2-11 王女の剣Ⅲ
イスファーンを発って六度目の夕暮れに追い立てられるようにして、最低限の休息を除き東進し続けてきた馬車が止まる。
「やっと休めるみたいだね。ずっと歩き詰めだなんて勘弁してほしいよ。こっちは怪我人だよ」
自分たちよりも前にいる、馬に跨った魔術師たちを恨めしげに眺めながら、レヒツが愚痴をこぼした。
「まったくだ」
元気に文句を垂れるレヒツの横で、シノが無感情に相槌を打つ。
彼と共に殿になったことを、シノはその日のうちに後悔することになった。
レヒツは、なにか話し続けている時間の方が黙っている時間よりも長いのではないかと思えるほどに口数の多い男だった。
彼が眠っている時間だけが、シノにとって安らげる時間だった。
わずかな安らぎと引き換えに、貴重な睡眠時間を失うことにはなったが。
すっかり使節の長となった高圧的な貴族が大声で用件を呼ばわると、城の門番がはね橋を下ろし、城門を開放した。
その上を、疲労感と使命感に満ちた一団が進んでいく。
出迎える者はいない。
遠巻きに見る人間からは敵意すらも感じられるほどだった。
城壁を潜り抜けた先にあった城には、シノはなんとなく見覚えがあった。
「ここは……」
「アルバスだね。初めて来たよ。君、怖い顔をしてどうしたんだい。まぁ、ここは希代の反逆者がいた所だからねぇ。しかし、侯爵様の城にしては随分と質素だなぁ」
あんまり期待はできなさそうだ、とレヒツは腹を擦った。
「お前たちは門番をしておれ、とのことだ」
機嫌よく城内に足を踏み入れようとしたレヒツに、一人の貴族が気が進まなさそうに告げた。
「そんなぁ!」
シノが口を開くよりも早く、情けない顔をしたレヒツが抗議の声を上げる。
「私たちはここの領主代理と話をせねばならんのでな。殿下にも休んでいただかなければ」
レヒツは怯むことなく貴族に詰め寄り、ローブをまくり上げた。
「この腹を見てくれよ。こんなに痩せてしまって哀れだとは思わないのかい。思わないのなら、あなたは人でなしだ畜生だ野菜くずだ。王女殿下にこの仕打ちを訴えてやるっ」
腹を見せながら、息がかかりそうな距離で唾を飛ばしながらでがなり立てた。
「分かった、分かった。後で届けさせる。腹をしまえ」
身を引き、飛び散る唾から顔を逸らしながら貴族が宥めるように言った。
レヒツに礼儀というものを求めることはとうに諦めていた。
この男なら本当にやりかねないと、その恐れの方が大きい。
「本当だろうね」
「我が魔力に誓う。忘れずにお前たちに食事を届けさせよう」
「このレヒツ、命令承りましたッ!」
すっかり機嫌を直したレヒツが持ち場へと駆け出す。
「場所はあちらだ。……たのんだぞ、喪失者」
気の毒そうな顔をしながら、貴族の男は入ってきた門とは反対側の城門にたつ塔を指さした。
「分かりました」
一つため息をつき、シノは駆け出して行ったレヒツの後を追った。
レヒツの上機嫌は持ってこられた硬いパンと、ぬるく薄いスープを見た瞬間に消し飛んだ。
「こんなことが許されるか。六日間にわたって決死の行軍をしてきた我らに対してこの仕打ちッ! まだ今までの食事の方が食いでがあった」
パンを振り上げてレヒツが吠え、それを齧った。
「こんな、こんなものでは我らの腹は膨れないぃッ!」
塔の上で熱弁を振るう様は、大軍を鼓舞している将のように見えなくもない。
たった一人の観衆、シノは自分の分の食事を咀嚼しながら、
「ならどうするんだ」
残りのパンを胃に収め、スープで喉を潤しながら、レヒツは重々しく口を開く。
「かくなる上は略奪しかない。今は戦時だ、生きるためには仕方のない事もある。きっと君もついてきてくれる。そうだね?」
「ひとりで行け」
「友にも見放され、援軍もなく、味方は自分のみ。クククッ、いいじゃないか」
「だいたい、食堂の場所を知ってるのか。誰にも見つからずにたどり着けるとは思えないが」
「中庭に隠れながら探すさ。この僕を止めることはもう誰にもできないのだよ」
「……そうか。気を付けてな」
「なんだ、本当に君は行かないのか。仕方がない、君の分も取ってきてあげよう。期待してくれたまえよ、ははははッ!」
笑ったまま、跳ねるように梯子を下りて行った。
──期待はできないな。
見張るのが不毛に感じられるほどに、生命の気配のない平野が目の前に広がっている。
そこはもう〈教導国〉の領土だ。
思いもよらず手に入れた静寂を、シノは思索にあてることにした。
特に面白味もない、ただの荒野。
イスファーンの牢でオリアが語ってくれたことを思い出す。
『大災厄』において、ここでは多くの人間の骸が転がったと。
夜の闇に覆われ、さながら巨大な穴のように見えた。
底の見えない闇を眺めていると、シノは何か落ち着かない気持ちに襲われた。
ずっと胸に巣食う焦燥感のようなものが熱を持つのだ。
掌に感じた鋭い痛みで我にかえる。
無意識に強く握り込んだためにできた爪痕がすぐに赤い線となり、少量の血が手首を伝った。
「……」
(何か気になることでもあるの)
魔剣の声が響く。
心配というよりは、警戒したような問いかけ。
「なんというか、ここからの眺めは気分が悪い」
(そう……)
シノは続きを待ったが、それきり魔剣は言葉を継がなかった。
他にすることもなく、与えられた仕事に忠実に夜に閉ざされた荒野を眺めていたが、いい加減に気が滅入ってきた頃、近づきつつある一つの気配に気付いた。
一応の気づかれない努力はしているようだったが、かえって目立ってしまっていた。
身を隠すという行為自体が、自分で自分の存在に意識を向けるようなものだ。
視界から消える事はできるかもしれないが、目を使わずとも存在を認知できる者からすれば全く意味をなさない努力といえる。
だが、少しは気が紛れるかもしれない。
密かに喜びながら、シノはその存在に意識を向けた。
「案外、上手くいくものね」
オリアはアルバスであてがわれた部屋に取り付けられた窓から、庭へと下りた。
部屋の扉に目を走らせたが、気づかれた様子はない。
護ってくれている人間には申し訳ないような気がしないでもないけれど、
「……約束したんだから」
自分に言い聞かせるように少しの後ろめたさを振り払うと、オリアはローブを頭まで被って慎重に足を踏み出した。
内装が殺風景な城ではあるが、中庭には所狭しと植物が育てられ、身を隠す場所には困らなかった。
オドリオソラは殺しの一族だと聞いていたが、花を愛でるような趣味を持っていたのかと、オリアは意外に思った。
〈教導国〉との国境にある城にしては、不気味なほど人がいない。
ここを根城にしていたオドリオソラとやらは、名だけで他国を牽制するほどの威があったのだろうか。
子供の頃、よく姉と一緒に城の中で隠れて遊んだことを思い出す。
最後は降参した姉に、後ろから飛びつくのがお決まりだった。
今考えれば、向こうは手加減をしていたような気がしないでもないが。
部屋の前を固める魔術師たちの中に、探している顔はなかった。
そもそも彼は忌むべき喪失者だ。
重要な仕事は任されないだろう。
訪問者もいないであろうこの城では、門の警備くらいがせいぜいではないだろうか。
先ほどの魔術師の言葉を考えても、その可能性が限りなく高い。
かなり夜も更けているし、眠たそうな目をして、ぼおっと突っ立っているに違いない。
その様を想像して、オリアは小さく笑った。
中庭を抜け、城門に向かおうとした時だった。
「おんや、こんなところで何をしているんだい」
身を縮ませながら、声の方へ振り返ると自分と同じように草陰で身を低くしている男がいた。
頭に葉を乗せたまま、人のよさそうな笑みを浮かべている。
見覚えのある男だった。
ずっとシノと一緒にいたから覚えている。
オリアは目深にかぶっているローブをさらに引っ張る。
顔は見られていないはず。
「あの──」
口を開きかけたオリアの前に男が手を突き出して遮った。
「いや、やめておこう。訳アリとみた。実は僕もでね。お互い、ここでは出会わなかったというのはどうだろう」
オリアが黙ってうなずく。
男は機嫌よく微笑んだ。
「結構」
「少し、聞きたい事があります」
オリアが通ってきた方へ行こうとした男を呼び止めた。
「なにか? 言っておくと、僕は今とても忙しい。大いなる作戦を遂行中なのでね」
「一緒にいた男の人はどこにいますか」
「彼に用なのかい」
「えぇ」
「大事な?」
男の声が少し冷たくなった気がして、オリアは身体を固めた。
「……えぇ」
「彼ならあそこにいるよ」
再び柔らかい笑みを浮かべて、指さしたのは城門のある高い塔だ。
「ありがとう!」
「最後に一つだけ。できることならあの青年に関わるのはやめた方がいい、お嬢さん。そして急いでここを離れるんだ。アレは、君のような娘さんが関わってはいけないモノだ。……僕が言うのもお笑い種なんだけどね」
「ご忠告ありがとう」
それだけを言って、オリアがその場を後にした。
アルバスのどこからでも見えるであろうそこにたどり着くのは難しくなかった。
塔の上部に灯る松明が、そこに人がいることを教えてくれる。
周りに誰もいないことを確認して、オリアが梯子に手をかけた。
オリアの期待通りに、塔の上には背を向けた男がいた。
隻腕、黒い髪に全く感じられない魔力。
間違いない。
しかし、いつもと何かが違う。
オリアがしばし考え込む。
──そうか。
いつもは冷たい鉄格子が間にあった。
手を伸ばせば届く距離にいたものの、その温度を感じることはなかった。
──そういえば触ったことはなかったっけ。
驚かせようとシノの背後から忍び寄ったオリアが、肩に手を掛けようとしたとき、
「眠れないのか、端くれ」
背中越しに投げられた言葉に、オリアがビクッと身を竦ませた。
頭まで被ったローブを外す。
熱のこもった頭にかかる外気が心地いい。
「分かるの?」
「俺の役目は端くれを護ることだからな」
シノが立っている場所は城門の上に設えられた見張り台だ。
そこから見えるのは〈教導国〉に広がる褐色の荒野と、その遥か向こうのアルバスに向かい合うようにして築かれた城砦のかすかな灯だけだ。
オリアが笑みを含ませて、
「こんな所で?」
「別に眼で視る必要はないだろ。かえってその方が分かることが多い時もある」
「ふぅん。よくわからないけど」
「だからお前が部屋から抜け出して、ここに来たことも知っている。何か用か」
「続き、話してあげよっか? 約束したでしょ」
「約束?」
「またね、って言ったでしょ」
──あんなのは別れの挨拶のようなものだ。
そんなことのために、お前はここまで来たのか。
オリアを護るのがシノの役割だ。
あまり好ましいことではない。
言うべき言葉は浮かんでくるが、シノはひとまずそれらを胸にしまっておくことにした。
確かに今、シノは少しだけオリアに救われているし、今に限ってはここにいてくれた方が都合が良かったからだ。
「……あぁ。いや、いいよ。今は聞きたい気分じゃない」
「そ、そう……」
顔を曇らせてオリアが俯き、沈黙がその場を支配した。
元来、オリアは人と接するのが得意な人間ではない。
あらかじめ準備してきた話題を封じられたとなると、沈黙に絡めとられるのは必然だった。
沈んだ表情で黙り込むオリアに、シノは若干の罪悪感を覚えた。
普段感じるものとは別種の居心地の悪さだ。
打開する術を、シノは知らない。
「爪先、痛いのか?」
「え?」
「ずっと見てるからさ」
「そんなわけないでしょ」
「……ですよね」
2度目の沈黙はさらに重さを増していた。
「じゃあ、お前のことを教えてくれよ」
「わたしの?」
「あぁ。なんでもいい、とりあえず生きてきたんだ、何か語れることがあるだろ」
王女である前に、人に対してかなり不躾な聞きようだが、オリアは不思議と悪い気がしなかった。
ただ、気は進まない。
オリアは自分が嫌いだった。
肯定的に語れることなんか何もない。
自分でも目を背けたいものなのに、どうしてそれを他人に向かって口にできよう。
「じゃあ、名前から──」
「それはいらない。もう知ってる」
怪しいものだ、とオリアは思った。
シノの口からは、一度もオリアの名が出てきたことがない。
「なんでもいいって言ったじゃない」
「いいんだよ、名前は」
喉まで文句が出かかったが、オリアがそれを舌にのせることはできなかった。
理不尽なシノの言葉が、今にも泣き出しそうに濡れていたような気がしたからだ。
「王女さんを憎んでいるのか。殺したい人間がいるって言ってただろ」
──これだ。
だからこの男は油断できない。
初めて会った時もそうだった。
一番触れられたくない部分を殴りつけてくる。
まるで蛇。
いつの間にか首元に手を掛けられているのだ。
いつもなら絶対に取り合わない話だが、動揺と、この状況がオリアの口を滑らかにする。
「そんな訳……。ただ、向こうはあまりいい気はしてないと思う」
「なぜそう思う」
「だってほら、お姉様は優秀な魔術師だけど、わたしはこんなだし……。面汚しだし」
「それだけか」
「……」
オリアが軽く目を閉じた。
妹を護れと言った時の剣幕を思い出せば、少なくともユリアーネの方はオリアの身を案じていると分かる。
そして、ユリアーネがオリアに歩み寄ることを躊躇しているのも事実。
導き出される結論は。
──俺の知らないことがある。
それが姉妹を隔てている壁なのだろう。
せめて壁が何なのかが分かれば──。
「俺は何を考えているんだ」
シノが自嘲するように呟いた。
分かったらどうするというのだろう。
だが、心は勝手に都合の良い建前を用意する。
──でも、必要なことだ。
生きる意志のないモノを護ることは難しい。
お前の役割は、目の前の少女を傷一つつけることなく護ることなのだから。
「なんなのよもう……」
機嫌を損ねたオリアに言い訳をすべく、シノが口を開きかけたとき、
──死んだな。
攻撃的な精気が城内に広がり、だんだんと強くなっていく。
王女の不在に気付かれたのかとも考えたが、この殺気は人が何かを傷つけるという意志のもと、行動した際に発露するものだ。
──狙いは。
シノはすぐさま内を流れる精気を城内に向け、探りを入れる。
始めは小さな波だった殺気がその勢いを強め、すぐに巨大な渦となり、唐突に消えた。
中心はこの城におけるオリアのいるはずだった場所だ。
これほどの殺意をよくも隠していたものだ、とシノは内心で感嘆した。
今度はシノ達のすぐ近くに新しい殺意が現れた。
「離れるな、端くれ」
シノが手を伸ばしてオリアを引き寄せながら腕の内に収め、脚を踏みしめて精気を走らせる。
「え、ちょっと──」
オリアの心臓がはねる前に、
「殺されるぞ」
落ちてきたゾッとするほどの冷たい声に鼓動が凍りついた。
オリアを抱えたシノが、一息に見張り台を飛び降りる。
着地とともに骨が軋みそうな衝撃が抱えられているオリアを襲ったが、シノは体勢を崩すことなくそのまま前方へ跳んだ。
瞬間、轟音と共に土埃が舞い上がる。
薄目を開けたオリアが絶句する。
「なに、これ──」
何か巨大な円筒のようなものが落ちている。
放心して見上げると、少しだけ低くなった見張り台が無残な姿を晒していた。
これが、さっきまで自分が立っていた建造物だとオリアが気付くのに少し時間を要した。
「誰だかしらねぇが、塔を輪切りにしやがった。すげえ力だな。アレも魔術なのか」
シノが抱えていたオリアを下ろすが、オリアは脚に力が入らず地面にペタンと尻をついた。
「何が起きてるの……」
感心したように見上げながら、シノは端的に答える。
「敵襲だな。狙いはもちろん」
──わたし、だ。
ようやく鈍く巡り始めた思考でも、それくらいは分かる。
そして、仕組んだ人間の顔も。
溜まっていた淀みが汚泥となって心中を満たし、深みへと沈めていく。




