2-14 剣の在処Ⅱ
──やっぱり、ダメだった。
無力さが身に染みる。
馴染みのある感覚。
「部屋にいなさい。一歩も出ないように。いいですね?」
王城に戻ってきたオリアを一瞥し、マリアンネはただそれだけを言い、オリアも甘んじて受け入れた。
あの時と同じ。
そう、分かっていた。
もはや国にとって、自分には何の価値もないのだ。
元々が妾腹の娘である。
普通の娘として暮らしていた所を、第二王女としてこの城に招き入れられた時とは違う。
自分は、万が一彼女が王女として機能しなくなった時のためのユリアーネ・ローゼンヴェルクの予備だったのだ。
だが、予備としての力すらないと判断されるまでに、さほどの時を要さなかった。
──役立たず。
戻ってきた自分を見て、母はそう言った。
もしかしたら、娘がうまくやれば自分も城に入れると、そんな風に思っていたのかもしれない。
まるで住処を移す直前のように、家中の数少ない家財が処分されていた。
王女の母親であるという事実が唯一、母の自尊心を繋ぎ止めるものだったのだろう。
繋ぎ止めていた細い糸も、自分の帰還によって切れてしまった。
そして、その日の夜のうちに母は殺された。
身体は綺麗に切断され、肉屋に並べられた食肉のようで、あまり悲惨さを感じなかった。
誰がやったのかは分からない。
ただ、力の強すぎる第一王女の即位を望まない人間もいると聞いた。
恐らくは、自分を城に留めたい何者かの仕業だったのだろう。
別に多くは望んでいなかった。
あのまま普通の村娘として暮らしていければそれでよかった。
──壊したのは誰なの。
沸き上がる熱く昏い感情は、出所を求めて彷徨った。
いつの間にか目の前にいた姉が自分をきつく抱きしめて、
「すまない……すまない……」
と、ただ繰り返していたことがその日の最後の記憶だった。
マリアンネの命に従って、部屋の隅で心臓を守るように膝を抱えて蹲り、ただ時が過ぎるのを待っていた。
たびたび脳裏に浮かぶ青年の顔を必死で考えないようにしながら、時が罪悪感を薄めてくれることを期待して。
命を狙われるのはこれが初めてではなく、護衛任務に殉じた者もシノが最初というわけでもない。
不意に、ある光景が想起された。
場所は殺風景なマリアンネの執務室。
奥に据えられた卓の向こうにはマリアンネの冷たい眼差しがあった。
「あなたは今よりローゼンヴェルクの血族です。今後、過去を詳らかにすることは許されません。自身の魔力に誓えますね?」
反論は許さないと、言外に言い含めている。
オリアにとっては呪縛に等しかった。
感情に蓋をして、そんな言葉にただ従った。
「はい、お母様」
自分を侵した人間の根城の主人に、腹を見せ服従を誓ったのだ。
(いつまでそうしているつもり? 私の担い手は徒労なのかしら)
不毛な回想は突然の声で中断された。
女の声だ。
聞き覚えはない。
自分以外誰もいないはずの空間で沸いた声に、オリアは勢いよく顔を上げて、部屋の中を見回した。
(頭だけではなく、察しも悪いのね)
カタン、と乾いた音がする。
古びた黒い剣が無造作に転がっていた。
無論、オリアが持ち込んだものではない。
その剣はシノの腰にあった物だと、微かに記憶の端に引っかかっていた。
彼の姿であれば貌のつくりから服装の細部に至るまで鮮明に思い出せるのに、持っていた剣に関しては不自然なほどに曖昧になる。
「もしかして、あなた……なの?」
魔力は感じられないが、魔剣の類いか。
しかし、言葉を話す魔剣など聞いたことがない。
床を這うようにして剣に近づき、恐る恐るそれを手に取る。
声はより鮮明に響いてきた。
(まったく! またあの子と離れなければならないなんてッ! 貴女のせいよ)
声音からは性別以外を推測することはできなかったが、憤慨していることは理解できた。
何に憤慨しているのか、よく分からないが。
『あの子』というのはシノのことだろうか。
(それで? いつになったらあの子の所に帰れるのかしら?)
「シノの所に戻りたいの? 無理よ。やっぱり駄目だったから。そんな力なんて持ってない」
(貴女に力がないのと、貴女が何も行動を起こさないのは別の事よ)
正論は後ろめたい心に突き刺さる。
血の代わりに流れ出たのは、やりどころのない怒りだった。
「そんなこと言ったって! もうどうしようもないじゃない……。それにわたしがやらなくたって、きっと──」
(あの子はアイン・スソーラにとって敵となった。目的のためならば応戦するでしょう。また国そのものと戦う羽目になる。負けはしないけれど、深い傷を負うことになるでしょうね)
魔剣の言わんとすることがオリアには半分も理解できなかったが、言葉には責めるような鋭さがある。
「……」
(あの子は私に言ったわ。『端くれを護れ』と)
「……え?」
(だから私はここにいるのよ。魔力を持たないあの子が、自分を護る術の一つを犠牲にしてまで貴女という人間に生きていて欲しい、ということではないのかしら)
「あぁ……」
(貴女の生は貴女が好きにすればいい。でも、案じている人が、護ってくれた人がいるのに自ら蔑ろにするのは、その人に対する裏切りと同じよ)
──あぁ、我ながら嫌になるくらい単純ね。
魔剣の説教めいた言葉など、もうオリアの耳に入っていなかった。
大事なのはその前の言葉だった。
──わたしが生きることをシノが望むなら。
そのためなら、万の魔術すらも恐れるに足りない。
靄がかかっていた思考が瞬く間に晴れ渡り、忙しく廻り始める。
他人を上手く使ってこそ、人の上に立つ者だとシノは言っていた。
自分にはその才がある、とも。
(何か、考えがあるようね)
「えぇ」
首肯するオリアの心には、はっきりと一人の人物の顔が浮かんでいる。
だがそれは、ある意味でマリアンネに対するよりも勇気が必要かもしれなかった。
「姉様なら……」
(あぁ、あの娘)
冷めた不快感が混じっている。
オリアの周りに、ユリアーネを悪く言う人物はいない。
大多数の人間は好意に近いものを抱く。
魔剣の姉に対する感情は、オリアにとっては奇異なものだった。
「嫌いなの?」
(好きではないわね。でも気にしないで。これは私の幼稚な対抗意識のようなものだから)
「そう……」
そんなふうに気持ちを言葉にできることをオリアは羨ましく思った。
(貴女だって、彼女のことはあまり好きではないでしょう?)
「それは違うわ」
魔剣の言葉をきっぱりと否定しながら、オリアが力を込めて立ち上がった。
(はい?)
「きっと、大好きなのよ」
(よく分からないわね。私には永遠に理解できないことなのだろうけれど)
シノの為なら、できる。
心は既に満たされていた。
それを零しそうになった時に気づくなんて。
──でも。
まだ零してはいない。
今回はまだ取り戻せる。
これからもオリア・ローゼンヴェルクとして彼の隣に在り続けるための、必要な手続きだ。
「殿下、お戻りを」
居室の外に一歩踏み出した途端、紅いローブを纏った二人の魔術師がオリアを挟み込むように立ち、中に戻るよう促した。
「私が私の家を歩くのにいちいち許可が必要なの?」
「それは……。しかし、マリアンネ様のご命令ですので」
二人は一瞬気圧され、たじろいだが、頑としてオリアの要求を聞き入れない。
オリアが唇を噛みしめる。
(まどろっこしいわね)
意思とは関係なく、自らの魔力が流れ出てゆくのを感じた。
「「ぐあッ」」
二つ重なったうめき声と共に、オリアの行く手を阻んでいた魔術師が不自然に倒れ込んだ。
何をどうしたのか見当もつかないが、この魔剣の仕業なのは明白だった。
「何をしたの」
(『風』を束ねてちょっと小突いただけよ。この城の魔術師も堕ちたものね。『大災厄』の頃の彼らなら防御の一つでもしてみせたのだけど。魔術が進んでも、扱う人間がこれでは彼も浮かばれないわね)
新たな罪悪感をかかえつつ、オリアは倒れている魔術師を覗き込んだ。
白目を剥いて口からは泡をこぼし、意識の有無など確かめるまでもなかった。
「やりすぎじゃない?」
(……人間相手に魔術行使なんて随分と久しぶりなの。あなたに傷をつけない為には仕方のないことよ。それに、この程度で死んだりしないわ、たぶん。それより急いで)
魔術行使。
だとすれば、この剣は紛い物ではない自我と意志を持っていることになる。
オリアは浮かんだ疑問をとりあえずは胸にしまっておくことにした。
「……そうね」
探し人の居場所は誰かに尋ねずともよかった。
怜悧な魔力は自らの居場所を誇示しているかのように力強い。
──待っているのね。
ふと、そんな予感がオリアの思考をかすめた。
「ここまで来れば、ひとまず安全かな」
眠ったままの城下を走り抜け、少し息を切らしながら、レヒツは抱え上げたシノを下に降ろし、自らも腰を下ろした。
雑多に粗末な家屋が建てられた、アルバスの中でもあらゆる意味で汚れた場所だった。
未だ暗いこの場所も、日の出と共に明るさを取り戻すのだろう。
人が出歩く時間ではないが、いくつかの人の気配が感じられた。
うっすらと闇に溶け込み、姿をはっきりと見ることはできない。
「なんのつもりだ」
闇の中から粘りつくような視線を感じつつ、シノはレヒツに問うた。
「僕が君を連れてきたことかい?」
「他に何がある。急に博愛の精神にでも目覚めたのか」
「まさか。もちろん理由があって連れて逃げたとも」
「理由?」
「アルバスを出るのに、君の力が必要だと思ったからさ。君もここにいるつもりはないんだろう? どうだい、僕たちは協力できると思うけど」
「端くれを狙うお前と手を組むと思うか?」
「仕事が変わったんだよ。もうオリア・ローゼンヴェルクは標的ではなくなった。僕のご主人様は彼女が城で殺されることを望んじゃいない。彼女はここで死ぬことに意味があったんだ。大英雄の死には理由が必要だからね」
「何を言っている」
「僕のご主人様はアイン・スソーラという国を手中にする気でいる。君は知らないだろうがね、大英雄アレイスター・クロウリーは既にこの世にいないんだ」
「……そうなのか」
視線を外したシノの様子を、レヒツは驚愕だと受け取った。
頷きながら、レヒツは言葉を継いだ。
「世界最高の魔術師の死は、この国の根幹を揺るがす大事件だ。いたずらに彼の死を流布したところで、彼を殺せるほどの者がいることを鵜呑みにする者はいない。元々彼はシュミートの奥深くで研究に没頭し、人前に姿を表すことは滅多になかった。でもね、彼がトラウゴット・オドリオソラ侯爵でもあることを把握していた他国の人間は僅かながらいた。だから、この地で王女が殺されたとなれば彼の死に信憑性を持たせることができる」
「みすみす王女を死なせた咎で処刑されたと?」
レヒツは薄く笑い、肯定はしない。
「彼のアイン・スソーラに対する忠誠は凄まじいものがあった。彼にとって、支配者に取って代わるなんて指先を動かす程度のことだったのに、見返りを求めることもせずにただ魔術の発展に身を削った。何がそこまで彼という人間を突き動かしていたのかは知らないけど、もはや忠誠ではなく執念だと僕は思った」
レヒツは首を傾げたが、シノにはよく分かっていた。
このアルバスの城で戦ったとき、アレイスター・クロウリーという魔術師の執念に触れた。
──世界を救うため。
国のことなどこれっぽっちも考えてなどいない。
ただ自分の目的のためだけに、魔術を研究していたに過ぎない。
「なるほど、そんな人間なら国に殺されたって不思議はない。アレイスター・クロウリーを殺せる人間なんかいるわけがない、という矛盾が解消される。でも、特に重要視されていない第二王女が殺されたからって、アレイスター・クロウリーを処刑するなんてありえない……。いや、別に処刑じゃなくてもいいのか。自責の念に駆られて……でもいいわけだ」
どう考えてもあの男はそんな些細な事を気にしたりはしなさそうだが、それは関係ないのだろう。
レヒツが感心したように手を叩いた。
「話が早いね。早すぎて、君と手を組むべきかどうか真剣に考え直したくなったよ。利用するのなら、少しくらい愚かな人間の方が良い」
「そうか。で、どうするんだ?」
「うん?」
「考え直したんだろう?」
「そんなことを訊くということは、僕と手を組む気があるということかな。君にはもうアイン・スソーラに肩入れする義理はないはずだけど」
意外そうに目を丸くして、レヒツが言った。
「そうだな。役目も果たした。でも、このままにしておくには深入りし過ぎた」
ここにきてシノの心には引け目のようなものが芽生えつつあった。
自分が彼を殺さなければ、オリア・ローゼンヴェルクがここで狙われることはなかったのだと。
「何か手があるのか?」
シノの質問にレヒツがニヤリと笑う。
「このアルバスから王都まではかなり距離がある。それは僕らを捜している近衛の魔術師にとっても同じことだ。それに、これほどの殺戮をした異国の魔術師とそいつを叩きのめした正体不明の戦士を仕留めるには、この包囲網は目が粗すぎる」
レヒツの意を汲んで、シノが後を続ける。
「目的は捜索であり、討伐ではない。ということは、誰かが王都への空間転移術式のスクロールを持っているはずだ。標的を見つければそれを迅速に知らせなければならないからね」
「もうすぐ夜も明ける。連中もこんな街中で戦いたいはずはないし、この騒動を漏らしたくはないはずさ。おそらくアルバスの外には遠見をして、見張っている魔術師がいるのだろうね。網に捕らえられた魚が穴を見つければ間違いなくそこから逃げる。だとすれば僕たちは外ではなく、内に活路を見出すべきだ。動けるかい?」
レヒツが腰を上げ、シノに手を差し伸べる。
シノはその手を取らずに立ち上がり、確かめるように手指を曲げ伸ばした。
しっかりと熱は戻っていた。
「あぁ、問題ない」




