(オド)は激しく、その先の攻撃を予測するのも容易い。


 ならばそれを躱すのも容易なのは道理であった。


「また、だ──」


 しかし、身体はその場から動けない。


 迫る攻撃の前になす術もなく、無防備に身を晒すことしかできずに、ベイデの渾身の一蹴りはシノの身体を先ほどよりも高く打ち上げた。


「魔剣がないからかーー」


 痛みをどこか遠くに感じながら、一瞬の浮遊の後、そのまま下へ叩きつけられる。



──喚ぶか。


 今ここで魔剣を手元へ戻すことはできるだろう。


──いや、ダメだ。


 オリアを狙う魔術師が目の前の一人だけだと断言できないし、魔剣〈それ〉が理由ではない気がした。


 ここで戦えば、なにか恐ろしいことが起きてしまう予感がある。



 予感は苦い後悔とともにシノの心に引っかかっていた。


 だが、予感を悔いているという齟齬を説明できない。



 ベイデは望外の勝利にはもう興味をなくしたように、じっと城の主塔へ視線を注いでいる。


 そこへ目を向けたのは偶然ではない。


 強い力を感じたからだ。


 方向も定まらない、曖昧な魔力(マナ)


 だが、濃厚で強大な魔力(マナ)


 その主塔の窓に、蒼い髪が揺れたのが見えた。


 み空色の髪と強大な魔力(マナ)は王家の証。


 ベイデの唇が捲り上がる。


「その先は行き止まりよ」


 絶好の狩場に、獲物が自ら入り込むなんて、何という幸運。


 魔力を放出し、存在を誇示するかのような行動はいかにも不自然だ。



──誘っているの。



 しかし、敢えて自分が不利になる場所に誘い込むのは強者の戦法だ。


「絶対に仕留める……!」


 もはや何の為に殺すのか分からなりつつあるが、自分の為すべきことははっきりとしている。


 ベイデが主塔まで跳躍し、青い髪が揺れていた窓を突き破った。



「お、おい……」


 動かなくなった哀れな闖入者のもとへ、魔術師が駆け寄った。


 すぐに見込みはないと分かった。


 構わずに魔術師は手をかざし、治癒魔術を施そうとした。


「どうなってる……!?」


 走らせた魔力(マナ)は何の手応えもなく、発動者へと返った。







 ユリアーネの居室にてオリアは一人残り、魔剣を抱えて立てた両膝の間に頭をうずめていた。


 久しぶりの魔術行使で、ひどく疲れている。



「これで、シノは助かったのかな……」


(少なくとも貴女を襲った容疑者として、今すぐに殺されることはなくなった、というところかしらね。あの子が大英雄を殺したことが明るみに出れば分からないけれど)


「やっぱり、シノがあの魔術師を……」



 アイン・スソーラの大英雄の殺害は、場合によっては王女の暗殺よりも重い罪なのではないだろうか。



(今のところ、貴女の姉にその気はないようね。それよりも別の心配をすべき)


「別の心配?」


(どうやら、あの子がここに辿り着いたようだわ)


「えっ」


 安堵と喜色に弾んだ声と共に椅子に預けていた腰が浮きかける。


 オリアがアルバスから戻って一日と経っていない。


「一体どうやって……」


 思い当たるのは、あの黒いローブの魔術師。



──お前たちにはできなくとも、私ならできる。



 勝ち誇ったような言葉と、それに対する静かな怒りが反芻(はんすう)された。


(死にかけてるわね)


 端的な魔剣の言葉にオリアの思考が停止する。


「……え?」


 困惑を表す音が、半開きになった唇から漏れた。


(あぁもう、何をやってるのッ)


 まったく情けない、と魔剣が苛立つ。


 魔剣の声が、焦りを含んでいることにオリアは不安を感じた。


「だってあんなに──」



 強いのに。



「ど、どういうことなの」


(私にも分からないわよ。自分の身を守る機能は備わっていない、ということなのかしらね)


 魔剣が何を言っていることはほとんど理解できないが、重要なのはシノの命が危ないという一点のみだ。


「行かなきゃッ」


 オリアは転がるように部屋を出ようとするが、扉はいくら押してもびくともしない。


 刺すような冷気が扉の向こう側から伝わってくる。


「お姉ちゃん……!」


 低温の魔力(マナ)は、その魔術がユリアーネの手によるものだと伝えてくる。


 おそらくは外敵を妨害するための処置なのだろうが、今は檻そのものだ。


(少し落ち着きなさい。限りなく死に近づき続けるだけで、死にはしないわ。ただ、そのままでは蘇生しない。その生に意味を与えてあげないとね。あの子は与えられた使命を果たさないことが許されていないのだから。魔術師が口にする“誓い”と同じね」


 いよいよ魔剣の言葉がまったく理解できなくなってきた。


「何を言ってるの」


(難しく考えなくていいわ。分かりやすく説明すると、貴女がすべきなのは、どんな助けも望めない状況で命の危機に陥ることよ)


「何を、いってるの……」


(シノ・グウェンを助けるために貴女も命を賭けなさいと言っているのよ)


 頭に響いてくる声が依然として何を言っているのかさっぱり理解できないが、オリアに否やはない。


「分かった。とにかく、ここから出なきゃ……」


 オリアが自分の魔力を流してみるが、扉に掛けられた魔術は少しの揺らぎもない。


 優れた魔術師の紡いだ魔術を解く術を、オリアは知らない。


(心配ないわ。魔術破りは世界で一番得意なの)


 魔剣はこともなげに言った。

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