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2-7 強さⅣ

「おめぇ、何モンだ?」


 次に牢の空気を震わせたのは、耳にへばりつくしゃがれた男の声だった。


 年老いた男が盆を片手に立っていた。


 枯れ木のような両の手からは指が何本か欠けており、カタカタと盆の上のパンとスープの器が危なっかしく音を立てている。


「あぁ、あんたか……」


 食事を持ってくる時など、牢番とは一番多く顔を合わせているのに、声を聞いたのはこれが初めてだった。


 退屈を持て余したシノが何度話しかけても、聞こえている素振りすら見せなかったのだ。


 そのうち、シノはこの牢番に話しかけるのをやめてしまった。



「あんた喋れたのか」


「絶対に話しちゃなんねぇって言われてたもんでよ。逆らったら、あのおっかねぇ姉ちゃんに殺されちまうよ。それよりおめぇ、何モンよ?」


 城に勤めている者にしては、王女に対しての敬意が欠けている。


 シノは右腕と足にはめられた枷を示して、


「見りゃ分かるだろ。囚人だよ」


「馬鹿を言えおめぇ、普通の囚人はこんな所にゃあ入らねぇんだ」


「そうなのか?」


「おうよ。ここはなぁ、お城の一番上よ。長えことやってるけどよ、連れ出されて戻ってきたヤツぁ、あんたが初めてでさ。ここに入れられんのは、いることさえ隠さにゃあならんヤツだけだ。いちゃなんねぇから、すぐ消されるってことよ。それで、また戻ってきたおめぇはいってえ何なんだ?」


「……分からん」


「なんだそりゃあ?」



 本当に何なのだろう。


 そのことに意識を持っていくと、正体不明の焦燥感が募っていく。


 なにか大事な事を忘れているような、収まりの悪さ。



 考えれば考えるほど思考の沼に嵌まっていきそうなので、とりあえずシノは直近の欲望を満たすことにした。


「それより早く飯をくれよ」


「処刑すんのに重くなるから、飯なんか食わさねぇのによ……」


 牢番は覚束ない手つきで食事の乗った盆を差し入れると、ブツブツと独り言を言いながら去っていった。


 シノはパンを冷めたスープに浸して、重苦しい不安と一緒に喉に押し込んだ。



──当面の道は定まった。


あとはそれを遂行するだけだ。



 すべきことがあるという事実が、少し気を楽にしてくれた。


 腹が満たされると、眠気が押し寄せてくる。


 昼夜も判然としないここでは、眠気を感じた時が夜だ。






「おらぁこの仕事を気に入ってンだ」


 隙間だらけの黄ばんだ歯を見せながら、牢番はヒヒッと笑った。


「なぜって? ここは滅多に使われねぇ。する事もねぇってワケだ。それでお給金が貰えるってんだから、こんなにいい仕事はねぇ。ちと暗いのが困りもんだがな。そうはおもわねぇか?」


「そうだな……」


 シノが気のない返事をする。


「入ってきても、どうせすぐにいなくなるンだけどよ。どうせ飢えておっちんじまう前に殺されんだから、飯の世話も必要ねぇ。軽い方が処刑人も楽でいいってもんだ」


 それからまた、ガハハッと笑った。


 牢に入っている当事者のシノとしては、全く楽しくない話題であった。



 牢の中はとにかく退屈だ。


 シュミートにいたときは忙しなさを疎んだものだが、今はそれを恋しく思ってさえいた。


 何もない牢で退屈を紛らわすものといえば、会話くらいしかないが、この牢番は話をするには向かないということがすぐに分かった。


 こちらの話は聞かないし、こちらが話を聞いているかも気にしていないのだ。


 意志疎通のできるもう一つの存在である魔剣は気まぐれで、用がないときは話しかけても返事一つよこさない。


 ひとしきり話して、牢番は満足そうに息をつくと、去ってゆく。



 そして少し後、牢と城内とを隔てる扉が重く軋み、隙間から光が射した。


 薄暗さに慣れきった目には強すぎる光に、シノは目を伏せる。


 しかし、訪問者が誰なのかは分かった。


 ここ数日、同じことが繰り返されているからだ。


「よぉ、端くれ。王女ってのは暇なのか?」


 予想(あやま)たず、訪ねてきたのはオリアだった。


 殺伐とした別れだったはずだが、翌日からオリアはシノの房へ足を運ぶようになった。


 シノの言葉に、ユリアーネの面影のある目元がふてくされたように格子の向こ側に視線を投げた。


「昨日、あなたがまた来てくれって言ったから来てあげたの。……それに、わたしがどこにいようと誰も気になんかしないわ。必要ないもの」


「そう言われたのか? お前が言っているだけか?」


「どっちでもいいでしょ。変な事ばっかり言うなら帰るわよ」


「待て待て。話を聞かせてくれ。退屈で死にそうなんだ」


「まぁ、いいけど」


 少し機嫌を直して、オリアが格子の前に腰を下ろした。


 うっすらと埃の積もった牢の床は決して清潔とは言えないような状態であったが、オリアは気にする素振りも見せない。


「……どこまで話したっけ?」


 この問いを、オリアは毎回シノに重ねてきた。


 ちゃんと話を聞いているのかを確かめるように。


「『大災厄』の終盤がどうとか言ってたな」


 シノの答えに満足したのか、オリアが話し始める。


「『大災厄』の最終盤、敗走を重ねた悪魔たちは、今の〈教導国〉があるオイケイン平野に追い詰められた」


「事実上、最後の決戦だった戦いか」


 シュミートの教員が何度も繰り返していた話を思い出してはみるが、それ以上の情報は浮かんでこなかった。


「あら、さすがに知っているのね」


「いや、詳しいことは。聞き流していたからな」


「そ。でも、ここからは知らないはずよ。王城にしかその戦いの記録がないんだから」


 得意げに、オリアは胸を反らせた。


「へぇ、どうなるんだ?」


「最後の戦いで、大英雄たちは窮地に陥った。敗れたと言っても良いのかもしれないわ」


「負けたのか?」


「大英雄たちは協力して魔的な存在を許さない『聖域』を創り、そこに悪魔を封じ込めて消滅させようとした。でも、彼らはそれをある方法によって克服したの」


 耳の奥から、自分の心臓の鼓動が聞こえる。



──悪魔。


アクマ。


ソレハケシテシマワナケレバ。



「……!」


「どうしたの?」


 苛立たしげに胸を掻き毟ったシノに、オリアが怪訝な顔を向ける。


 もう鼓動は聞こえない。


「何でもない。それで、続きは?」


「悪魔たちは人間を乗っ取ることで、聖域を無効化したの。(もと)となった存在は人間だから、聖域の力は及ばなかった」


「なるほど」



 なぜアレイスター・クロウリーが魔人などという着想を得たのか、少し分かった気がする。


 魔人と、悪魔に乗っ取られた人間は主導権が人間側なのか、悪魔側なのか、その程度の違いしかないのかもしれない。

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