1-31 愚者の結末Ⅰ
「いや、思ってたより、対価が少し大きすぎて驚いただけだ。仮にも神と大英雄を退けようってんだ。そのくらいで済むのなら安いものか」
市場でちょっとした買い物をするような気軽さで、シノは命を差し出す覚悟を言葉にする。
(……え?)
「なんだよ」
(あなたの、命なのよ?)
「分かってるけど、他に何も持ってないもんで」
(いいのね?)
「しつこいな。もしかして、心配してくれてるのか?」
(そ、そんなわけないでしょう! あーあ、今回の担い手とは短い付き合いだったなぁって思っただけよ)
「だよな。お前みたいなのが、そんな殊勝な事を思うわけがねぇよな」
(そうよ!)
シノのそんな物言いすら、気遣いに聞こえてしまって、ますます言葉が鋭くなる。
「で、どうすればいい?」
(あなたには魔力が無いから、血を私の身体に。それで直接繋がるわ)
「分かった」
迷いなく、シノが剣を抜く。
幸い、血なら今、全身から流れている。
目が見えずとも、剣に血を塗ることは容易い。
「……悪いな、目覚めたばっかりだってのに」
(もっと外を見てみたかったけど、まぁいいわ。お腹いっぱいで眠れそうだしね。それに希望がないわけじゃない。あなたを使い切る前に……。いえ、何でもないわ)
余力を残して凌駕できるほど、目の前の敵は甘くない。
希望的観測は、担い手の覚悟を鈍らせるだけだ。
「さぁ、始めてくれ」
(──《血刀 点火》!)
どす黒い血が塗りたくられた剣身は紅く輝いている。
その様は、血を油とし、燃え盛る松明のようだった。
変化は剣そのものだけに留まらない。
剣を抜いているにも関わらず、シノの目はしっかりとクロウリーを捉えている。
代わりに、シノの肉体は色を失っていた。
髪は灰色に、黒瞳は色をなくし、向こうに流れる血の赤が透けて見え、肌には生気がなく、顔面は蒼白だった。
「それが、お前の結末か。もう、戻るつもりはないのだな?」
シノの持つ剣が放つ眩い赤光は、燃え尽きようとする灯火の揺らめきに似ている。
「もちろん」
「ならば私も応えねばなるまい。《神は誰の為にも機能しない》」
聞き覚えのある詠唱にシノが身構えるが、アロイスに起こったような変容は、クロウリーにはない。
瞳も人間のものだ。
「……。この感覚は、何度やっても慣れんものだな」
振り払うように頭を振るクロウリーは、至って普通の人間に見える。
だが、より強くシノの中に渦巻く殺意は、目の前にいるのが魔に属するモノだと告げていた。
「やっぱり、あんたも悪魔に魂を売ったのか?」
「貸してやっただけだ。用が済めば利子をつけて返してもらう。お前や、オドリオソラの長子とは違う。……しかし、お前は人ならざる力を受け入れるのだな」
「使えるものは何でも使う性分だ」
「同感だ。お前を私の敵だと認める。全力でもって、お前を殺すと約束しよう」
シノ・グウェンは、取るに足らない道端の石ころではなくなった。
乗り越えるべき壁、信念に一点の曇りなく打倒しなければならない敵となったのだ。
その為に、身体を奪われる危険を冒してまで、内に宿した魔を目覚めさせたのだから。
間違いなく余分な不確かさではあったが、それは相手も同じだ。
決闘というものは、対等の条件でなければならない。
「踏み躙られる心づもりはいいか、シノ・グウェン」
「あんたこそ、後の償いの事でも考えてろよ」
双方に、もう言葉を尽くす意味はない。
正しさを、勝敗によって決するのみだ。
顕現したのは、無色の魔力。
悪魔と神の力が相克し合う、ただ在るだけで亡失を撒き散らす巨大な負の魔力。
ただ一人を死に至らしめる為にのみ創られた、『死』という概念そのもの。
オドリオソラの秘術は、その飛沫の一つにすぎない。
『大災厄』にてクロウリーが経験し、長きにわたって内で醸成され続けてきた、絶対的な終わりのカタチだった。
迎え撃つのは、紅刃の魔剣とちっぽけな隻腕の喪失者。
膨れ上がる『死』は、瞬く間にシノを呑み込んだ。
そこは墓所のような雰囲気の場所だった。
明かりの類は一切なく、手足すら判然としないほどの暗闇に覆いつくされていた。
だが、不思議と不安は感じていない。
それどころか、シノを満たしたのは、包み込まれるような温かい幸福感だった。
「もう、そんなになってまで……。がんばったね、シノ」
やや厳しい口調ながら、優しく労う声が、シノの耳を撫でる。
目の前に立っていたのは、シェイラ・オドリオソラだった。
いつの間にか、シェイラの向こう側から光が射していた。
光に誘われるように、ユリアーネとメルヴィナの姿も現れる。
「よくやってくれた、シノ」
「えぇ、今回ばかりは感謝です」
主従二人の表情も、見たことが無いほどに柔らかい。
「お前ら……。逃げられたんだな」
「あなたのおかげ。ありがとう」
シェイラの腕が、シノの頭をそっとかき抱いた。
「なんか、恥ずかしいな」
「そう? 誰も見ていないわよ」
「……これって、俺の願望ってことなのか?」
シェイラに抱かれながら、シノが呟いた。
結局のところ、お粗末な自己犠牲を買って出たのは、誰かに認めてほしかったからなのだ。
“よくやった”、 “お前のおかげで助かった”と、感謝してほしいだけだった。
(人が『死』を恐怖するのは、いろいろな痛みを伴うと知っているからよ。痛みがなければ、『死』は甘美なもの。向こうへ行けば楽になれるわよ?)
呟きに答える言葉と共に、シノの右手に一振りの剣が顕現する。
「俺がここでそれを選べば、あの男は止められない」
(えぇ、そうね)
「じゃあ、早くここから出ないとな。これ以上、俺の恥ずかしい内面が晒されないように」
紅く輝く刃は、より輝きを増し、その光を浴びた三人は溶け落ちるように消えた。
(恥ずかしがる必要はないわ。人間はそういうものだから。ただ一つ言うのなら、あなたにも可愛らしいところがあるのねぇ)
魔剣に顔があったのなら、きっとニヤニヤと笑っているに違いない。
「ほっといてくれ。俺は意味のない安らかな死よりは、多少苦しくても何かを残せるほうを選ぶよ」
(残せる、ねぇ……)
もしかしたら魔剣は、浅ましい内心に気付いているのかもしれない。
どうでもいいか。
どうせ、あと数分の付き合いだしな。
「必要なのは、一刻も早くヤツを殺す力だ。その為に必要なら、いくらでも持っていけ!」
シノが魔剣を振りかぶる。
存在意義は、魔に属するモノの殲滅。
それを証明してみせろ。
振り下ろされた魔剣は、闇に紅い亀裂を入れる。
命を燃やされ、人としての根幹が喪われてゆくのを感じた。
『死』が、崩れ落ちていく。
神であろうと、悪魔であろうと、魔に属するモノに違いはない。
上位存在を従え、最高の魔術師が組み上げた魔術であっても例外ではなかった。




