1-28 願いⅠ
魔力の壁の向こう側から投擲されたと思しき剣は、たやすく障壁を貫き、消滅させた。
「……!?」
初めて侯爵が焦燥を露わにする。
掌が裂けるのも構わずに刃を握り、剣を引き抜き、投げ捨てた。
「来たか……」
「随分大げさじゃねぇか。心臓に刺さった訳でもあるまいし、たかが剣一本だろ。さっさと治せよ。俺なんて左腕が千切れかかってんだぞ」
程なくして、最奥に侵入を果たしたのは、能天気にぼやく黒髪の青年だった。
投げ捨てられた剣は、青年の腰の鞘に戻っている。
「お前が来たということは、あの者は敗れたのだな」
オドリオソラが敗北した事実を、侯爵はさほど興味が無さそうに確認した。
「あの者? なぁ、どっちの事だ? あの鼠は負かしてやったけど、アロイス・オドリオソラを屈服させることはできなかった」
「同じことだ」
敗北に違いなどないと、侯爵は一言で断じる。
「遅かったな、シノ。……どうしたんだ、その腕」
ユリアーネに、もう絶望感はない。
案じているような声にも力が戻っていた。
「もうちょっとで腕無くすとこだったよ。これでも急いだんだぜ」
軽口を叩きながら、気を失っているメルヴィナを、爪先でつつく。
「あれ……グウェンさん……?」
身を起こそうとして、打たれた腹部を押さえ、顔を歪めた。
「お前、いつもやられてるな」
「そ、それは間が悪い──」
言い返そうとしたメルヴィナだったが、シノの左腕を見て言葉を失った。
無数の裂傷、創傷がつけられ、血に染まっていない素肌が見当たらないくらいだった。
「シェイラはどうなってんだ?」
シノが顔をしかめた。
シェイラを見ても殺意は感じない。
狩るべき対象ではない事に、シノは少し安堵したが、その精気は間違いなく人間のものではなかった。
「力を与えられたらしい」
「あぁ、なるほど」
ユリアーネの言葉に、シノが頷く。
「何か知ってるのか?」
「詳しいことは分からない。でも、碌でもない事だということは知ってるよ」
「それは私にも分かる」
「グウェンさん、腕、腕です!」
メルヴィナが怪我の痛みも忘れて、大慌てでシノの目前に駆け寄った。
「腕がどうかしたか? 別に変わった所はない。女にしてはちょっと太いかもな」
シノがメルヴィナの二の腕を凝視する。
「なっ、私のではありません。あなたのです!」
「あぁ、これか。ちょっとな」
そう言って、肩を揺すると、だらりと垂れた左腕も揺られるままに、往復運動を繰り返した。
「ちょっとって、そんな……」
呆れたように言葉を詰まらせると、メルヴィナは右手をシノの傷口にかざした。
「応急処置ですが」
「悪いな」
メルヴィナの右手が仄かに光り、魔術の発動を証明しているが、シノの傷口には目立った変化はない。
「いえ……でも、魔力の通りが悪いですね……」
メルヴィナは額に汗を浮かべながら、焦るように呟いた。
「普通につけられた傷じゃないからかもな。もういい、ちょっと動かせるようになった」
そう言って、左腕を動かしてみせた。
「何をしに来たのだ、お前は? ……聞くまでもないか」
「俺はシェイラの意思を確かめに来た」
「英雄でも気取っているつもりか? 引き返したまえ。儂の邪魔はさせん」
「大英雄に英雄気取りだと言われるなんて、ちょっと光栄だな。でも……そうだな。俺は世界を救うなんて大それた事は言わねぇよ。自分の周りの小さな世界が平和なら、それでいい」
「……」
侯爵の表情は変わらないが、ユリアーネは聞き逃さなかった。
「大英雄だと? シノ、何を言ってる。……まさか──」
アイン・スソーラに、こと魔術に造詣の深い大英雄は一人しかいない。
押し黙る侯爵を見て、ユリアーネの表情が別の絶望感に沈んでいく。
「そんな……あり得ん!」
「アレイスター・クロウリーは、最上の魔術師だ。そんな事は誰でも知ってる。だから、彼の守りを何度も破れるのは、本人以外にいない。あんたは強過ぎる。何より──今俺は、あんたを殺したくて仕方がない」
「もう、擬態の意味はないか」
妄執に歪む老人の姿が、アイン・スソーラの大英雄にして、世界最高の魔術師のそれに変わる。
驚愕の後、ユリアーネに押し寄せてきたのは憤りだった。
「どうして! どうしてよりによってあなたがっ!」
「世界を救う事が、我が使命だからだ。この世界に召喚された瞬間から、変わることはない」
裏切りを糾弾する王女に、クロウリーは悪びれる様子もない。
「この国の発展に尽力した大英雄であるあなたが、民を犠牲にするというのかっ! 」
「私だからこそ、アイン・スソーラを贄とするのだ」
ユリアーネには、クロウリーの言葉がまるで理解できなかった。
自らが発展に力を尽くした国に、民に、仇なすに至る過程が、全く理解できない。
「私が成さんとしていることは、非道極まりなく、大英雄などという立ち位置とは対極に位置するものなのだろう」
「ならどうしてっ!」
「ならばこそ、良心の呵責という対価が必要なのだ」
心の均衡を保つために、自らの愛する国の犠牲が必要だと、かつて世界を救った大英雄は言ったのだ。
「そんな自己満足の為に、あなたは!」
「たった一人の人間が世界を救うなどと、それこそが究極の自己満足であり、無謀で傲慢な挑戦だ。だが、必ず成功させなければならない」
「あー、話は終わりか? 俺はただ、シェイラを返して欲しいだけなんだけどな。そうすりゃ大人しく帰るよ」
シェイラの精気は、いよいよ人外の魔力に塗りつぶされ始めている。
「シノ!」
ユリアーネがシノを睨むが、意に介した様子はない。
「怒ったってダメだ。シェイラの意思を確かめる。そのために協力しただろう? 」
「くっ……」
無念そうに口を噤んだが、確かに切迫している。
シェイラ・オドリオソラとて、守るべき民の一人なのだ。
「……分かった」
一つ息を吐いて、ユリアーネが頷いた。
「あんたいい王女だよ」
「当たり前です」
メルヴィナも、ユリアーネの隣に並ぶ。
「とりあえず、アレじゃあ、話にならないな。引き摺り出すか」
シノが腰の剣に右手を掛ける。
「いけるか?」
(いつでも。それより、あんな女よりも、こっちの男の方が良いわ! 一口齧っただけだけれど、とっても美味しい! 懐かしい味だわ)
「そうか。でも、そいつは後回しだ」
ゆらり、とシェイラが立ち上がる。
観察するように、ゆっくりと見回し、シノに目を留めた。
薄い光に照らされた顔には表情がなく、美貌が無気味さを浮き彫りにしていた。
「やはり、お前は……。そうか、そうだったのか! 見違えたな。人間らしくなったじゃないか」
シノへ向ける言葉からは、隠しきれない喜色が滲み出ていた。
「なんだ、俺を知ってたのか。そりゃそうだよな。そうじゃなきゃ、わざわざ自分の学校に入れたりはしない。その辺りの話も是非聞きたいもんだ」
クロウリーにはもはや、誰の言葉も耳に入っていない。
気づいた事実に狂喜し、巡ってきた幸運を、信じてもいない神に感謝してもいい気分だった。
「運命、などというものを、私は全く信じていないが、少し改めよう。やはり、最後に我が眼前に立ちはだかるのは、お前達でなければな! 危険を承知で、迎え入れた甲斐があったというものだ」
「聞いちゃいねぇな」
クロウリーを黙殺し、シノは再び弾丸となった。
最優先すべきは、戻れなくなる前にシェイラの中の魔を滅する事だ。
抜剣された剣が、中に潜む魔を切り裂かんとシェイラに迫るが、前進は呆気なく止められる。
それも、剣を杖で受け止められるという、魔術師らしからぬ物理的な手段によって。
「爺さん、無理するなよ」
「その剣にも見覚えがある。その詳細については、深く知り得る機会がなかった。純粋に剣としては、全くの鈍らだな。だが……なるほど。あらゆる魔術干渉を受け付けないのは真実らしい。私が自壊を命じても、揺らぎひとつないとは」
「シノ、下がれ!」
シノがクロウリーの前から飛び退くと同時に、ユリアーネが3本の氷槍を放った。
シノの前進を止めるには、かなりの集中を要したはずだ。
意識外からの攻撃なら、通用する──。
狙いも虚しく、氷槍は何の手続きも、前触れもなく顕れた炎の壁によって蒸発した。
「殿下は独学で魔術を学ばれたようなので、ご存知ないかもしれないが、我がシュミートにおいて、魔術師はまず、こういう言葉を胸に刻んでもらう。『魔術は意志の具現化である』と。だが、その言葉を体現し、シュミートを去った者は、ただの一人もいない」
「魔術に、詠唱が……必要ないのか……?」
大英雄という人間の認識を、ユリアーネは改めなければならなかった。
英雄譚とは、虚飾入り混じるものだが、たった24人で世界を救ったという力は本物だった。
その存在を巡って、世界中で戦争が起こりかけたというのも納得が出来る。
「然り。魔術師とは、言葉によって世界を誑かす詐欺師ではない。その奇跡によって、世界を侵す征服者なのだ。魔術を行使するのに、下らない詠唱も、束縛じみた理論も必要ない。『そこに在れ』と、命じるだけで事は足りる」
そんなモノ、もはやヒトではない。
攻撃に必要な手順を、完全に無視出来るということは、それが出来ないユリアーネ・ローゼンヴェルクには、勝ち筋など一つもないということを意味する。
だが、とユリアーネは気を持ち直し、顔を上げ、前を向く。
先には、その根拠たる、未だ戦意を失っていない黒髪の青年。
最も劣等の魔術師が、最上の魔術師に対しての希望になるとは、何の皮肉かと、ユリアーネは少し笑みを浮かべた。
「いいぞ、少し興が乗った」
クロウリーの魔力は冷気に変わり、氷の槍が形成される。
「模倣は趣味ではないのだがな。同じ魔術で競ってやるのも悪くない」
時をおかず、完成した2本の槍が射出される。
即座にシノが、剣を振るって切り払った。
剣身に触れた瞬間、文字通り氷槍は消滅する。
「理解し難い」
己の魔術の末路を、クロウリーはそう評した。
魔剣とは、特定の魔力を帯びさせた剣だ。
能力の劣る雑兵を、限定的にではあるが、詠唱を必要としない魔術師に仕立て上げる道具。
そう定義し、設計したのは彼自身である。
だが、あの黒い魔剣は定義から逸脱している。
動力源たる魔力を纏わず、あまつさえ魔力を消滅させ、無効化してしまう。
そもそも魔力を源に、予め仕組まれた魔術を発動する魔剣という武器において、あってはならない矛盾だ。
不可解な力の源、魔術無効化の原理、それらを説明する材料を、クロウリーは何一つ持っていない。
「試しておくか」
障害の迅速な排除よりも、未知の魔剣の分析を優先することにした。
クロウリーの周りに再び、氷槍が構築される。
その数は三十を超えていた。
狙いはシノ・グウェンただ一人。
ユリアーネとメルヴィナが、迎撃に必要な魔術を用意する前に、クロウリーの魔術は完結する。
間髪入れずに、槍の雨が降り注いだ。
精気を展開するまでもなく、存在を誇示する強力な魔力の捕捉は容易い。
棒切れを振り回すように、無造作に剣を振り、斬るというよりは、はたき落とすように襲いくる魔術を無力化していく。
(いやぁ! もう少しちゃんと振るいなさいよ! レディの扱いがなってないわね。あっ、ちょっと刃の向きが逆よ、逆! 自分に向けてどうするの! 痛い! そっちは攻撃を受ける方じゃないの!)
魔剣の悲鳴が身体を走るが、シノがそれに答えたのは、全てを無効化した後だった。
「あんなにいっぱい飛んでくるのに、刃の向きなんぞいちいち気にしていられるか。細かい事はいいんだよ」
(細かくないわよ! あなたお腹で攻撃を受けたりする!? しないわよね? ね?)
「はいはい気をつけるよ」
付き合いは極々短いが、分かったことが一つある。
この剣は口うるさい。
「なるほど。空間を介して、無効化は出来ない、あくまでも剣身と接触した魔力のみというわけか。ならばこれはどうだ?」
瞬間、部屋の内部が紅く染まる。
呼吸をする肺が、焼けるよう熱い。
顕現した炎は見上げる3人を呑み込まんと、巨大な赤い舌を伸ばすが、シノの一振りで、全てが無に帰した。
「一括りにされた魔術なら、規模は無関係か。やはり、解らないな。なぜ、魔術によって生じた熱までも消えるのか。まるで最初から無かったかのように……」
目の前の敵など眼中に無いように、クロウリーは落ち着きなく歩き回る。
「シノ、数秒でも彼をあの場に留められたら、お前はシェイラの所までたどり着けるか?」
「そんな事が出来るのか? 邪魔が入らないなら、瞬き一つ分で十分だ」
「魔力を水で染めてくれれば、だが」
「ヤツに水の魔術を使わせればいいって事か?」
「そうだ。容易くはないが──」
「おい、金髪。あと一回、あの雷が撃てるか?」
メルヴィナが目を瞬かせる。
「は、はい。それは可能ですが、恐らく届かないかと」
「構わない。準備を」
シノの言葉には、有無を言わせない、不思議な力があった。
メルヴィナが目を閉じ、魔力を現実に落とし込む為の集中に入った。
クロウリーはなおも、思索に耽っている。
「シノ、何を考えている?」
「王女さんの魔力は奪ったが、金髪の魔術に対しては、身を躱し、盾を創るに留めていた。魔力を奪えるのなら、そうした筈だ。なぜそうしなかった?」
「確かに……」
「しなかったのではなく、出来なかった。幾ら何でも飛んでくる雷に対しては、即応出来ないんだろう。金髪の魔術は発動が早い。初めて会った時、俺もそうだった。間合いに入っていれば、勘に頼った体捌きでもって避けるしか、方法が無かったからな」
「……待て、なぜそんな事を知っている? さてはお前、見ていたな。メルヴィナの言っていた通りだ」
「『いいや、十分だった』」
「似てないぞ」
「王女さんも、分かってただろ?」
「はぁ……。何となくそんな気がしただけだ」
「準備完了です」
メルヴィナは限界まで魔力を生成しているのか、顔が引き攣っている。
「始めるぞ、あの間抜け面を引っ叩いてやろう」
返事の代わりに、ユリアーネの極寒の魔力が空間に満ちる。
「雷よ!」
メルヴィナの右手が上がるとともに、引き絞られた弓から矢が放たれるが如く、白色の雷光がクロウリーを襲う。
「邪魔だ」
意識を向けていなくとも、クロウリーは反応してみせた。
手順をなぞるように、ユリアーネから奪った水の魔力で身を守る。
そして結果も変わらず、メルヴィナ渾身の魔術は、僅かに盾を削り取っただけ。
「よし。任せたぜ、王女さん」
剣が鞘を走る音と共に、シノが走り出す。
クロウリーが、再び杖を構えようとした時だった。
「《マイム・シフト・レド・ブライニクル》」
ユリアーネの魔術が、クロウリーの纏った水の盾を、真っ白に凍り付かせていく。
「なんだ、これは……」
同じ魔術で競うと明言した以上、これを違えることは、史上最高の魔術師の自尊心に傷をつける。
だが、この魔術は見慣れないものだった。
全く知らない法則によって、魔力が固定されている。
原理が分からなければ、これを否定出来ない。
反属性による消却でしか、対処する方法がない。
「炎よ、在れ!」
顕現した紅炎は、跡形もなくユリアーネの魔術を焼き払った。
クロウリーが、自尊心を克服するのに要した僅かな時間で、シノには十分だった。
「よぉ、顔色悪いぜ?」
「……」
シェイラに、言葉で反応する様子はない。
「もう引き下がれないか。でも、俺も引き下がれねぇ。まだ、お前の意思を聞いてないんだからな」
「貴様!」
余裕などかなぐり捨てて、クロウリーが炎をシノへと向ける。
それよりも速く、魔剣がシェイラを貫いた。
瞬間、莫大な魔力の奔流で溢れかえる。
「くそったれ……!」
剣を抑える右腕に激痛を感じながら、シノが剣を押し込む。
(離れなさい! あなたが保たない!)
「構うものか! 絶対諦めねぇぞ!」
魔剣の警告を無視し、左手でシェイラの手を掴み取る。
僅かに残る、慣れ親しんだ精気を手繰り寄せる。
それは氾濫する巨大な水流に腕を突っ込み、人間一人を探し当てる行為だ。
だが、諦める訳にはいかなかった。
諦められる訳がない。
今握りしめているものは、この世界でのたった一つの縁なのだから。
「戻って……来いっ!」




