表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/64

2-3 遠謀Ⅲ

「クソッ、あの男は何なのッ!」


 自室に入り、人の目に触れる心配がなくなった瞬間、穏やかな顔をかなぐり捨てて壁を蹴りつける。


 爪先に感じる鈍い痛みが、さらに心をかき乱した。


「誰もお前に話を聞いて欲しいだなんて思ってない! 見透かされてなんかない!」


 気を落ち着かせようと、隅に置いてある水瓶に頭を突っ込んだ。



 ひんやりと冷たい感覚が、熱く燃えた怒りを少しだけ鎮めてくれた。


 息が続かず、冷たさを名残惜しく思いながらオリアが顔を上げる。


 濡れた肌が空気に触れ、これもまた気持ちよかった。



 髪を伝って(したた)りた水滴が、水瓶の水面を乱し、そこに映るオリアの顔を揺らめかせている。



──似てる。



 この顔だけが、あの人が本当に自分の姉なのだと信じるに足る根拠だった。




 王族、もっと言えば貴族とはどんな人間なのだろうか。


 何を考えて生きているのだろう。


 金か、魔術師としての名誉か、その両方か。



 オリア・ローゼンヴェルクは、未だ己の生き方が見定められずにいた。


 この国で最も高貴な名を持ちながら、彼女には実感がなかった。


 ローゼンヴェルクの名にあるまじき魔術師としての脆弱さも手伝っているのかもしれないが、原因は別のところにあるのではないかと、オリアは考えていた。



 思い出せる限り一番古い記憶は、台所に立つ母の背中だった。


 そこは城ではない。


 華美さは全くないが、不思議と落ち着く場所だったような気がする。



 既にその母は亡く、確かめることはできない。


 もっとも、聞いたところで答えてくれたことはなかったが。



 母を思い出すと、罪悪感と無力感が胸に刺さる。



 オリアは顔を出しかけた苦い記憶を、記憶の奥へと押し込めた。



 要するに、ローゼンベルクの血を引いてはいても、自分は生まれながらの王族ではないのだ。


 城の中に身の置き所がないのは当然なのかもしれない。



 不意に、扉が鳴らされる。


 約束もなく、ここを訪ねる権利のある人間は限られている。


 そして、そんな人間には誰であれ仮面を被る必要があった。


 本心を覆い隠すくらいわけはない。


 瞬き一つで完璧に切り替えることができる。


 即座にいつもの穏やかな笑みを作り、静かな声で返事をする。


「どうぞ」



「入るぞ。さっきはどこに行っていたんだ? ずいぶん探したんだ。結局、こっちに戻っていて拍子抜けだ」


 入ってきたのはユリアーネだった。


 後ろには金髪の少女と、同じ色合いをした髪の巨漢を従えている。


 二人の態度は忠誠心に満ちており、主人の妹の居室に入った時でさえ、警戒を緩めていない。


 全ては主人を守りたい一心なのだ。


 ひょっとしたら、自分が抱いている(くら)い感情に気付いているのかもしれない。


 今まで、自分をそんな風に守ってくれる人間はいなかった。



 それはそのまま人としての価値のように、オリアには思えた。


 また姉との差を見つけた気がして、二人の姿を視界から追い出した。



「申し訳ありません、少し所用が。それで、どうかされましたか、お姉様」



 少し声が震えてしまったかもしれない。


 あの男と会ってから、まだ心が平静を取り戻せずにいる。



 そんなことには気付いた様子もなく、ユリアーネは微笑んだ。



 少し困ったような暗さはあるが、綺麗で混じり気のない美しい笑みだ。


 屈託のない笑顔とは、こういうものを言うのだろう。


 似た顔なのに、笑顔はこんなにも違う。


 はっきり言って、姉は嫌いだった。


 自分にないものを全て持っており、その多くは美点となり得る代物なのだ。


 そして、自分が持っているものも姉は全て持っている。


 そんな胸の内にも気付かずに、姉が屈託のない笑顔を向けているのが滑稽で少し笑えた。




「いいさ。正式な命令は後から受けると思うが、オリアにはアイン・スソーラの大使として、外国へ行ってもらうことになった」


「私が……とは珍しいこともあるのですね」


 オリアの驚きは演技ではない。


 こういった外交事は、ユリアーネが行うのが常だった。



「お母様の決定でな」


 ユリアーネの笑顔が少し曇った。



 母の決定、と聞いてオリアの心にも暗雲がたちこめる。



 嫌な予感が胸を叩いて、うるさいほどだ。


 だが、聞かないわけにはいかない。



「私はどこに行けばいいのでしょうか?」


「あぁ、それは……」


 ユリアーネが言い淀んだ。



「姉妹の仲が良いのは素晴らしいことです。しかし、扉を開け放したまま秘事を漏らすとは、感心しませんね」


 答えたのはユリアーネではない。


 もっと低く、起伏のない声だった。


「お母様……」


 声の主は、艶のある黒い髪を高く結い上げた、切れ長の目をした女性だった。


 身体に不調を抱えているのかと思うほどに、白粉が塗られた肌は白い。


 ユリアーネの傍に控えるメルヴィナとコーマックはその姿を目にするとすぐに膝をつき、2人の王女も礼を示す。



 声の主──マリアンネ・ローゼンヴェルクは部屋には入らず、外に立ったまま2人の娘を眺める。


 その顔は無表情で、肉親の情という温かみは一切ない。


「オリアさん」


 マリアンネは口元だけで娘の名を呼んだ。


「はい」


 オリアの声は平静そのものだったが、身体は微かに震えていたのに気付いたのは、近くにいたユリアーネだけだった。


「あなたには教導国に行ってもらいます」



 マリアンネの言葉は簡潔だったが、言外に含まれる意味は少なくない。



 ──教導国。


 その国の内情はよく知らないし、知ろうともしてこなかった。


 でも、これだけは知っている。


 というよりは、知らない者などいないだろう。


『大災厄』以後、急速に勢力を伸ばした新興国家。


 教導国は魔力(マナ)を与える『神』を盲信し、その信仰によって国を為している。


 その国の詳細はよく分かっていない。


 国家元首は、行方不明になった大英雄だという噂すらもあるほどだ。


 そして、アイン・スソーラは、彼らが信奉する『神』を害している。



 今ならなぜユリアーネではなく、自身が今回の使者を任されたのか理解できる。


 オリアは自分の身体が、恐怖からはっきりと震えるのを感じた。


「聞こえましたか? これは陛下のご意思でもあります」


 何も答えないオリアに、マリアンネが目つきを鋭くする。


「はい……。御心のままに」



 頭を垂れるオリアは項垂れているように見えた。


「行きますよ、リアン」


 オリアの了承を確認するとすぐに、マリアンネが背を向ける。


 妹に声をかけたい思いを堪えて、ユリアーネも母にならった。




 振り返った時、いつの間にか顔を上げていたオリアと目が合った。


 その時、初めてオリアの心の底を見た気がした。


 いつも穏やかな、ともすれば薄情ともいえる笑みを浮かべていた面影はなく、凍るような憎悪だけがあった。


 母がいなくとも、何か言葉を発することはできなかっただろう。



──やはり、私も憎いか。



 憎悪がユリアーネに決断をさせた。


 全てを手に入れる為の強欲な決断を。






「気が進みませんか?」


 足を緩めずに、マリアンネがユリアーネに問いかけた。



 別に気遣っているわけではないのだろう。



 短くユリアーネは否定する。


「いえ」


「情に囚われてはいけませんよ」


「分かっています。ですが、一つだけお願いがあります」


「聞きましょう」


「オリアが向かうにあたって、随行を一人、お許しいただきたいのです」


 マリアンネの目が鋭く細められる。


「仮にも我が国の使節、同行者なら失礼のない数を用意する予定です」


「いえ、そうではなく。側近を一人つけさせて頂きたく思います」


「理由があるのでしょうね?」


 疑念の混ざった視線を、ユリアーネはしっかりと受け止める。


「もちろんです。……オリアの騎士は今回、同行しないのですか?」


「今は一人でも有能な魔術師が惜しい時です」



 (はら)は読めた。


 要するに、抗議をしてきた教導国に対して時間を稼ぎたいのだ。



「なにも強力な騎士を付けろとは申しません。その者は喪失者(ルーザー)であり、魔力(マナ)を持たない平民です。妹を死地に向かわせる後ろめたさを和らげる、姉のわがままとお思い下さい。仮に最期を迎えるとしても、誰も側にいないのでは不憫でありましょう」


 マリアンネはすぐには答えない。


 無表情に見えるその奥で、こちらの底をつかみ取ろうとしているのが分かった。


 多少強硬になっても、ここを譲るわけにはいかない。



「認めて下さるならば、以後、このことに関しての異議は申しません」


「……いいでしょう。ただし、私が直接見定めます」






 ユリアーネが再び牢を訪れたのは、前回の訪問の翌日だった。


 なぜ王女ともあろうものが、囚人一匹を何度も訪ねてくるのかと首をひねる牢番を強引に追い出し、ユリアーネは再びシノの前に現れた。


 傍らには盾を背負い、武装したコーマックを従えている。



「もう来たのか」


 言葉ほどにシノは驚いていない。


「決断は早い方だ」


「あぁ、そうだったな」



 少し噛み合わない返答に違和感はあったが、これから話そうとしていることに比べれば取るに足らないものだ。



「やってもらいたいことがある」


「分かった。やろう」


「まだ何も言っていないが?」


「俺も決断は早い方だ」


 ユリアーネが笑みを浮かべる。


「気に入った。コーマック、鍵を」


 鍵を受け取り、ユリアーネが自らの手で檻の錠前を外す。


 そのまま、鎖に繋がれたシノの側に歩み寄る。



 シノがその気になれば、コーマックよりも速くユリアーネの細首をへし折るだろう。



「だから妹は連れて来なかったのですね」



 この場にメルヴィナがいれば、断固としてユリアーネを止めたはずだ。



「そうだ。信頼の証を示す必要があった」


 膝をついて外した枷の鎖をぶら下げながら、ユリアーネが肯定する。


「相変わらず無茶をなさる」


 コーマックの声には、諦めすら混ざっている。


 この王女を主に頂いている以上、仕方のないことなのだとコーマックは割り切っていた。


「だが、これで分かっただろう? 少なくとも、この件について私たちと、この男は協力できる」



 主人を諌めるべきなのは分かっている。


 同時に、なにか特別な瞬間となるのではないかという予感も確かにあった。



「御心のままに」



 ユリアーネの遠謀か、ただの愚策か。


 いずれにせよ、コーマック・ウォールズは『盾』だ。


 凶刃が主の身に届かぬように、ただ前に立ってさえいればそれでいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ