1-27 愚者の選択Ⅵ
最奥の扉の向こうは、咽せるぐらいに香が焚かれ、充満した魔力は、身体に重さを感じるまでに淀んでいる。
香炉が円形に配置され、その中央に銀髪の少女が蹲っていた。
「シェイラさん!」
炉を蹴飛ばしながら、メルヴィナがシェイラを助け起こした。
「あれ……ウォールズ……? シノは……?」
シェイラの顔は色を失いかけ、熱に浮かされたようだった。
「彼なら、後から来ます」
「そう……。やっぱり来たんだ、アイツ」
苦しみが支配する中で、銀の髪が張り付いた頰を僅かに緩ませる。
ユリアーネは厳しい顔で考え込んだ。
恐ろしいのは、目眩のするほどの魔力そのものではなく、これが何の為に集められたのか、どこから生成されたのか、解らない所にある。
「一体何のために……」
「本来であれば、儂とお前たちが顔を合わせる予定はなかった。狂わせたのは、あの喪失者か」
ユリアーネの黙考を中断させたのは、横あいから割り込んできた尊大な声だった。
物言いとは対照的な、杖をつき、痩せ細った枝のような痩躯。
幽鬼のような風貌が、かえって鋭い眼光を際立たせている。
オドリオソラの家に生を受けながら、才に恵まれず、偉大な父の幻影に畏怖し続けてきた劣等感が、顔に消えない皺を刻みつけていた。
「耄碌したな。王家に対する敬意も忘れたのか、侯爵。いや、トラウゴット・オドリオソラ」
「殿下は王城におられる」
「あぁ、そうだったな」
白々しい建前に、ユリアーネが言葉を吐き捨てた。
「シェイラ・オドリオソラに何をした?」
「別段、何かを奪ったわけではない。むしろその逆だ。与えたのだよ」
「与えた?」
「言葉にするより、見たほうが早かろう。既に仕込みは終えている。《神は君の為にこそ機能する》」
聞き慣れない言葉と共に侯爵の手にした杖が床を叩くと、シェイラが苦しげに身をよじった。
「っ……!」
思わずメルヴィナが、シェイラから手を離す。
「なんだ、これは……!? 人間……なのか?」
ユリアーネには、魔力の総量の見当もつかない。
とても一人の人間が扱える魔力の量ではないし、たとえ持てたとしても、負荷に耐えられないだろう。
「私達は神に魔力を与えられ、生まれてくるそうだな?」
侯爵は落ち着き払っている。
「それがどうした。子供でも知っている話だ」
ユリアーネは、既に逃げる算段をしていた。
シェイラがもし、敵に回るのなら勝ち目はない。
メルヴィナに目配せをする。
「では何故、与えられる魔力には差異が生じる? 一体、何を基準に魔力を与えているのだ?」
「それは──」
アイン・スソーラで生きていれば、いや、この世界で生きていれば当然の事だ。
気にしたこともなかった。
侯爵の言葉は、まるで講義でもしているかのように穏やかだ。
「何のことはない。神とやらは何も考えていない。ローゼンヴェルクの人間が強大な魔力を持つのは、地理的な要因によるものだ。現に、王家の血を引くオドリオソラは、恩恵に預かれてはいない。秘術も、元々は貧弱な魔力を補うためのものだった」
ユリアーネは、侯爵の意図を掴みかねていた。
目的が、この暴挙に至るまでの背景が見えてこない。
「目的は叛逆か?」
侯爵は、首を横に振る。
「まさか。朽ち果てるはずだったオドリオソラに居場所を与えてくれた。感謝の念に堪えん」
「分からないな。なら、何のためにこんな大それた事をしでかした?」
「世界を救うためだ」
救世を成そうとする自己に酔うでもなく、むしろ疲れた様子さえ見せて、侯爵は大願を告げる。
「何を……言っている」
忙しく回転していたユリアーネの思考が止まった。
冗談を言っている様子ではない。
彼は、紛れもなく魔術師だ。
詠唱を紡ぐ唇で、虚偽を口には出来ない。
侯爵は、本気だった。
少なくとも本人はそう思っている。
「『大災厄』は繰り返される。遠くない未来、2度目が起こる。その時、国を纏めるのは、ユリアーネ王女殿下、貴方だ。今の陛下に、その力はない」
ユリアーネは、自分が立っている地面が無くなったような気がした。
実際に経験したわけではないが、その酸鼻を極めた惨状は、書物や城での教育において、知識としては持っていた。
人民、国、世界。
『大災厄』による被害は様々な規模から、検証されているが、どの資料も決まって最後は、過去最悪だと結ばれる。
「しかし、手はある」
侯爵が厳かに言った。
囁くような小さな声だったが、ユリアーネの耳には、鐘を打ち鳴らすが如く轟いた。
控えるメルヴィナは、固く目を閉じている。
「……どうすればいい?」
餓えた人間が食料を求めるように、答えを欲するユリアーネを見て、侯爵が薄く笑みを浮かべた。
「簡単な話だ。悪魔を凌駕する戦力を用意すればよいのだ。かつての『大災厄』で、この世界の住民がそうしたように」
「再び、大英雄を召喚するというのか?」
ユリアーネの言葉を聞いた侯爵は、不快げに杖で床を鳴らした。
「大英雄、大英雄と……。そのようなモノに頼らずとも、己の国くらい守られよ。答えはそこにある」
床を叩いた杖が、未だ起き上がれずにいるシェイラに向けられる。
「今はまだ、混じっているだけだが、合一を果たせば、絶対的な力となろう」
「彼女が……戦力か?」
「『魔人』……儂はそう呼んでおる。無論、これだけではない。術式が確たるものになれば、量産することも出来る。魔人の軍は、文字通りの無敵の軍勢となる」
「そうか……」
食い入るようにシェイラを見つめるユリアーネが、侯爵の目にはどう映ったのか。
「我が国の王女殿下は、賢明なお方だ。貴方が、本当にユリアーネ・ローゼンヴェルクだというのなら、分かっておりますな?」
「そうだな」
頷くユリアーネに侯爵がにぃ、と笑う。
そして、恭しく頭を下げた。
「ありがとうございます。実を言えば、貴方は後々の国を治めるのに不可欠な人材。どう味方に引き入れようかと、考えあぐねておりました」
「確かに、私はユリアーネ・ローゼンヴェルクだ。なら、お前を止めなくてはならないな」
「……それは愚かな選択だな」
侯爵の目が鋭く細められた。
「メルヴィナ!」
従者の名を叫びながら、ユリアーネは室内を水の魔力で満たす。
「はいっ!」
ユリアーネが稼いだ時間で準備は万端。
名を呼ばれた時には既に、雷が顕現しつつあった。
雷は、水の魔力の中を走り、真っ直ぐに侯爵を狙った。
老体に似合わぬ俊敏さで、侯爵は身を翻す。
雷は、侯爵のローブを僅かに焦がしただけ。
「水と雷。共闘する魔術師とは、やはり厄介なものだな」
「雷よ!」
三条もの雷撃が、それぞれが意思を持った蛇のように頭を振り上げ、侯爵に襲いかかる。
侯爵が杖を振り上げると、ユリアーネの操っていた水の魔力が集い、メルヴィナの雷撃を防いだ。
「リアン様!?」
驚いたメルヴィナがユリアーネを見るが、首を横に振った。
「あれは私の魔力ではない」
ユリアーネほどの魔術師が、自分の魔力の制御ができない。
異常事態だ。
何らかの外因によるものとしか考えられない。
心当たりは一つだけ。
メルヴィナが、老魔術師に疑いを向ける。
侯爵は肯定するかのように、口元だけで薄く笑んだ。
他の魔術師の意思に染まった魔力を奪う。
それは、同じ量の魔力を用意する何倍もの労力を伴う。
そして、他人の思考を完璧に把握し、より強い力で干渉しなければできない、常識の埒外の所業だ。
そんな事ができるなら、魔力を奪うなどという回りくどい事をせずとも、より強い魔力を自分で用意した方が遥かに楽だ。
非効率の極みといっていい。
「顕現し、世界に認知される前の魔力を操る。それが儂の魔術師としての奇跡だ。有り体に言えば、私の魔術はこの世界の人間が言う所の神よりも速く、神にも否定させん。秘術なぞ、その副産物に過ぎん」
惜しげも無く、侯爵は自らの魔術の一端を明かした。
「めちゃくちゃです……」
メルヴィナは思わず身を震わせた。
笑いさえ込み上げてくる。
言葉が事実だとすれば、戦闘の殆どを魔力に依存する魔術師では、絶対に後れをとることになる。
いや、とメルヴィナは頭の中で絶望を打ち消した。
心の中には、黒髪の少年。
彼なら或いは──。
「メルヴィ、逃げるぞ。相手が悪すぎる」
ユリアーネが半歩後ろに退がる。
その退路を断つように、魔力の壁が両腕を広げた。
「従えないというなら、仕方があるまい。だが、王女という外側は必要だ。置いていって貰うぞ」
作られた魔力障壁は強固なものだ。
逃げられるだけの隙間を作る前に、侯爵の手に落ちるだろう。
逃げ道を失ったユリアーネは、すぐに反撃に転じた。
「《レド・スペスナズ》」
魔力は水となり、氷槍を形作る。
「実に精巧な魔術だ。だが、精巧に過ぎる。そのような繊細な魔術では、少し過程を弄ってやるだけで──」
構築された氷の槍は両手の指を超えている。
その放たれる先が自らの身体であっても、焦ることもなく、侯爵が何事か呟いた。
「全ては瓦解する」
完成しつつあった氷槍は、白い冷気を残して消えてしまった。
魔術の中止を強制され、行き先を失った魔力がユリアーネへとはね返った。
「化け物が……」
堪らず、ユリアーネが膝をついた。
「だが、狙いは悪くない。手数を増やし、始動を早めたのか。単純だが、有効な手だ。ただ、その程度では誤差だがな」
乾いた杖の音を響かせながら、、ゆっくりと侯爵がユリアーネへと歩み寄る。
「させません!」
再びメルヴィナが雷撃を放つが、侯爵は目を向けもせず、魔術は盾のように展開された水の膜を貫くことも叶わずに、表面を僅かに蒸発させるに留まった。
「水というものは本来、通電性を持たない」
侯爵が鷹揚に手を振ると、水が凝縮され、飛礫となってメルヴィナを強かに打った。
壁際まで吹き飛ばされたメルヴィナは、動かなくなった。
「存外に手間が掛かるな」
「まだ付き合ってもらうぞ。《レド・スペスナズ》」
ユリアーネが、再度同じ詠唱を紡ぐ。
「無駄だ。まだ遅い」
今度は形になる前に、魔力が霧散した。
「いいや、十分だった」
状況に不釣り合いな自信に満ちた声。
眉をひそめた瞬間、風切り音とともに、侯爵の胸に剣が突き立った。




