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2-12 王女の剣Ⅳ

「走れッ!」


 沈みゆく心を辛うじて引き止めたのは、シノの声だった。


 不定なまま膨れ上がる疑念を抱きながら、手を引かれるままオリアは走り出した。


「どこに行くの」


「とりあえず城へ。一緒にきた連中と合流しよう。数はいればいるほどいい」


 殺意の渦にのまれていた場所だ。



──生き残りはいるか。



 城の中に入った途端、生臭い湿気を含んだ空気がシノの鼻を刺した。


 城に充満しているのは、死の臭いだとはっきり分かる。


「ひッ!」


 空気を吸い込み損ねたような音を喉からこぼしたオリアの視線の先には肉塊が二つ、無造作に捨てられていた。


 死体だと分かったのは、肉塊が見覚えのある紅い布きれを纏っていたからだ。


 どす黒い血溜まりに浸されてなお、近衛の証である紅は色褪せてはいない。


 それはもはや人の形を留めていなかった。


 肉塊からは赤黒く細長い臓器が流れ出ている。


「王女さんの魔術師だ。ついてきていたのか。さっきのヤツにやられたな」


 爪先で肉塊をひっくり返し、シノが傷口を観察する。


 オリアは顔を背けて、背を震わせながら臓腑の中のものを吐き出した。


「斬られたというよりは、ちぎられたような傷だ。これじゃ、他も望み薄だな」


 荒々しく損傷している死体に反して、死体の周囲はきれいなものだった。


 外界に干渉するアイン・スソーラの魔術師が魔術戦をすれば、どの属性であれ痕跡が残る。


 そして、戦いの跡を隠すことを彼らは良しとしない。


 魔術発動の間すらなく、肉塊となる前の魔術師は敗北を喫したのだ。



──あるいは。



 シノはもう一つの可能性を考えた。



 凄惨な光景を前にして、動じることなく情報を集めるシノに、オリアは気味の悪さを感じた。


「なんなの、なんなのよ……」



──また。


また、わたしの後ろに死体が。


もうたくさんだ。



「殿下ッ!」


 喜色に溢れた声がオリアの耳朶を叩いた。


「あなた……生きていたの」


 ついさっき、中庭で言葉を交わした男だった。


 血に塗れてはいるが、人を安心させる笑顔はそのままだった。


「殿下こそよくぞご無事で」


 ふらりとレヒツの方へ歩こうとしたオリアの腕を、シノが強く掴んで後ろに引き寄せる。


「ちょっと──」


 言葉が終わらぬ内に、オリアの耳元に風切音を残しながら飛び出したシノが掌底を突き出したが、レヒツは心臓に迫るそれを右手で難なく掴み取った。


「何をするんだ」


 言葉ほど、レヒツに驚いた様子はない。


「そっちの腕は動かないんじゃなかったのか」


「君こそ。やっぱり喪失者(ルーザー)じゃなかったのかい。……殿下、彼を退かせてください。私も負傷しています。今は味方同士で争っている場合ではありません」


 そう言って、レヒツはオリアに赤く染まったローブを示した。


「どういうこと──」


「それはお前の血じゃない」


 シノの言葉にレヒツの表情が凍りつく。


 僅かに口の端に残す笑みは、限りなく酷薄に見えた。


「鼻が利くんだね。本当に、君は得体が知れない。しかし、あの時の女の子がまさか王女殿下であらせられたとは。声音があまりにも浮かれていたので別人なのかと思ってしまいました。人生最大の失敗です」


 底冷えするほどの殺意を向けられ、オリアは恐怖で後ずさる。


「鼻が利く? 違うな。お前が迂闊すぎただけだ。余計なことをべらべらと。オドリオソラもそうだったけど、殺し屋ってのは凶器の扱いに長けていても、言葉の使い方は下手なのか」


「殺しの血脈としてのオドリオソラの名を聞くことになるとはね。君のご指摘は耳に痛いけどさ、仕方のないことなんだ。僕たちの仕事は、相手に喋らせる暇も与えずに殺すことなんだから。本当なら、相手と話す必要なんてないんだ。君だってそうだろう?」


「何人殺してきた」


 レヒツは首を傾げた。


「どういうことかな? 時を稼ぎたいのならもう少し面白い話題を提供してほしいものだね」


「人が人を殺す前には必ず予兆のようなものがある。それは、剣のように鞘から抜いたり納めたりはできない。そして、最も確実に対象を殺す方法は、殺意を抱いていると相手に悟らせないことだ」


 (くら)いレヒツの目に、出会ったときのような輝きが明滅する。


「僕に殺しの教授とは興味深いね。それで?」


「お前はその兆候を殺しの瞬間にだけ見せている。殺人が非日常的な出来事ではないからだ」


 レヒツは空虚に笑う。


「あいにく、一度だけだよ。ヒトを殺めるということは、自分自身を切り刻むのと同じだ。その事実に、初めての殺しで気が付いたんだ。だから、二人目以降はモノとして壊すことにしたのさ。数なんて覚えてない。壊したモノの数をいちいち数え上げているようなら、僕はここに立っていない」


「そうか、人殺しですらなかったわけか」


 シノが魔剣の柄に指を掛ける。


「君に言われちゃ形がないね、どうも」


 レヒツがきまり悪そうに口角を上げた。


(一応言っておくけれど、コレじゃ火種にはならないわ)



──分かってる。



「最後に面白い話だった。もう少し聞いてみたいけど、時間がない。そろそろ──」


 レヒツの精気(オド)が研ぎ澄まされる。


 その頃にはシノも態勢を整えていた。



 魔剣を握る腕にありったけの精気(オド)を流し込む。


 引き絞られたレヒツの殺気は放たれる寸前だ。


「死んでもらおうかッ」


 言葉よりも速く走った切っ先は、レヒツが期待した肉を裂き、骨を断つ感触を伝えてはこなかった。


「は……?」


 レヒツが感じたのは何か硬いものに弾かれ、振るったはずの剣がはね上がられた奇妙な手応えと、腕に残る痺れだけだった。


 万全の体勢で、全力で振りぬいた剣を正面から弾き返されたことは記憶にない。


 腕ごとはね上げられたために、人体の致命的な弱点である胸部は無防備に晒されている。



──逃げなければ、死ぬ。



 レヒツは自らの感覚に従い、距離を取る。


 そして目を剥いた。


「それは何のつもりだ」


 シノの手に握られた剣は抜き身ではない。


 鞘に入ったままだったのだ。


「この程度では抜かせてもらえないらしい」


「……へぇ」


 虚勢ではない。


 シノ・グウェンは敵として、気負いなくレヒツの前にあった。



 数瞬前までは殺すに容易いと思っていた獲物が、今や互いに同等の生殺与奪の権利を有している。


 油断をすれば、殺される。



 レヒツにとっては久方ぶりの恐怖心。


「さっきの話だけど。なら、君は一体幾つの命を手にかけた? 僕には分かるんだ。君の手は血に染まってる」


「さあ。覚えてないな」


「アイン・スソーラの魔術師は虚偽を口にできない、か。やっぱり君とは話が合いそうだ。いいよ、やろうか。《赤龍の四爪、レヒツ・アルムが誓約の下に南方より赤龍の剛力を宿す》」


 詠唱と共に、長剣を握るレヒツの右腕が仄かな赤い光を帯びた。



 右腕だけが別の存在であるように、強大で変質しきった精気(オド)が流れていた。


 およそ人間程度の存在で生み出せる規模ではない。


 以前、この城で見た魔人とは違う。


 委ねるのではなく、能動的な支配によって『魔』を従えている。


 自らの内に異質な精気(オド)を取り込むことは、その精気(オド)に上書きされてしまう危険も孕む。


 異物が入った身体の負荷も相当なものだ。


 レヒツの身体は危うい均衡の下に、生命を保っている。



 その事実に、シノはレヒツの覚悟を見た。


 同時に魔剣が拍動し、殺意が脳髄を痙攣させる。


「それがお前の底か」


「そうさ。でも、手を届かせたりなんてしないけどね。どうだろう、オリア・ローゼンヴェルク王女殿下。円滑にことを進めさせてくれるのなら、苦しませず殺してさしあげますが」


 シノの後ろで、オリアが硬い声で応じる。


「わたしがそうしたら、ここではもう誰も殺さないで」


 レヒツが、にこりと含みなく笑った。


「無論です。任務の達成を確実なものとするために、邪魔な存在を排除したに過ぎません。僕の場合、誓いに意味はありませんが。任務を果たしさえすれば、その必要もないでしょう」


「……そう。いいわ」


 進もうとしたオリアの前を、広げたシノの腕が阻んだ。


「待て。勝手に話を進めるな」


「他にどうしようもないでしょ」


「端くれ、お前はそれでいいのか」


「わたしでも分かる。勝てる相手じゃない。姉様の魔術師が、あんなに……」


「俺の質問に答えろ」


 必死さの中にもどかしさをを滲ませながら、オリアが言葉をかぶせる。


「ねぇ、聞いて。前にもこんなことがあったの。その人はあなたと同じようなことを言って、そして死んじゃった。わたしは、せめてあなたには生きて欲しいの。これはあなたの為じゃない。わたしの為よ」


「そうかそれは大変だったな。で、おまえはそれでいいのか」



──もう喋らないで。


これ以上、未練を増やさないで。


殺される覚悟が揺らがないうちに、早く。



「そんなこと──」


「俺は物語に聞くような英雄じゃない。困っているからといって助けてなんてやるものか。生きる意志を持たない人間に、この世界はそんなに優しくない」



──生きていたい。


やっと、その理由も見つけられそうなのに。


でも、望むと理由の方が消えてしまうかもしれない。



「じゃあ、どうすればいいのよッ! そんな事、わたしにも分かってた……」


「死にたくなれば『私を護れ』と、そう言えばいい。簡単なことだろ」


「簡単……。簡単な、こと……!」


 唇を震わせながら、オリアが口を開いた。


 それは生きるためではない。


 訳知り顔で勝手をほざく傲慢な部外者を糾弾するためだ。


「ふざけるなッ! お前になにが分かる!? わたしは姉様とは違う」


 オリアの激情を浴びせかけられても、シノはただ軽薄な笑みを浮かべるのみだ。


「そんなのは言い訳だ。弱さから目を背けるための建前だ」


「そんなわけない」


「辛いんだろう」


「……違うって言ってるでしょ!」


「誰かに傍にいて、助けて欲しいんじゃねぇのか」


「い、いい加減に、して……」


「別に恥ずかしいことじゃない。それは人として、当然の感情だ」


「だったら……だとしたら何だって言うのよ! わたしが願えば、誰か一緒にいてくれるっていうの!? そんなことはもう何度も願ったわよ! でも、ダメだった。寄りかかった人達はみんな消えていく! わたしに力が……ないせいでっ!」


「何を言ってる。力なら持ってるじゃねえか」


「え?」


「今の俺はお前の剣だ。それもこういう手合いには最強の一振りだといっていい」


「本当に助けて……くれるの?」


 求めるように伸ばされた手を、シノは一笑に付した。


「まさか。お前が俺という剣でもって、降りかかる火の粉を払うだけだ。でも、剣は主人が身につけているものだろ。結果的に一緒にいることにはなる」



──このひとはなにをいってるんだろう。


いる?


いっしょに?


一緒に。



 今まさに命の灯火を消されようとしている時に、これほど似つかわしくない台詞もない。


 だが、シノは一方的な甘えは許さないとも言っている。


 望むところだ。


 身体を全て預けてきたから、寄りかかったモノは全てなくなってしまった。


 身を預けるのではなく、並び立つために。



「少しでも意気地というものが残っているのなら剣をとれ、オリア・ローゼンヴェルク」


 すっくと背を伸ばして、目前の敵を睥睨し、大きく息を吸い込む。


 初めて抱いた、それは“主命”だった。


「シノ・グウェン、命令を下します」


 シノが慇懃に答える。


「殿下、なんなりとお命じください」


「敵を排除しなさい。……それと、わたしを護って」


「ご命令、確かに承りました」


 恭しく首を垂れるシノは、果てしなく胡散臭い。


 だが、オリアにとってはこの上なく心強い言葉だった。


 王女に対する礼節の欠片もない。


 人を食ったような言葉は、“王女”ではなくオリアに対するものだ。



「さて、聞いての通りだ。退くのなら喜んで見送ってやる。」


「さっきの約束は反故になったということかな?」


「始めから守る気もなかっただろ」


 悪びれた様子もなく、レヒツは首肯した。


「うん。君だけは殺しておかないとね。顔を見られているし、何より我が君の為にも取り除いておいた方がいい。ここで君と出会えたのは、ある意味で幸運だった」


「俺はとてつもなく不運だと思うけどな」



 どちらからともなく走り出す。


 城内のまばらな灯がうっすらと映し出す両者の影が重なった。


 剣がぶつかり合う泣き叫ぶような音と共に三度、火花が散り、重なった影がまた分かたれる。



「今度は抜かせてもらえたみたいだね。それにしても歪な剣士だ。もしかして、君もどこか別の国の人間なのかな」


 恐怖は大きさを増し、死の気配がレヒツの間近に迫っている。



 三度刃を合わせた。


 いずれも必殺の意図を持って打ち込んだものだ。


 だが、斬撃は悉く防がれた。


 それも、刃の軌跡の上に自らの剣を置くという、母親に頭を叩かれそうになった子供が自らを庇うような無邪気な方法で。


 剣の扱いに熟達しているとは言い難く、拙さすらも感じるほどだ。


 確固たる理をもった斬撃が素人同然の剣に阻まれる。


 レヒツが剣に身を捧げた者であったならば、とうに自殺している。



──なぜ届かない。


なぜ生きてそこに居られる。



 魔術を使った様子はなく、魔力(マナ)も感じられない。


 そもそも龍の力を宿す腕で振るわれる剣と、まともに打ち合えるはずがない。


 筋力を強化したのか。


 いや、そもそも自身に嘘のつけないアイン・スソーラの魔術師に、発動者に干渉する魔術は扱えない。



 レヒツはこれまで自分と対し、死してきた者たちがしてきたように、必死に生き残る術を探る。



──目、か。



 赤龍が象徴するのは比類なき剛力。


 信じがたいことだが、龍を模した膂力で振るわれる刃の軌跡を視認し、受け流しているのか。


 得体の知れない強さが、生まれ持った機能によるものなら、この場においての対処は可能だ。



「覚えてないな」


 シノが同じ答えを繰り返しながら、剣先をレヒツへ向ける。


「君には〈竜狩り〉の矜持を曲げる価値がある」


 痛みさえ感じているような顔をしながら、レヒツは左手でローブをまさぐり、黒く丸い包みを取り出す。


「まだ仕事を終えてもいないのに、これを使うなんてね」


 本来は撤退のために用いるそれに、目を閉じたレヒツが切っ先を差し込む。


 瞬間、閃光がその場を満たした。


 あるもの全てが黄色の光で塗りつぶされるほどの光量は、人間の視界を破壊するためのものだ。


 閉じた目蓋の向こうからでもはっきりと感じ取ることのできる光が収まるのを待ちながら、レヒツが嘆息する。



──これは僕の負けだな。



 腹にたまる重苦しい敗北感は、この任の完了によって少しは軽くなるだろう。



 レヒツが右腕に持った剣を前に突き出し、突進をかけるべく呼吸を整える。


 後は視界を奪われ、どこから来るともわからない攻撃に慄いている標的の心臓をひと突きにするだけだ。



──卑怯だなんて言わないでくれよ。



 全身に力を込めた時、


「この卑怯者め」


 すぐそばで聞かされた音の羅列は、レヒツには悪魔の呟きにも等しい。


 まだ光は収まっていない。


 声のする方へと剣を振り抜こうとしたレヒツの身体にシノの膝が突き刺さり、整えた呼吸を吐き出しながら浮き上がる。


 踏みしめる大地を失い、込めた力は霧散した。


 落下を始めたレヒツが目を開けると、剣先が見えた。


 真っ直ぐにこちらを向いている。


 このまま振り下ろされれば、ちょうど地に磔られたような有様で命を落とすだろう。



──それもいい。


これほどの戦士の得物が墓標になるのなら、悪くない死に方じゃないか。



 死を受け入れたレヒツを襲ったのは、刺される鋭い痛みでもなく、肉を切られる焼けつくような痛みでもなく、額に感じる鈍い痛みだった。


 剣先は天を向いている。


 剣の柄で強打され、レヒツの脳が揺れた。


 地に転がった身体は脱力し、唇を動かすことが精一杯だった。


「どうし、て」


「これで人は殺せない」


 シノが既に鞘に納めた古びた魔剣を持ち上げてみせた。


「ははは……。それは何の……冗談」



 正確無比な動きは間違いなく人を壊すものであり、技の精度はその作業を幾度となく繰り返してきたことを物語る。


 紛れもなく人を壊す技と道具を用いていながら、殺せないとは本当に出来の悪い冗談だ。


 だが、分かったこともある。


 シノ・グウェンという存在は、元より何かを殺すためのモノなのだ。


 人外を一時的に身の内に宿す自分とは違う。


 振るう剣に理は見えないが、そんなものは最初から必要なかったのだ。



「なら……一体、君は何を殺してきたんだ……」


 答えを求めた相手はもう主の傍だった。

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