2-13 剣の在処Ⅰ
「これは一体どういうおつもりか!」
王城の最上階にあるマリアンネの居室に、ユリアーネの怒声が響きわたった。
動じた様子もなく、マリアンネは机の上で指を組んで、傾聴する姿勢を見せた。
「何がです」
「アルバスでオリアが襲われた! つけていた魔術師も生死不明だ!」
ここまで心の置き所を見失ったユリアーネは初めて見る。
身内が危険に晒されているという焦りからくるものか。
──弱い。
マリアンネは娘をそう断じた。
優しさは時として弱さとなり、冷酷さは武器となる。
「……母の言葉を守らなかったようですね」
「そんなことはどうでもいい! これはあなたの指示か!」
娘の憤激にも、マリアンネの表情は毛筋ほども揺らがない。
「いえ。状況を利用したに過ぎません。外だけでなく、今この城の中にも馬脚を現した同じ輩が入り込んでいます」
「同じことだ! すぐに私と共に近衛をアルバスに──」
「これは狩りなのですよ」
「狩り……?」
えぇ、とマリアンネが軽く頷く。
「世界最高の魔術師を失ったことは、強固な城壁と万の精兵を失うことと同じ。それも神一柱を道連れにして。その事実が知れ渡るのは時間の問題です。大きな綻びです。神との関わりの深い〈教導国〉は、いち早く気付くでしょう。大英雄という巨大戦力を失った今、この国にとって消耗を強いられる相手です。応戦するならば、内側の憂いは断っておく必要がありました」
「そのためにオリアを……」
「味はともかく極上の餌を用意しました。多少不自然でも、食いつかざるを得ないほどの。もしオリアを護れずとも、王女が死んだという事実はこの城を、騎士を、そして民を奮い立たせることになるでしょう」
「それでもあなたはッ」
ユリアーネの言葉の先を聞かずとも、マリアンネには彼女が何を言おうとしているのかが分かった。
「私は母である前に、この国を背負っているのですよ」
「そんなもの──」
感情を押されきれずにユリアーネが思わず一歩踏み出すと、その前に黒いローブの魔術師が立ち塞がった。
最近になってマリアンネの傍に侍るようになった、顔まですっぽりと外套で包み込んだあの魔術師だ。
ユリアーネは、その時短剣と共に突きつけられた殺気を思い出した。
「その辺りにしておけ、王女。口が過ぎる」
物言いはおよそ仕えている王族に対するものではない。
今のユリアーネとってはこの上なく不快だった。
「誰に向かって言っている。死にたくなければ、貴様こそ口を閉じておけ」
魔術師の前に氷の槍が形成される。
氷槍の先は魔術師へ向けられてはいなかったが、ユリアーネの意志を明確に示している。
「濁っているな。そんな魔力では──」
黒いローブの魔術師が言い終わらないうちに、氷槍が一つ射出される。
「何も守れない」
威嚇とはいえ、人を再起不能にするのに充分な威力と速度を伴った魔力の産物は、魔術師の伸ばした左手に掴み取られ、圧壊した。
怯むことなく、ユリアーネが更なる魔力を練り上げる。
そのときには、魔術師も動き出していた。
続けざまに放たれた氷槍を左に固めた拳で粉砕してみせながら、ユリアーネの眼前へと到達する。
「マイム・シフト──」
詠唱が終わるよりも早く、魔術師の左手がユリアーネの喉元を締め上げ、紡がれるはずだった詠唱は喉の奥へ消えた。
そして、魔術師が短く呟く。
「変成せよ──」
「分かりました。すぐに近衛をアルバスに向かわせましょう」
不意に割り込んできた、幾分早い口調のマリアンネの言葉に喉元を掴む魔術師の手が緩み、ユリアーネが解放された。
「リアン様っ!」
攻撃的な力を感じて扉を蹴破る勢いで入ってきたメルヴィナが、咳き込むユリアーネとその前に立っている魔術師を見て血相を変えた。
「控えろ、ウォールズ」
怒り狂うメルヴィナを制止したのは、誰あろうユリアーネ本人だった。
「今のお言葉は本当でしょうか?」
「誓いましょう」
「ありがとうございます」
深々と頭を垂れるユリアーネの表情に、悲壮感は一切ない。
当然考えるべき、既にオリアが死んでいる可能性など、微塵も考えている様子はない。
確信の理由、マリアンネには分からない。
仮にも王女を害そうというのだ。
半端な者にその任を負わせたりはしないだろう。
オリアは特段優れた魔術師というわけではなく、同行した人間についても同様だ。
幸運と偶然が重なり、生き延びているとでもいうのか。
まさか、そこまで楽観的ではあるまい。
何かあるのだ。
その根拠とでもいうべきものが。
一人だけ、思い当たる者がいる。
無理を押して、オリアに付けたあの喪失者に期待を掛けているのか。
いや、期待などという曖昧なものではない。
渦巻く思いを内に隠して筆を取り、さらさらと紙に命令をしたためると、手元の鈴を鳴らす。
「これをクロス准将に。急いでください」
入ってきた文官に命令書を託し、用は済んだとばかりにマリアンネは椅子に深く身を預けた。
軽く頭を下げ、ユリアーネも足早にその場を後にした。
「……私を脅しましたね?」
マリアンネの非難めいた言葉に、ローブの魔術師は悪びれた様子もなく、
「さて、何のことだか。私は自分の身を守っただけだ。大切な後継者を殺されたくなかったあなたが勝手に譲歩したに過ぎない」
この者の行動も、根底にはあの喪失者に対する信頼のようなものがある。
喪失者とは無力の象徴だ。
神に魔力を取り上げられた咎人。
なのに、誰一人としてオリアが殺された可能性を考えている者はいない。
「いいでしょう。しかし、理解できませんね。貴方もリアンも、どうしてあの者をそれほどまでに信じられるのか」
「私の方が、あんな女なんかよりもよほど彼を信じている」
魔術師は気分を害したようだ。
少し意外そうな面持ちで、マリアンネは魔術師を眺めた。
傍に置くようになってからしばらく経つが、あまり人間味というものは感じられない。
だが、あの男のことになると時折人間臭さを見せる。
「……そうですね」
「それに、あなたもオリア・ローゼンヴェルクを失うのは望むところではないはずだ」
「どうでしょうか」
「フン、親子揃って素直ではないな」
「もう私に親としての権利を主張する資格はないのです。私たちは血に塗れすぎました」
マリアンネはそう自嘲した。
「……親子揃って、抱え込むのが好きなようだな」
「何か言いましたか?」
「いいや、何も。それより、やることができた。少し城を離れる。空間転移術式のスクロールを用意してくれ。二人……いや、三人分だ」
「どこへ行くのですか?」
「あなたの守護よりも優先することは、一つだけ。そういう契約だ」
「生きているとは限りませんよ」
ローブの魔術師は答えなかったが、その背は小刻みに震えている。
笑っているらしい。
「どうかしましたか」
「いや、思考の過程は的外れなのに結論だけは概ね正しいのがおかしくて。じゃあ、行ってくる」
「……ままなりませんね。あなたも、私も」
ひっそりと零れた言葉を聞き拾う者は、誰もいない。
「ありがとう」
オリアは命令を果たし、傍に控えた喪失者を労った。
言葉には多分に熱が含まれている。
その熱さを厭うように、シノは顔を逸らしながら、
「あぁ」
「姉様なら、きっと自分で戦ったのかな……」
「……」
シノは何か含みのある目で、オリアを見遣った。
「何よ」
「何でもできるってのは、案外不便な時も多いと思う」
「え?」
「できることを他人に任せるのは、抵抗を感じてしまうものだから」
「どういうこと?」
「上に立つ人間ってのは、人並み外れた武勇も、神がかった智謀も必要ない。他人を使って、その力を正しく引き出せるのが、良い主人ってもんだ。その意味じゃ、もしかしたら王女さんよか端くれの方が向いているのかもな」
オリアが目をしばたかせる。
「もしかして、慰めてくれてるの?」
「そんなお人好しに見えるのか。事実を言っただけだ。気づいていないみたいだったからな。お前らは間違いなく姉妹だよ」
「どうして分かるの?」
「なんでもいいだろ」
シノは目を合わせることなく、ぶっきらぼうな言葉を吐いた。
しかし、オリアはわずかに赤らんだシノの耳を見逃さなかった。
付き合いはまだ短いが、シノのことは少し分かってきた気がする。
なにか都合が悪いと、特に自分が感謝されたりすると、露骨に目をそらすのだ。
ちょうど、悪戯を見つかってしまった子供のように。
そんなささやかな発見が妙に愛おしい。
「本当に、なんなんだ」
未だ動かない四肢を投げ出したまま、レヒツ・アルムは夜空を見上げて嘆息した。
呆れたような言葉は、漆黒の空へ吸い込まれていった。
目前に死の足音が迫っていたかと思えば、今は他愛のない主従の会話が耳に障る。
落差に心が追いつかないが、すべきことははっきりとしていた。
じきに身体も回復し、戦闘を再開することができる。
そんなこと、あの男が気づいていないはずはない。
要するに生かされているのだ。
慈悲なのか弱さなのか分からないが、殺し合いの道理に反している。
代償は必ず支払うことになるだろう。
あの男の護りを掻い潜り、オリア・ローゼンヴェルクを仕留める。
どれほど楽観的に考えてみても、そんな未来は全く想像できないが、機会がある以上はやらなければならない。
レヒツが密かに決意したとき、場の魔力が収束し始める。
気配を察知したのか、レヒツよりも早くシノが不審げに眉根を寄せた。
「うーん、喪失者は魔力の感受性を失ってるはずなんだけどなぁ……」
レヒツは怪訝に思いながらも、己の内の魔力を練り上げた。
直後に淡い光と共に姿を現したのは、近衛の証である紅いローブを纏った魔術師だった。
その数は続々と増えていく。
「これが空間転移術式……」
畏怖を持って、レヒツが術名を唇に上らせる。
目的地に到達するまでの全ての手順を省略し、任意の地点に人を運ぶ結果だけを実現するアイン・スソーラの秘術であり、集団での魔術戦において優位性を確立する最大の武器。
実際に目にしても、レヒツにはその魔術を理解することはできない。
一人の魔術師がシノから引き離すようにオリアを庇い、その前に跪く。
「申し訳ありません、殿下。遅ればせながら、このフェルテン・クロス、おそばにまかり越しました。空間転移術式の許可を得るのに時間が掛かりました故」
そう言って上がった顔に、シノは見覚えがあった。
以前、スクロールによる空間移動術式に失敗してオリアの部屋に投げ出された時に、斬りかかってきた騎士だ。
「お前は……」
「ほぅ、流石に私の顔は見知っているか」
フェルテンが剣の柄へ手を伸ばす。
「あぁ、いきなり首を飛ばそうとしてくれたからな」
「ふむ、どこかの戦場で出会っていたか。喪失者など忘れるはずもないのだが……。しかし、そうして生きているところを見ると、それなりにはやるようだな」
余裕を捨て去り、シノを睨みながらフェルテンが剣を抜き放つ。
以前は気づかなかったが、磨き上げられた剣身は武器とは思えないほどに美しい。
(アレには気をつけなさい。鍛えた人間の醜悪さが滲み出ているわ)
わざわざ警告してくるくらいだ、並の魔剣ではないのだろう。
「一応言っとくけど、俺は敵じゃない。それどころか感謝されてもいいくらいだぜ」
シノの主張をフェルテンは一笑に付した。
「戯言を」
「待ちなさい、彼は味方よ!」
フェルテンの前に立ったのは彼の主、オリアだった。
かつて、主が自分にこれほど強い言葉を向けたことがあっただろうか。
内心での驚きはすぐさま怒りへと変わる。
「殿下、目をお覚ましください。その男は喪失者。神に魔力を取り上げられた者を信じるのですか」
かつてないほど必死なオリアの様子に、フェルテンがいっそうの怒りを滾らせる。
オリアの行動はフェルテンにシノを殺す理由をひとつ増やす結果となった。
「……上手く取り入ったようだな。だが、私の目は欺けない。つまらぬ工作をしてくれたものだ。手を回し、私を殿下から遠ざけるなどと」
「何を言っているの!? 彼は──」
「遠見の魔術にて殿下を見守っていた近衛の魔術師が一人殺されました」
「え……?」
「魔術に集中していた所を背後から一撃で頭を割られていました。とても人間業とは思えず、魔力の痕跡もありません。我が国の魔術師でないとすれば……」
フェルテンがシノと、倒れているレヒツを睨みつけた。
「ここで殺しをしたのはそこに這いつくばっている『蜥蜴狩り』であろうが、遠見でアルバスを覗いていた近衛を襲ったのはお前だな」
「そっちにもいたのか」
考えてみれば、レヒツの国の人間は王城の内部にまで入り込んでいる。
手の者を、王女の使節に潜り込ませることもできるほどに。
「少し前のことだ。空間制御術式のスクロールが一枚消えた。あれは、予めこのアルバスが転移先が指定された特殊なものだ。どうやって手に入れたのかは後でゆっくりと聞かせてもらう」
フェルテンが剣を立て、シノへと向ける。
「〈生は死を映す鏡〉」
厳かな始動語と共に、剣が暗緑色の光を帯びる。
鏡面のごとき剣身に自分の姿が映っているのを見た瞬間、熱が胸を貫いた。
「が……はッ」
違う。
これは熱ではなく痛みだ。
「やめて、やめてッ!」
オリアの悲鳴を遠くに聞きながら苦痛に胸をかきむしるが、そこには傷一つ付いてはいない。
ないものは意識から切り離すこともできない。
襲いくる痛みに、自我を見失いかけた。
「そうやって立っていられるのは見上げたものだ。心臓を貫かれるのはさぞ痛かろう。さて、心が死ぬ前に聞いておきたいが、お前の仲間は城にあと何人いる?」
オリアのそばにいる魔術師がスクロールを取り出した。
オリアを視界の端に捉えながら、思考が痛みに支配される中、シノが腰の魔剣に手を這わせる。
「おい……」
不機嫌そうに魔剣が応じた。
(何よ。早くあれを何とかしなさい。いくら貴方でも意識が焼き切れるわよ)
「お前は、俺がいると思うところに存在している。そうだな?」
(えぇ、そうよ。それよりも早く──)
「お前が俺を喚ぶことはできるのか?」
(いい加減にして)
「どうなんだ」
(……出来なくはないけど、私には無理よ。武器だもの)
「十分。命令だ。お前の力が及ぶ限り……端くれを護れッ!」
(ちょっと何を言ってるのッ!)
「俺が行くまで、お前が何とかしてくれ」
(……もう、どうなっても知らないからッ!)
怒声を置き土産に腰の重みが消失する。
同時に、スクロールを引き裂いた魔術師と共にこちらへ手を伸ばすオリアの姿も淡い光の中に消えた。
「なにを言っている。気が触れたか」
やがてフェルテンの持つ剣の光が失われ、身体の痛みが引いていく。
痛みが消えても手足は冷たく、立つのがやっとの有り様だ。
痛みのない状態を、身体が思い出すことができない。
「それでは困る。お前にはまだ聞かなければならないことがあるのだから」
魔剣を構えたまま、ゆっくりと慎重にフェルテンがシノへと近づく。
「神に誓って俺は敵じゃない」
「魔力を持たぬ喪失者が誓約とは笑わせてくれる。質問に答えろ。城に入り込んだ鼠はお前たちで全てか?」
「なるほどなるほど。それが〈鏡の魔剣〉か。戦場においては、刃を交えることなく敵を屠ってきたという剣。それを持つということは、君がクロス家の今の当主ということなのかな?」
答えたのはシノではなかった。
地に突き立てた剣に身を預け、それでも笑みを浮かべながらレヒツが立ち上がっていた。
「いかにも。まだ生きていたとは僥倖だ。この剣の前に姿を晒しているお前たちに抵抗する意味はない。投降したまえ」
剣を向けられても、レヒツは落ち着き払っていた。
「アイン・スソーラの魔術については空間転移術式をはじめ分からないことが多い。でもね、『大災厄』から存在している魔剣に関してはある程度の情報を持っているんだ。クロス家が使う〈鏡の魔剣〉についても例外じゃなくてね」
「……なんだと」
「例えば闇の中でその魔剣は使えない。対象の姿を剣に映していることが攻撃の前提となる。率直に言って、永久化された魔剣の中で最も敵対するに易い剣だよ。君たちは魔剣を過信している。そもそも、刃を交えずに殺すなどという剣士の矜持のかけらもない剣を、よくも堂々と振るえるものだ」
「貴様……!」
家名の象徴たる魔剣を貶され、フェルテンが目を剥いた。
「永久化された魔剣というものは一つの家で受け継いでゆくものだと聞く。血を重ねるごとに力が身に馴染むからだと。……その認識は改めた方が良さそうだね。人伝に聞く《鏡の魔剣》の以前の使用者は、もう少しマシな人物だった気がするけどねぇ」
「私を侮辱するかッ! 《生は死を──」
怒りに任せて、フェルテンが魔剣をレヒツへと向けた。
レヒツは笑みを崩すことなく再び丸い包みを取り出し、宙へ放る。
続けざまに放った短剣でそれを貫くと、周囲は瞬く間に白煙で包まれた。
白煙は二人の姿を覆い隠す。
対象の姿を塗り潰され、魔剣の発動は失敗に終わった。
「小癪な真似をッ」
周囲の魔術師たちが魔術で空気を攪拌させ、フェルテンは魔剣に力を流し込む。
『風』の魔術で煙を吹き飛ばした頃には、二人の姿はなかった。
代わりに壁には人がちょうど通れるくらいの大穴が空いていた。
「連れて逃げた、か」
二人が逃げたと思しきその穴を睨みつけ、やがて怒りを収めたフェルテンがローブを翻してスクロールを取り出す。
「殿下はお戻りになった。私は帰還する。予定通り全ての門を閉じ、お前たちは引き続き奴らの捜索を続けよ。いずれも強敵だ。油断するな」
連れてきた魔術師にそう言い残し、フェルテンは淡い光の向こうへ消えた。




